2(2003.7 掲載)

 『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎、中公文庫)

 大学生のころ一度読んだが、そのときほどの感動はない。だいたいこのての老人文学(といっても1933年の作だから谷崎47歳)は、「若いころ読んだときには気づかなかったおもしろさを発見した」という感想になるものだが。
 たしかに文章はなめらかで読みやすく滋味に富んでいる。こういう随筆を書いてみたいものだと思う。しかしあまりなめらかなのも考えもので、すらすら進んでしまうと引っかかりがなくて読み飛ばしてしまう。ここが文章の難しいところ。山本夏彦などは、わからなくなる寸前がいいと言っている。もっとも夏彦翁のは寸前をこえていると思うが。
 いかに薄ぼんやりした暗さがいいといっても、もはやわれわれの暮しは煌々たる電灯を前提としてしまっている以上、日本の食器は昔の薄暗い家屋のなかでこそもっとも美しく本領を発揮するようにできているといわれても、まあそりゃそうだろうけど、そういわれてもなあととまどうばかり。
 わが国に西洋とはまったく異なる物理学が発達していれば、《いや、恐らくは、物理学そのもの、化学そのものの原理さえも、西洋人の見方とは違った見方をし、光線とか、電気とか、原子とかの本質や性能についても、今われわれが教えられているものとは、異った姿を露呈していたかも知れないと思われる。》という指摘はおもしろい。原子の本質などは、どこの国のどの学者が研究しようが同じ結論に達するはずだ、それこそが科学であるとわれわれは信じているが、意外に谷崎の言い分のほうが正しいかもしれない。
 肉体もまた思想に左右されると「恋愛及び色情」で述べている。横浜神戸の売笑婦に聞いてみると日本人男性の性欲は西洋人にくらべて淡白だが、これは房事につかれやすく、そのため果てたあと何となく浅ましいことをしたという感じを起こさせるし、気分を暗くさせ、ひいては消極的にさせるのだと。《あくどい淫楽に耐えられない人種》であるという。
 旧字旧かな、糸かがりの本で読めばもっとおもしろかっただろう。だが、そこらの古本屋には古い本は売ってない。

 『桑原武夫全集第三巻』(朝日新聞社)から「第二芸術」「谷崎潤一郎氏のインエイ・ライサン」などを読む。ともに終戦直後の文章。桑原を読むのは初めて。仏文学者らしく明晰な文章、健全な精神。
 なぜ「第二芸術」を読もうと思ったかといえば、日本文学におけることば遊びを少し研究してみると、まるで日本の文芸はくだらないことば遊びしかやっていないような気がしてきて、桑原が第二芸術といって攻撃したのはそのことだったのかと確認したくなったからだ。
 そうではなかった。「現代俳句について」という副題がついていた。専門家の俳句10句と素人のを5句、作者名をあかさずに並べ、さあどれが名家と呼ばれるひとの作か当ててごらん、わからんだろうという攻撃的論文。優劣どころか大家のものは「まず言葉として何のことかわからない」とてきびしい。まあたしかに「腰立てし焦土の麦に南風荒き」なんていう句ではなあ。お腹立ちはごもっとも。
 日本の文芸が西洋に大きく後れをとっているのは、菊池寛全集とトルストイ全集を比べてみれば一目瞭然であるという。菊池寛は当時それほど評価が高かったのだろうか。それともしらっとぼけたイヤミなのだろうか。
 戦時中、文学報国会ができたとき、俳句部会のみ異常に申し込みが多かった。戦後、迎合した作家は書けなくなったのに、俳人だけは相変わらず大家の地位を守り得ている、と。このあたりが論文を書かせた原動力だろう。
 俳句は芸術ではなく芸だというのが趣旨。読まず嫌いではない。桑原はかなり俳句短歌に通じている。芭蕉に関しては通暁していると言っていい。
 それでも現在わが国の俳句人口1000万人、これほどの詩人を擁する国はほかにあるまい、わが国は世界に冠たる文化国家だとオレは思うのだが、そこらへんも周到に反論している。当時もやはり長谷川如是閑が同様の意見を述べていて、それに対し桑原は、フランス滞在中、「下宿の食卓の談話にすら、下手な付合いに劣らぬ言語の芸術的使用を認めることがよくあった」という。フランス人は芸術をもっと高いものと考えているので、その程度のことば遊びを芸術などとは思わないのだ。
 ヨーロッパは偉大で日本は矮小という信念で貫かれているところが不愉快。でも反論できない。
 「インエイ・ライサン」のほうはタイトルからしてオチョクっている。停電続きでうんざりしているのにこの上インエイなんかライサンできないという出だし。オレが上に引いた箇所、「電気とか電子とかの本質」(中公では原子)を桑原も取り上げている。無茶だと思ったのだろう。
 むかし南部藩では窓を1つ作るごとに窓税をかけた。こんなに非人間的な税を知っていたらインエイ・ライサンなどという言葉を口にしたくなくなると学者らしく無学な小説家をしかる。谷崎より長く京都に暮らす桑原は、谷崎のたたえる「わらんぢや」の闇も知っているが、そこに出入りしていた芸妓の、「薄暗がりが美しいなんて思わないし、蝋燭では着物の裾がすすで汚れて困る、なぜ電灯をつけないんだろう」という言葉でしめくくっている。ひょっとしたら桑原は、関東大震災のあとで引っ越してきた谷崎のことを、お上りさんだと思ってバカにしていたのかもしれない。
 むかしの本は開きがいい。輪ゴムで書見台にくくりつけなくてもじっとしている。

 『禁酒宣言』(上林暁、ちくま文庫)の数篇を読む。
 編者の坪内祐三は激賞しているけれども、全部読む気にはなれない。不徹底な太宰治といったところ。終戦直後の阿佐ヶ谷の飲み屋を舞台にした私小説。出てくるのは安飲み屋ばかりで、店にはなにも肴がない。障子を開けて畳の部屋にあがると、女将は赤ん坊に添い寝して乳を含ませている。自分で一升瓶からカストリを薬缶についで燗をするといったあんばい。終戦直後の飲み屋の様子はよくわかるが、何百ページも読んでいるわけにはいかない。知っている場所が出てきたらもう少し興味をひかれたろう。こんど阿佐ヶ谷図書館で阿佐ヶ谷文士村の本を探して読んでみようかな。
 巻末に2世ふうの名前の人物が解説を書いているが、これは坪内だろう。
 ページの落ち着きがいいので思ったのだが、はねるのは製本法のせいだけではなく、紙質にもよるのだろう。ツカを出すために厚手の紙をつかうとはねやすくなる。文庫用紙だとそれがない。桑原武夫全集の開きがよかったのも、全集用紙を使用しているせいではないか

 『ことば遊びの文学史』(小野恭靖、新典社)を読んでいるとうんざりしてくる。大学の先生が講義録を本にしたものは、体系だってはいるものの退屈。ことば遊びも列挙されると、ほかにもっと大切なことがあるんじゃないのと言いたくなる。日本文学の底の浅さを感じずにはいられない。
 伊勢物語だったか「かきつばた」を折り込んだ「唐衣着つつ慣れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思う」を初めて知ったときはうまいこと作るものだと感心したが、そんなものばかり読まされたのではたまらない。
 この伝統は「なのはな」を「なでりゃ 毎日 のびてる 髭が はげた 頭に なぜ生えぬ」と折り込む都々逸に継承されているが、もうお笑いの分野でしか相手にされないだろう。

 『ヤクザの実戦心理学』(向谷匡史、KKベストセラーズ)

 ムカイダニタダシ、1950年生まれ、拓大卒、週刊誌記者を経て編集企画会社を経営するかたわら、ヤクザ本多数執筆、空手道場館長と聞けば、懐かしの梶原一輝や真樹日佐夫を思い出す。こんな本誰が読むんじゃいと思ったら、2ヶ月で8版。奥付が正しいなら。KKベストセラーズでは怪しいもの。しかしおもしろい。役に立つ。
 ウラ社会、ウラ経済に興味がある。ヤクザとの縁など一生ないとは思うが、彼らのほうではスキあらばと手ぐすね引いて待ちかまえている。手口は知っておいたほうがいい。
 ヤクザは暴力を嫌う。法律が怖いから。目や言葉、態度、服装などで脅す。毒蛇の体色と同じ。心理学のプロ。
 200万円取ろうと思ったら500万とふっかける。さんざんやり合っていよいよ決裂となりかけたら200万に減額。相手はまんまと引っかかる。
 言顔不一致。口ではイエスといいながら顔でにらみつけてノーという。相手は真意を測りかね不気味になる。
 バンドワゴン効果。お祭りの軍楽車に浮かれ、みんなと気持ちが一体になること。「みなさんそうなさってますよ」といわれたら要注意。
 タンカは早口で。話の内容はどうでもいい。迫力で言い分を通すのがねらい。鈴木宗男はこの方法を身につけた。肺活量の足りない頸損はヤクザに向かない。
 どこかで発砲事件が起きるとヤクザは喜ぶ。天下太平がつづいたのでは堅気の衆がヤクザの怖さを忘れてしまうから。
 きょう(3.7)本屋へ行ったら同じ著者の『ホストの実戦心理学』が平台に山積みされていた。実戦心理学というフレーズが当たったのだろう。