1(2003.6 掲載)

 『漢字と日本人』(高島俊男、文春新書)

 『お言葉ですが…』はじつにおもしろくてためになる本だったから、これも間違いなかろうと思って買った。期待に違わぬ名著。
 単なる漢字論ではない。日本人の精神史でもある。今後の日本人の生き方の大きな指針ですらある。結論にむかって伏線を周到に用意する。多くの支流が集まって一本の大河になり海にそそぐさまを見るようだ。近代化とは西洋化のことだという指摘には、目から鱗が落ちる思い。そういう学術用語は既知の事実として使われるが、なんだかうすらぼんやりしていてつかみがたかった。これでなっとくがいった。ほんの一行でてくるだけの言葉なのだが、著者の学識や立脚点をしめす一言だろう。
 日本語が文字を持たない未発達なところへ高度な漢字が入ってきたため日本語の発達が止まってしまった。抽象的な概念をあらわすにはシナ語である漢語にたよらざるを得ない。 福祉という言葉がわからなかったが、わからないはずだ。漢語は同じ意味の語でも2字にする癖があるのだ。そういうことがこの本でわかった。
 「おほきみはかみにしませばあまくものいかづちのうへにいほりせるかも」を表記するのに「皇者神二四座……」とやるわけだが、最後の「かも」に鴨の字をあてるのはいたずらっけ。戯訓。 
 江戸時代以前の和製漢語には、漢字の意味から言葉の意味がでてこないものがある。たとえば、心中、無茶、大切など。当て字なのだろう。それをわれわれはきまじめに辞書を引いて意味を調べようとして挫折するわけだ。
 動詞の連用形を名詞として使えるのも日本語の特徴。連用形、連用形。
 日本人はまぎらわしい同音異義語を楽しんでいる風がある。私立をワタクシリツ、市立をイチリツと注釈を加えながら話す。ワタクシノシアン、ココロミノシアン。キシャノキシャガキシャデキシャスルとパソコンで打つと一字一句まちがえずに変換する。日本人が作ったパソコンだからだ。
 言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系である。言語は思想そのものだ、と著者はいう。まことに同感。空はsky、猫はcatというふうな単なる置き換えではない。
 明治初年の日本人は、これまでの日本は無価値だと考えたが、昭和の敗戦後の日本人は、これまでの日本はいっさいが邪悪であったと考えた。と著者はいう。たしかに映画「聞けわだつみの声」を見たときはあまりの日本嫌悪に驚いたものだ。冒頭は東大文学部のフランス文学科におけるモンテーニュの講義風景から始まる。よき時代の良心の象徴として。末尾でもこれからの日本の進むべき方向の指針としてモンテーニュの講義風景が使われる。途中のよき思い出として回想されるのもやはりクラッシックの演奏会であり、決して邦楽の演奏会や民謡大会ではない。当時の日本人の思想を如実にあらわしているのだと思った。
 止めるでは、とめるかやめるかわからない。その方では、そのほうかそのかたなのかわからない。友達と書くことにはなんの意味もない。そういう高島氏には、『日本語のかきかた』という本を書いてもらいたい。 

 『ことば遊び』(河出書房新社発行「ことば読本」の一)編集部編のアンソロジー

 「ことばの漫画」(池田弥三郎) にびっくりするような一節を見つけた。《何々的という日本人の大好きな「的」も、もとは「ティック」の音をそのままに的におきかえたのだ。》とある。ほんとうだろうか。
 「字謎の伝統」(織田正吉)。万葉集の「いぶせくもあるか」をあらわす万葉仮名に「馬声蜂音石花蜘蛛荒鹿」というのがある。万葉人は馬の鳴き声をイーンと聞き蜂をブーンと聞いたので、馬声蜂音でイブ、石花はカメノテの古称でセ、蜘蛛はクモ、そこに鹿を加えて動物づくしをした表記法。これを字謎という。べつの歌に牛鳴とあるはム。万葉仮名という不便な表記法を逆手にとって遊んでいる。
 「出で」は山上復有山。出るという字を分解して山の上にまた山ありと書いた。 それが解明されるまで「やまのへにまたあるやまは」とよんでいた。わからんはずだよ洒落だもの。万葉集にはまだよめない歌がたくさんあるという。
 鯛釣り船に米をひさぐ、さかさによむと、くさいおめ……。倒言という。

 『異文化はおもしろい』(講談社選書メチエ)はおもしろくない。はずれ。
 アジア・アフリカ編、ヨーロッパ編、アメリカ編、それに異文化が照らす自文化という構成。冒頭に女優の星野知子が寄稿しているほかは、ほとんどが東大出身者。高級お遊び雑誌のようにそうそうたるメンバーが退屈な作文を寄せている。アンソロジーはむつかしい。
 編集方針のミス。地域でなくテーマで書かせたほうがよかった。風呂、挨拶、など。具体例を3つあげて1つの抽象を得る。概論はむなしい。各筆者たちも何を書いていいかわからず、てんでばらばらな抽象論を展開している。異文化交流が最近のはやりだが、本にはならない。カルチャー・ショック、文化摩擦がおもしろい。
 唯一興味を引かれたのは、インド哲学者宮本啓一「超ロジカルな人々の国インド」。インドの女子大の寮に入った日本女性の話がおもしろい。インド人女性は「ありがとう」を言わない教育を受けている。そのため何かにつけてありがとうを言う教育を受けて育った日本人に腹を立て、ついには「今度ありがとうっていったら、わたしあんたを殺すかもよ」とまで言う。それまでにもさまざまな文化摩擦に悩んでいた彼女は、これで寮を出ることになる。

 『読書欲・編集欲』(津野海太郎、晶文社)

 終戦直後の本に飢えていたころの原体験から、読みたい本がないなら作ってしまおうというので編集者になった著者。もったいない精神が本造りの基本になっているようだ。共感する。たとえばラジオでいい番組をやっているのに、そこには膨大なエネルギーが注がれているのに、オン・エアしたらそれで終わりというのはもったいない。
 日本人の年間紙消費量は、ひとり240キロ。中国人は20キロ。これがもし13億人が日本並みに使ったら、すさまじい紙飢饉が起きるだろう。《いまから百年後、人まえで平気で分厚い本を読むような無神経な人間にたいして、こんにちの社会で喫煙者にそそがれるのと同様の冷たく批判的なまなざしが向けられるようになったとしても、私はおどろかない。》という危機感からすこしでも紙の負担を減らそうとしてコンピューターを利用するのだという。雑誌「本とコンピュータ」を主催するゆえんだ。
 35年前の日本では年間1万5000点だった出版点数が、今日では6万5000点。『出版社と書店はいかにして消えていくか』(小田光雄、ぱる出版)という本が紹介されている。
 オンライン書店に期待している。なぜなら現在の出版界は「いますぐ売れる本」しか扱わないのにたいし、検索システムは新刊と旧刊、売れる本と売れない本の区別をしないからだ。というのだが、本当にそうだろうか。紀伊国屋のブックウェブでは,文庫・旧刊は内容に関するデータが少ない。タイトルと著者名だけでは、よほど有名な確実なものでない限り買えない。
 とはいえ、いい本をできるだけ丁寧につくり、時間をかけて売ろう、そのほうが商売になるという感覚をよみがえらせてくれるだろうという期待には賛成だ。
 日本のオンライン書店はアメリカのに比べてデータが貧弱なので、アマゾン・コムで調べて日本の書店で買うという知恵をさずけている(ふと思いついたのだが、ブックウェブはデータのなかに組み見本も入れてほしい)。
 具体的な知恵もうひとつ。インタビューで録音するときは、テレコを2台用意し、1台はインタビュー開始3分まえにスタートさせる。そうすれば電池切れやテープ交換の際のとぎれがなくなる。
 手写本の話。福沢諭吉は、家老の息子から貴重な原書を借り、20〜30日こっそり家の奥にこもって丸写しした。この手がよほど自慢だったらしく、お殿様の最新物理学書を2晩だけ借り受け、適塾の弟子たち総動員で写し取ったときのことも書き残している。《それから後は、塾中にエレキトルの説が全く面目を新たにして、当時の日本国中最上の点に達していたと申して憚りません。》これだけ苦労してコピーすれば身に付くことだろう。簡単にコピーできたのではありがたみもない。しかしそれにしても昔のひとは2晩がんばるだけで日本一になれたのだから楽なものだった。横のものを縦にするだけで学者然として威張っていられたのだ。

 『ラジオを語ろう』(秋山ちえ子・永六輔、岩波ブックレット)

 ラジオと本を結びつけられないものかと思って読んでみた。 
 ラジオでは同じことを繰り返して話すのがわかりやすくするコツ。だからテープ起しするとくどくなる。刈り込みが必要。
 ラジオのなかには宝がいっぱい詰まっていると永は言う。津野の「もったいない」と同じ感覚だろう。活字にするのは、もったいない宝を保存する一法。
 ラジオはテレビと違って言葉だけの世界なので、豊かで気持ちのいい言葉遣いを心がける。そういう努力が世間から減ってきている。犯罪も無言で理解不能なものが増えてきている。
 テレビが「みなさん」を相手にするとすれば、ラジオは「あなた」を相手にしている。活字に似ている。