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 『江戸の春画――それはポルノだったのか――』(白倉敬彦、洋泉社新書)

 けがをしてから世事にうとくなり、週刊誌のヘアヌードなんてものも見たことがない。自分ひとりでは週刊誌ひとつ読めない。どんなにがんばっても袋とじは無理。
 しかしスケベサイトでは「ハメ撮り」を動画で見ることができる。初めて見たときは、どうもみんなインターネット、インターネットとえらくITに意欲的だなと思っていたら、なあんだこういうことだったのねと気づいた。みんなこれを見たくてパソコンを買っているのだ。デジカメも同じだろう。秘密の写真を撮って自宅で楽しむのだ。そんな理由でもなければこれほど爆発的には普及しまい。ポラロイドは命脈を断たれるだろう。
 この本を開くと、むかしは隠されていた部分が無修正で出ている。見てみればどうということもない。たしかに男性器も女性器も大きく描かれてはいるが、外人が見て「オー、ウタマロ」と感激するという話も大げさな気がする。
 春画は言葉と結びつくことによって笑いを強調する。もともと春画は艶笑小咄の挿絵だった。だから笑い絵と言うようだ。ここがキーポイント。おそくつの絵とも枕絵ともいう。枕絵は枕草子ともいう。してみると清少納言の枕草子もそういうことを書いた本なのだろうか(^J^)。pillow talk 集か。春は曙にするのがいいわあという意味か。
 江戸時代のひとはどういう気持ちで「わらい」という言葉を使っていたのだろう。奥女中は張形を「笑ひ道具」と呼んでいた。そんなに真剣になるほどのことではないというニュアンスか。
 春信、清長、 歌麿、北斎……教科書に出てきた絵はむしろ彼らの余技であって、枕絵こそが本業であったと思えるほどたくさんの作品をのこしている。太田美術館へ行けば倉庫にたくさん隠してあるにちがいない。はやく一般公開してほしい。
 絵とは何かという根本的な疑問が頭をかすめる。ひとはなぜ絵を描くのだろう。隠居した大名に現役大名が春画組物を新年の祝いとして贈った例がある。また枕絵には最新流行の着物の柄が描かれているところから呉服屋とタイアップしていたことが考えられる。
 「なぜ性器を大きく描くか」ということに1章を割いている。《ありのまゝの寸法にかきて候はゞ、見所なき物に候故に、絵そらごとゝは申事にて候》と『古今著聞集』などを引いてむつかしい論を展開しているが、これは要するにクロースアップ、キティちゃんの顔が大きいのと同じことだろう。関心のあるものを大きく描くのだ。
 男性器のランクは、一麩、二雁、三ン反で、意外に太、長は下位。《一麩は、麩を煮たる如く、すべての大小によらず一杯に増ゆるやうに、つびの広狭にかかわらず、よく合ひて、しつくりとする故、是を最上とするなり。》強固なのがいいというのは男の思いこみで、女にとってはいくぶん柔らかめなのが最良なのだそうだ。知らなかった。女性器も洗濯や巾着は下位で、一高、二まん、三蛤。一高とは上付、二まんとはまんじゅうを合わせたようにふくらかで谷の深いもの。
 エクスタシーの表現が性器と顔であることは現代人にとって常識のように思えるが、じつは春画以前には西洋にもなかった。目を閉じた恍惚の表情は春画以前には描かれたことがなかったというから驚き。たしか竹内久美子の『BC!な話』に、アメリカの男性性科学者が日本女性はオルガスムのとき泣き声に似た声を出すと不思議がっていたというエピソードが出ていた。日本人にとってはなんの不思議もない。忘我の声すら学習によるもの、文化であることを示している。
 逆に春画は乳房にほとんど興味を示さない。絵でも文でも乳房への愛撫を描いたものはまれ。江戸時代人は乳房が性感帯であることを知らなかった。だから人前で乳房を露出することに抵抗がなかった。あくまでも授乳の道具だった。

 

 『カラスの早起き、スズメの寝坊――文化鳥類学のおもしろさ――』(柴田敏隆、新潮選書)

 著者は1929年生。日本自然保護協会理事、山階鳥類研究所資料室長などを歴任。NIRA(総合開発研究機構)の機関誌に連載した短文に加筆訂正したもの。新潮社の編集者はNIRAなんかも見てるんだな。感心感心。1100円と安いのもいいが、厚手の紙でツカを出そうとするのはやめてほしい。
 おもしろい箇所、メモすべき箇所をドッグイヤーにしていくときりがないほどある。息の長い名文。故・藪内正幸画伯のイラストがまたすばらしい。1枚ほしい。
 神は汎神多神から進化して唯一絶対神になる、という一神教の立場に反対。豊かな土地では汎神、やせた土地では唯一絶対神になると説く。《平たく言えば、緑の量が多い所では、神様の数も多いのである。》コンクリートジャングルのように生産性ゼロの土地ではだから無神論にならざるを得ない。梅棹忠夫の『文明の生態史観』を想起させる。
 モズの夫婦は秋になると激しく対立しておのれのなわばりを主張する。また春が来て子づくりの季節になっても、和解はしにくく、50パーセントはすこしはなれた異性と一緒になる。戦争が終わったといっても、そう急には仲良くなれない。でも50パーセントは元のさやに収まるというのだからバランスが取れている。
 コジュケイは1919年、旭硝子社長の岩崎俊弥が上海から赤坂の私邸に連れてきた外来種。こんなに由来のはっきりしたケースは珍しい。オスが鳴きはじめるとメスが合いの手を入れる。ペア・コーリングという。ツクツクボウシも1匹が鳴くと、そばでジージーと合いの手を入れるのがいるが、これは独唱を妨害するもの。
 ひとむかし前までの初夏の田園は昼夜を分かたずにぎやかだった。それがいまでは、コシヒカリ、ササニシキの穀倉地帯は寂として生き物の声ひとつしない。《このような不自然で作られるお米を食べて、大丈夫なのだろうかと考えざるを得ない。》
 渡りのさい、多くの小鳥は夜移動する。月面を天体望遠鏡で観察していると、《稀にではあるが、たくさんの小さな渡り鳥たちが、真っ黒なシルエットとなって、視野をよぎる》そんな情景を見たら感激するだろう。映画に使いたくなるにちがいない。ETのように。
 人類の音楽も小鳥の鳴き声のマネから始まったといい、いろいろ例証を挙げている。また鳴き声の聞きなしなども記載されているが、いまいち活字だけではもどかしい。CDを添えたい。あるいは本書の朗読に実際の鳴き声を挿入するラジオ番組を作ったらおもしろいだろう。
 むかし日本の農村では「カラスをいじめると、報復のため灯明の火の点いた蝋燭をはこんで、かやぶき屋根に火をつけるような仇をなす」と言っておそれたそうだ。最近、京都の神社の不審火がカラスの仕業であることを東大の先生がビデオに収めて発表した。火のついた蝋燭をおそれもせずにくわえて飛び去るカラスのすがたがそこにあった。体重の制限があるからカラスの脳みその量はたいしたことがないが、フルに使っている。人間は遊休脳が多い。
 ひなの頭部に毛がないのと、ハゲワシ、ハゲタカの頭部に毛がないのは同じ理由。ひなは親鳥の口のなかに頭をつっこみ、ハゲワシは大型動物の死体のなかに頭をつっこむから。清潔のため。
 カラス退治にはオーストラリアン・トラップが有効。《金網で囲った立方体の天井の部分に、カラスが入れる隙間を設けたもので、カラスはこの天井の隙間から、中の食物を取ろうと、翼をつぼめて飛び降りる。しかし、出るときは、垂直上昇をしなければならないので、拡げた翼が邪魔になって、隙間をくぐり抜けることができない。ただそれだけの仕組みである。》捕まるのはほとんどその年生まれの若鳥。
 日本中を歩き回っている著者は、各地に特有の顔があるという。巨大都市にはそれがない。「マンウォッチング」の企画に使える。

 

 『本の虫』(井狩春男、弘文堂)

 人文書の取次鈴木書店の店頭で35年間本を見つづけた著者による「最新ベストセラーの方程式」。ベストセラーが好きというより、ベストセラーには方程式があるのだからそれをはずしたら成功しないよという指南書。本は売れないのがフツー、本を読むひとなんかほとんどいない、と著者はいう。あくまでもベストセラー作法だが、そうでない本の売りかた作りかたの参考になる。
 ベストセラーのキーワードは、身近。――内容・タイトル・著者・情報・装丁・定価・出版社が身近でなければならない。みじかい、あかるい、あたらしい。
 装丁も明るく。内容にあわせて装丁するのでなく読者の気持ちに合わせる。この指摘は鋭い。暗い内容だからといって暗い装丁にしてはベストセラーにはならない。
 季節に合わせた装丁にする。さだまさしの『精霊流し』の装丁に関して幻冬社の社長から相談を受けたときにそれを言ったら感心されたという自慢話が書いてある。たしかに発売直後しか売れないのだから発売の季節に合わせるべきだ。
 全部読みたくなる目次、思わず買いたくなるオビ。愉しめるレイアウト。どこからでもすぐ読めてわかりやすく、面白くてユニーク。最初から最後まで同じパターンのレイアウトではつまらない。
 それ1冊ですべて分かる、ような気にさせる。
 売れる定番。――恋愛、食、ダイエット、金、健康、旅。こわいもの、お涙もの、お勉強もの、コンピューターもの、スポーツがらみ、有名人もの、不思議本、写真集だというのだが、こう並べたら何だって定番になるんじゃないか。言われてみれば当たり前のことばかりが書いてあるような気もするが、実践的なコツも一杯。
 著者が有名人ならタイトルにいれる。サイン会は足しにならない。ポルノは読み捨てのつくりにして人けのないコーナーで売る。
 B6判にする。
 宣伝に読者の声をつかう、有名人にほめてもらう、ユニークなキャッチコピーを書く。オビに内容を書く必要はない。手に取らせればいい。
 エッセイ集なら50〜60本収録。
 インターネットで大量販売はできない。書店のない地域のひとは本を読まない。そういえば椎名さんも「本の雑誌」で田舎のひとは本を読まない、読書は都会的行為といっていた。
 情報がなければ売れない.iモードの情報で足りている人相手にいかにして売るか。
 買いにくいタイトルを付けてはいけない。
 なぜひとは本よりも映画や音楽に金を使うか。努力しなくても楽しめるから。
 ベストセラーは、ベストセラー経験のある出版社から生まれる。
 アメリカで売れた本は日本でも売れる。AA諸国の本は売れない。
 読者のまわりには人生を教えてくれるひとがいない。まわりのひとが教えてくれないことが、売れる本の内容になる。
 ほとんどの本は衝動買い。
 最初に一番おもしろいところを持ってくる。