6(2003.11 掲載)
『かくしてバンドは鳴りやまず』(井田真木子、リトル・モア)
ところが書見台にセットして読みはじめたらどうもおかしい。私がオイルマンだったころと書いてある。小林が石油会社に勤めていたなんて聞いたことがない。よく見たら、落合信彦だった。カバーははずしてしまうしページは目次からはじめるので著者名も出版社名も目に触れない。青春出版社、こんなことでもなければ読むことのない出版社。本のあいだにアデランスのチラシがはさんである。どうかと思う。全体にやっつけ仕事。 「ユダヤ人の鼻は、なぜでかいのか」 「空気はただだから」 といったエスニック・ジョークは嫌いではない。むしろ期待した。差別ジョークばかりを集めて、その背景を探る本が読みたい。しかし現代史の解説に紙幅がついやされ、肝心のジョークが少ない。私がサッチャーにインタビューしたとき、とか、自慢話が鼻につく。 登場人物もケネディ、フルシチョフと古い。読者の期待に添えないのではないか。エリツィンが出てきてプーチンが出てこない。ヘンだなあと思いつつ巻末まで来てようやく2000年1月に出した『ジョークでさらば20世紀』の文庫化であることがわかった(そういうことは巻頭に書けよ。どこの出版社でもつごうの悪いことは巻末に小さな字でもうしわけ程度にしるすのみだ)。文庫化に当たってはタイトルを変えるだけでなく新ネタを補充したかった。 スターリンの遺体処理に困ったソ連政府は、外国に引取りを依頼するが、どこからも断られてしまう。最後にイスラエルだけが受け入れると言ってきた。それを聞いたフルシチョフは言った。「あそこはダメだ。あそこでは過去に一人生き返っている」
久しぶりに美しい本を見た。ジャケットがいい。一昔前の岩波風。表紙がいい。図案化した波模様が印刷されている。目次を見れば担当者の編集歴が分かる。10年以上と見た。本文の組みも、ハシラがすこし本文天から離れすぎているように思うが、かっちりしたもの。 まえがきを読んだだけで著者が分かる。手堅い仕事をするひとで、編集者も「塩野さんなら大丈夫」と安心しているにちがいない。全国13人の沿岸漁業の漁師にインタビューした聞き書き集。「新潮45」に連載されたもの。 ただし手堅いからおもしろいとは限らない。あきる。むかし読んだ宮原昭夫の伝統漁法をたずね歩く本のほうがおもしろかった。何が悪いのか。産業としてとらえる視点か。それとも民俗学を意識しているためか。 インタビュー相手は総じて年寄り。むかしはものすごくよく獲れた、それが漁具の発達、乱獲、海の汚染で獲れなくなり後継者もいないとみんなが口をそろえる。あと10年もしたら日本の沿岸漁業はほとんど姿を消すのではないか(後継者がいないことは救いでもある。誰も獲らなければまた魚はふえるから)。 大間のマグロ一本釣りの話はおもしろい。やはり魚と1対1でたたかう知恵と体力の話が今も昔もいちばんおもしろい。
茶話(ちゃばなし)といえば15、6年前に冨山房から『完本茶話』全3巻が出ているが、抄録が出たのを機会にどんなものかのぞいてみようと思った。抄録のほうがいいばあいもある。アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』(岩波)にしても、後にどこかから全訳が出たが、時代背景が分からなければ楽しめない項目が多く、出版の意味は薄いと感じた。研究者なら原文に当たればいいわけだし。 坪内祐三の解説によればこれが新聞に連載されたころは大変な人気で読者はまずこれから読んだということだが、いかんせん登場人物が古い。マーク・トウェインが雄弁でならす政治家とふたり講演に招かれ、まずトウェインがすばらしい講演をしたあと、つぎに立った政治家は「じつは講演の原稿を取り替えたのだが、私は彼の原稿を紛失してしまった」といって降りてしまった。翌日ある紳士がトウェインに近づいて言うには「あの政治家のスピーチはたいしたことありませんでしたな」と。こんな短文が並ぶ。 物事の本質は変わらないから人名を変えれば今だって十分通用するものだが、知らないひとだと興味が半減する。肝心なことはギリシャ時代に言い尽くされているにもかかわらず、いまだに本が出版されるのはそのためだろう。 文章の質といい長さといい国語の試験問題に好適。
病気と貧困の悪循環を断つことが課題。医学が発達していなかったせいか、医療行為は二の次のようだ。
小説を志すひとびとに向けて書かれた小説作法。「文学界」に12回にわたって連載されたもの。 名文のお手本として谷崎が頻繁に出てくる。同業他者の悪口は出てこないが、唯一三島の『金閣寺』が俎上に上がっている。一節を引き、私がいま言ったことに注意しながらこれを直してごらんとまで言っている。 読んでみようかなと思ったもの。山田詠美『ベッドタイムアイズ』、谷崎『痴人の愛』『刺青』『細雪』、漱石『虞美人草』、モオリア『レベッカ』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』。 『細雪』の導入部をほめて《この導入部の見事さは基本設定であるらしい事柄が出揃っており、だがどれを取っても、全き表現となっていることである。四百字詰原稿用紙で八枚半ほどのもので、その短さでよくここまで創造できたと感服せずにはいられない。》と言っている。オレも『瘋癲老人日記』を読んだときは同じ感想をいだいた。 そのほか、よい文章には健康的な脈拍がある、とか、おもしろい作品を読むと《人間とこの世というものが、その作品を読むまえよりも新鮮さを帯びて感じられてくる。》という箇所に共感。 いかに生きるべきかを問う作品は書いたことがない、と書いたら、それでも読者はやはり人生いかに生きるべきかを探ろうとするものなのだと武田泰淳に言われたという。なにか教訓めいたものを吸収しようとするわけだ。第一そういう傾向のないひとは小説を読まないのだろう。 ネガティブな表題は避ける。ネガティブなものは内容がよくても売れない。 一人称では自分の頸筋が書けない。私小説に三人称体をつかったほうがいいばあいもある。 一元描写は一人の視線による描写。多元描写は二人以上の視線。多元のほうは大衆文芸で使われ、通俗的とされた。それは作者の見たままを書くという自然主義文学の影響。 多元描写のばあい、視点のひとつに端役脇役の目をつかうとよい。《複雑な感想をもたない、立ち入った行為をしない、それでいてみるべきことは一応見ているところが適っているのである》 |