10(2004.03 掲載)

◇以下2003年分

 『ベッドタイムアイズ』(山田詠美、新潮文庫)

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 河野多恵子が『小説の秘密をめぐる十二章』で山田詠美をえらくほめていたが、どうしてそれほどほめるのかわからない。《人間とこの世というものが、その作品を読むまえよりも新鮮さを帯びて感じられてくる》かどうかがおもしろさの基準だとする河野の立場に立てば、この作品は「世の中にはそういうこともあるんだろうな」とは思わせる。売れないクラブ歌手の女がビリヤード場で見かけた黒人兵に目配せしてビルのボイラー室かなにかに誘い込んで立ったままセックスするという小説だから、そりゃめずらしいけど、基地周辺に黒人あさりの女が群がっているというニュースの補完をする働きはあっても、それ以上のものではないと見た。そういうニュースがテレビに出る前に書いたからえらいのだろう。

 ただ、新鮮な表現が随所に出てくることが、この作家がただのパッパラねえちゃんではないことをうかがわせる。

 

 『理想の国語教科書』(齋藤孝、文藝春秋)

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 『声に出して読みたい日本語』や本書が売れていると聞き、きっと内容はアンソロジーなのだろうなと思っていたが、やはりそうだった。意外だったのは、数十篇の短文それぞれに付された解説がいいこと。子供たちに言葉の持つ力を教えたいという情熱にあふれている。

 三つのパートに分けるのに、第一部などとやらずに1学期、2学期とやっているのがほほえましい。

 印象に残ったのは坂口安吾の「風と光と二十歳の私と」。数十年ぶりに読んだが、なお目のふちがうるむほどの感動をおぼえた。

 

 『海馬――脳は疲れない――(池谷裕二・糸井重里対談、朝日出版社)

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 hippocampus、ポセイドンが乗る海馬の下半身に似ているところから。

 ある図形を見ておぼえるのと描いておぼえるのでは、どちらがおぼえやすいか。子供のばあいは変わらないが、大人は描いておぼえたほうがずっと成績がいい。絵に描くと、《一度得た情報をそのまま丸暗記せず、自分の手で描くという自発的な体験になる。そうすると、受け手ではなく送り手の立場に立つことになる。》

 手を実際に動かすことの重要性が強調される。大脳全体と手の細胞とが非常にリンクしていることの証明としてホムンクルスという人形が挙げられる。1950年カナダのペンフィールドが、大脳皮質のどこで体のどこを司っているかを明らかにした図。簡単に言えば、体のどこが敏感かということだろう。手と口が異様に大きい。《指をたくさん使えば使うほど、指先の豊富な神経細胞と脳とが連動して、脳の神経細胞もたくさんはたらかせる結果になる。》それでは手の麻痺した人間、手のない人間は頭も悪くなってしまうということか。

 子供は白紙で世界と接するから世界が輝いて見えるのに対し、大人はこれは前に見たものだと整理してしまうから驚きや刺激が減る。それで印象に残らず、記憶力が衰えたような気がする。たしかにそのとおり。写真やビデオで前もって知っていると、初めて体験しても感激は薄くなる。

 手の麻痺した者は、子供のような新鮮な目でものを見、それを何らかの手段で――口筆なりパソコンなりで――主体的に再現してみることが必要だろう。

 30歳を過ぎるとつながりを発見する能力が飛躍的に伸びる。推理力は大人のほうが断然すぐれている。30歳まではとにかく失敗をたくさんして、インフラを整備することが大切。これは自分の経験に照らして納得できる。30までは毎日失敗していた。

 海馬は記憶を蓄えるわけではない。情報の要・不要を判断してほかの部位に蓄える。情報のふるいをする。海馬の神経は数ヶ月で入れ替わる。海馬は刺激で大きくなる。一番大きいのはベテランのタクシードライバー。

 やる気を生み出すのは、左右一対の側坐核。ただし、やりださないと活動しない。やる気を作る物質はアセチルコリン。風邪薬はアセチルコリンを抑える。

 

 『トンデモ英語デリート事典――A Catalogue of Fake English――(ケビン・クローン著、光文社)

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 まず変わっているのは、巻頭と巻末に編集者のメッセージが載っていること。文庫や新書の「刊行の辞」を除いて例がないことだ。

 著者は、父親が外交官だったため世界各地を転々としたという。「ここがヘンだよ日本人」でえらくいばりくさった態度でしゃべりまくっていたが、内容はしっかりしている。聖徳太子が「和を以て尊しとなす」と言ったために日本人は論争ができなくなってしまったという説にはギャフンだ。案外そうかもしれない。

 われわれがふだん使っているカタカナ語はほとんどインチキであることを見せつけられる。ライフライン、マイ・ホーム、テーブル・チャージ、デッド・ボール等々は和製英語。

 モーニング・サービスは、教会でおこなう「朝の礼拝」。サービスという語には「無料、おまけ」という意味はない。「仕える」という意味。slave, servant が語源。

 アメリカにはダイニング・キッチンがない。われわれは板の間のことをフローリングというが、ただしくは wooden floor といわなければならない。ペンションは年金、リフォームは建て替えの意。

 ロード・ショーはどさまわり、遊説のこと。ただしくは special first-run of showing of a film。クランク・インは start shooting a new film。英語圏の映画雑誌ではこんなに長ったらしい言い方をしているのだろうか。これじゃあ日本人は耐えられない。

 ツー・ショットは2発のこと。2人で写った写真をあらわす語はない。

 ただのお友達という意味でガール・フレンドと言ってはいけない。これは性的関係のあるばあいに使う言葉。

 

 『わが友フロイス』(井上ひさし、ネスコ、文藝春秋発売)

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 井上氏受洗50周年記念作品。ネスコとは何者。

 信長・秀吉・家康の時代に来日して布教活動をおこなったイエズス会宣教師の伝記小説。たくみな書簡体。放送作家出身の作家らしく、重要な場面をピックアップして手紙に仕立てる。各手紙の前につけた詞書きでその手紙の背景を要領よくまとめる。うまいエクリチュールを考えた。

 ニッポ辞書の編纂に関わったのではないかと狙いをつけて読んだのだが、残念ながらそういう記述はない。辞書は1603年の刊行、フロイスは1597年に長崎で没している。ポルトガル人だしイエズス会だし……。かかわってないのかなあ。

 図書館でニッポ辞書をリクエストしたら取り寄せてくれたが、持ちだし禁止と言われて中を見ることができなかった。アシスタント同行で図書館へ行かなければならない。

 

 『井上ひさしの日本語相談』(朝日新聞社)

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 週刊朝日の連載を単行本化。大岡信・丸谷才一・大野晋らとともに読者の疑問に答えるという企画があったようだ。

 山という字を「やま」と読むのが正訓、やまに山という字を当てるのが正字。中国にないものを書き表そうとしたときに使った手段が万葉仮名。もうひとつの手が国字だろう。

 しかしそれにしても昔から疑問なのだが、中国には峠はないのか。発想がないのだろう。山道を登りつめたところに関心がないのだ。何事も細かすぎるほど細かく分類してことばを与える中国人にしては珍しいケースだ。国字をテーマに書いたらおもしろいものが書けるにちがいない。ないかな。

 山田孝雄は1940年に、和語を漢字で表記し、その漢字表記をこんどは音読し、そのまま現在もおこなわれている例を60語発表した。たとえば火事、これはもともとヒノコトと言っていた。オオネも大根と表記されたらダイコンになってしまった。

 英語にも擬態語が多いのではないかという意見を開陳しているのがうれしい。-ash (clash, dash) ははげしい動きを含む、 sli- (slide, slip) は意味になめらかさを隠している、 gl- (glance, glare) は連続的な光、 str- (straight, street) は細長い形。これこれ、こういう本を読みたい。英語圏なら出ているのではないだろうか。