6(2003.11 掲載)

『かくしてバンドは鳴りやまず』(井田真木子、リトル・モア)
 93年に『上の空』が出たとき、早川書房時代の仲間が自宅に集まって出版を祝ってくれた。昔の上司の高田さんも来てくれ、「藤川君のあとに入った井田さんていう女の子はとても優秀な子で、会社を辞めてから物書きになって大宅壮一ノンフィクション賞を取った。おまえさんよりずっと文章がうまい」と手厳しい祝辞をくれた。
 数ヶ月前に会ったとき、井田さんが亡くなったことを聞かされた。「遺稿集を本屋で立ち読みしたけど、これから取り組もうとする本の企画が綿密に書いてあるんだ」と残念そうだった。気になって取り寄せた。
 季刊文芸誌「リトルモア」に連載したノンフィクション作家論。第1章『冷血』のトルーマン・カポーティ。第2章『パリは燃えているか』のラピエールとコリンズ。第3章『大統領の陰謀』のバーンスタインとウッドワード。全10回の予定が3回で途絶。
 第1章を読んで後悔。わからない。『冷血』を読んでなければ楽しめないと思った。第2章は『さもなくば喪服を』と『きけわだつみのこえ』を対比。それだけでなく著者の二人を対比。これで手応えを得たのだろう、つづく第3章でも二人の著者を対比。尻上がりによくなっている。作品を読んでいなくても楽しめる。享年44。会いたかった。
 本書の成立過程がおもしろい。編集部は、取材費が出せないのでモームの『世界の十大小説』のノンフィクション版を書いてくれと提案。それに対し企画書のなかで自腹でも取材に行きたいと言っている。
 早川書房の様子が書かれている。《厳寒期と酷暑期の室内の温度差を四十度近くに保ちたいと切に願っている経営者を戴いていたのである。/そのため冬は暖房なし、夏は冷房なしの上に経営者が籠っている部屋につけられた三台のクーラーが、その部屋と対面する形で配置された社屋に熱気を送り込んでくるので、真夏の午後ともなればほぼ熱帯である。/三日に一人は熱中症で倒れる人が出た。》太った早川清、スリッパに履き替えて上がる2階の編集部の木の床、社長室のクーラー、いろいろ思い出す。
 フランス人のラピエールは、アメリカ人のコリンズと別れてから、抑圧と抵抗、貧困と富裕など二分論が可能な場所イスラエルやインドを舞台にして書き、のちにはインドでマザーテレサと関わって博愛主義者としても著名になった。一方のコリンズはパリを舞台にしたスパイ小説という、冷戦後の世界には受けないものを書いて失敗、世間から忘れられたと、ノンフィクション・ライターらしい分析をしている。ただし、勝ち組のラピエールよりは負け組のコリンズのほうにより多くの共感を抱いている。
 それは次章の勝ち組ウッドワードと負け組バーンスタインについても同じ。映画化された『大統領の陰謀』で、ウッドワードをロバート・レッドフォードが演じ、バーンスタインをダスティン・ホフマンが演じたこともその後の二人の運命を決定づけたという指摘もおもしろいが、井田の功績はウッドワードの背景に赤狩りの犠牲になった両親の影があったことを突き止めたことだろう。
 本造りはまずい。リトル・モアは写真屋さんなのだろう。活字になれてない。中途半端な本文版面にはイライラする。おそらくは前衛的な若々しい効果をねらったのだろうが成功していない。本文用紙も妙に水気の多いぶかぶかした物。製本もまずくて1回読んだだけで本の形が元に戻らない。著者は版元に気をつけなければならぬ。とはいっても、出してくれるならどこでもいいというのが現状だろう。

 雨宿りに入った書楽で、文庫売り場のコーナーを曲がるのに難渋していたら目のすみに信彦の『ジョークで時代をふっとばせ!』が映った。通りかかるひとを待って膝の上にのせてもらう。いつもながらの見ず転買いだが小林信彦のジョーク本なら大丈夫。
 ところが書見台にセットして読みはじめたらどうもおかしい。私がオイルマンだったころと書いてある。小林が石油会社に勤めていたなんて聞いたことがない。よく見たら、落合信彦だった。カバーははずしてしまうしページは目次からはじめるので著者名も出版社名も目に触れない。青春出版社、こんなことでもなければ読むことのない出版社。本のあいだにアデランスのチラシがはさんである。どうかと思う。全体にやっつけ仕事。
 「ユダヤ人の鼻は、なぜでかいのか」
 「空気はただだから」
といったエスニック・ジョークは嫌いではない。むしろ期待した。差別ジョークばかりを集めて、その背景を探る本が読みたい。しかし現代史の解説に紙幅がついやされ、肝心のジョークが少ない。私がサッチャーにインタビューしたとき、とか、自慢話が鼻につく。
 登場人物もケネディ、フルシチョフと古い。読者の期待に添えないのではないか。エリツィンが出てきてプーチンが出てこない。ヘンだなあと思いつつ巻末まで来てようやく2000年1月に出した『ジョークでさらば20世紀』の文庫化であることがわかった(そういうことは巻頭に書けよ。どこの出版社でもつごうの悪いことは巻末に小さな字でもうしわけ程度にしるすのみだ)。文庫化に当たってはタイトルを変えるだけでなく新ネタを補充したかった。
 スターリンの遺体処理に困ったソ連政府は、外国に引取りを依頼するが、どこからも断られてしまう。最後にイスラエルだけが受け入れると言ってきた。それを聞いたフルシチョフは言った。「あそこはダメだ。あそこでは過去に一人生き返っている」

 『聞き書き にっぽんの漁師』(塩野米松、新潮社)
 久しぶりに美しい本を見た。ジャケットがいい。一昔前の岩波風。表紙がいい。図案化した波模様が印刷されている。目次を見れば担当者の編集歴が分かる。10年以上と見た。本文の組みも、ハシラがすこし本文天から離れすぎているように思うが、かっちりしたもの。
 まえがきを読んだだけで著者が分かる。手堅い仕事をするひとで、編集者も「塩野さんなら大丈夫」と安心しているにちがいない。全国13人の沿岸漁業の漁師にインタビューした聞き書き集。「新潮45」に連載されたもの。
 ただし手堅いからおもしろいとは限らない。あきる。むかし読んだ宮原昭夫の伝統漁法をたずね歩く本のほうがおもしろかった。何が悪いのか。産業としてとらえる視点か。それとも民俗学を意識しているためか。
 インタビュー相手は総じて年寄り。むかしはものすごくよく獲れた、それが漁具の発達、乱獲、海の汚染で獲れなくなり後継者もいないとみんなが口をそろえる。あと10年もしたら日本の沿岸漁業はほとんど姿を消すのではないか(後継者がいないことは救いでもある。誰も獲らなければまた魚はふえるから)。
 大間のマグロ一本釣りの話はおもしろい。やはり魚と1対1でたたかう知恵と体力の話が今も昔もいちばんおもしろい。

 『茶話』(薄田泣菫、岩波文庫)
 茶話(ちゃばなし)といえば15、6年前に冨山房から『完本茶話』全3巻が出ているが、抄録が出たのを機会にどんなものかのぞいてみようと思った。抄録のほうがいいばあいもある。アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』(岩波)にしても、後にどこかから全訳が出たが、時代背景が分からなければ楽しめない項目が多く、出版の意味は薄いと感じた。研究者なら原文に当たればいいわけだし。
 坪内祐三の解説によればこれが新聞に連載されたころは大変な人気で読者はまずこれから読んだということだが、いかんせん登場人物が古い。マーク・トウェインが雄弁でならす政治家とふたり講演に招かれ、まずトウェインがすばらしい講演をしたあと、つぎに立った政治家は「じつは講演の原稿を取り替えたのだが、私は彼の原稿を紛失してしまった」といって降りてしまった。翌日ある紳士がトウェインに近づいて言うには「あの政治家のスピーチはたいしたことありませんでしたな」と。こんな短文が並ぶ。
 物事の本質は変わらないから人名を変えれば今だって十分通用するものだが、知らないひとだと興味が半減する。肝心なことはギリシャ時代に言い尽くされているにもかかわらず、いまだに本が出版されるのはそのためだろう。
 文章の質といい長さといい国語の試験問題に好適。

 訪問看護の始まりは、19世紀にナイチンゲールが「看護とは新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し、管理すること、すなわち、生命力の消耗を最少にするようすべてを整えることを意味すべきである」と言ったことにさかのぼるのだそうだ「訪問看護の歴史と役割」加藤、ケアマネジャー、2002)
 病気と貧困の悪循環を断つことが課題。医学が発達していなかったせいか、医療行為は二の次のようだ。

 『小説の秘密をめぐる十二章』(河野多恵子、文藝春秋)
 小説を志すひとびとに向けて書かれた小説作法。「文学界」に12回にわたって連載されたもの。
 名文のお手本として谷崎が頻繁に出てくる。同業他者の悪口は出てこないが、唯一三島の『金閣寺』が俎上に上がっている。一節を引き、私がいま言ったことに注意しながらこれを直してごらんとまで言っている。
 読んでみようかなと思ったもの。山田詠美『ベッドタイムアイズ』、谷崎『痴人の愛』『刺青』『細雪』、漱石『虞美人草』、モオリア『レベッカ』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』。
 『細雪』の導入部をほめて《この導入部の見事さは基本設定であるらしい事柄が出揃っており、だがどれを取っても、全き表現となっていることである。四百字詰原稿用紙で八枚半ほどのもので、その短さでよくここまで創造できたと感服せずにはいられない。》と言っている。オレも『瘋癲老人日記』を読んだときは同じ感想をいだいた。
 そのほか、よい文章には健康的な脈拍がある、とか、おもしろい作品を読むと《人間とこの世というものが、その作品を読むまえよりも新鮮さを帯びて感じられてくる。》という箇所に共感。
 いかに生きるべきかを問う作品は書いたことがない、と書いたら、それでも読者はやはり人生いかに生きるべきかを探ろうとするものなのだと武田泰淳に言われたという。なにか教訓めいたものを吸収しようとするわけだ。第一そういう傾向のないひとは小説を読まないのだろう。
 ネガティブな表題は避ける。ネガティブなものは内容がよくても売れない。
 一人称では自分の頸筋が書けない。私小説に三人称体をつかったほうがいいばあいもある。
 一元描写は一人の視線による描写。多元描写は二人以上の視線。多元のほうは大衆文芸で使われ、通俗的とされた。それは作者の見たままを書くという自然主義文学の影響。
 多元描写のばあい、視点のひとつに端役脇役の目をつかうとよい。《複雑な感想をもたない、立ち入った行為をしない、それでいてみるべきことは一応見ているところが適っているのである》