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 『心にトゲ刺す200の花束――究極のペシミズム箴言集――(エリック・マーカス著、島村浩子訳、祥伝社)

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 原題はPessimisms : Famous (And Not So Famous) Observations, Quotations, Thoughts, and Ruminations on What to Expect When Your Expecting the Worse。それをこう翻訳したのは、ベストセラー『光に向かって100の花束』(1万年堂出版)を意識してのことだろう。そっちは読んでないけど。

 どれくらいトゲ刺すものかと期待して読んだが、全然刺さない。それどころか、「癒し系」という言葉はふざけて使うばあい以外は口にするのもはばかられるぐらいケッタクソ悪いものだが、本書は真性の癒し本といっていい。原書のサブタイトルも、期待どおりいかなかったときのための名言集という意味だろう。最悪の事態を想定しておけば、なにが起こってもそれより被害が小さかったとあきらめがつく。ペシミズムもまた賢く生きるための知恵だ。

 有名無名いろいろなひとの言葉の中で、アンブローズ・ビアスは群を抜いている。『悪魔の辞典』だけを読んでいたのではみんな水準が高いからそれほど偉いとも思わないが、石の中に混じると俄然光る。うまい酒ばかり飲んでいたのではダメなのだ。比肩しうるのはやはりマーク・トウェイン、バーナード・ショウといったその道の大御所。《誕生、それはあらゆる災難のなかで最初にして最悪のもの。――ビアス》ブッダは人生四大苦痛の筆頭に「生」をあげた。ビアスはブッダと同程度の哲学者ということになる。

 《どうして自分で自分を苦しめたりするの? どうせ人生が苦しめてくれるのに。――ローラ・ウォーカー》《人生をそんな深刻に考えるな……永久に続くものじゃないんだから。――作者多数》リストカットをくりかえすひとに言ってやれば少しは効きめがあるかもしれない。いくら前向きに生きろとか、あしたとゆー字は明るい日と書くのよとか言ってもなんの効果もない。といって、《元気を出して。最悪の事態はまだこれからやってくるんだから。――フィランダー・ジョンソン》となると危険だろう。首をくくりかねない。これは吉本新喜劇で使えば舞台上の全員がたおれて大笑い。

 《頭がよすぎて政治にたずさわらない者は、罰として自分よりも頭の悪い人間に統治されることになる。――プラトン》選挙管理委員会はこういうのを流せばいいんだよ。そんな度胸ないか。

 《我が国では神の御加護により、言葉では言い表わせないほど貴重なものが三つ、国民に与えられている。言論の自由、信教の自由、そしてそのどちらも行使しない慎重さである。――マーク・トウェイン》名言集は、それがいかなる文脈のなかで使われたものか分からないのが欠点。この程度なら単なるヒニクのようにも取れるが、状況次第では危険なこともあり得る発言だ。アメリカはいろいろ問題があっても言論の自由だけは保障する国だと思っていた。ところが9.11の報復としてアフガニスタンを攻撃したのに対して、ある地方の女子高校生が反戦Tシャツを着て登校したところ、その地域全体の鼻つまみになったことがあった。それなら戦時中の日本となにも変わらない。みかたは母親一人という報道だった。あの母娘はその後どうなったのだろう。

 《人間を造るとき、神は自らの能力をいささか過信していたのではないかとときどき思う。――オスカー・ワイルド》ワイルドの言う神は、自らに似せて人間を造ったというキリスト教の神様のことだろう。ユダヤ人の著者マーカスはこう言う。《ユダヤ人学校では、神様はすばらしい方だ、そしてわたしは神様によって選ばれた民なのだと教えられました。さらにラビ・ウェインバーガーから、わたしは生きていられるだけで幸運なのだ、なぜならホロコーストでは六〇〇万人のユダヤ人が殺されたのだからと教わりました(そんなことをするのがすばらしい神様ですか?)。》これがいちばん気に入った。

 

 『古事記の宇宙論(コスモロジー)(北沢方邦、平凡社新書)

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 あまり翻訳ものに食指が伸びない原因のひとつは、人名だ。カタカナ名前の人物が4人以上出てくるともう誰が誰やら分からなくなる。この本は古事記・日本書紀をあつかっているから翻訳ものではないが、神々の名前がカタカナで、これがまた長い。アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ……山幸彦が竜宮城ではらませたお姫様の名前。天の御子の御子が渚に建てた産屋の屋根を鵜が羽で葺くまえに出産したという意味。名前そのものが名前の由来を表すというしくみになっているから、一度おぼえてしまえばかえって性格も思い出しやすいが、シンボウたまらんわ。

〇神話はその種族の宇宙論

 著者は1929年生まれの構造人類学者で、これまでにも類書を何点か上梓しているようだが知らなかった。こんな古事記論は初めて読んだ。レヴィ・ストロースやアリゾナ先住民ホピ族の神話が援用される。《『古事記』は、われわれの祖先の残した貴重な文化的遺産である。世界的にみても、これだけまとまった神話が、しかも統合的に残されている例はめずらしい。》それなのにわが国でギリシア神話ほどにも読まれていないのはなぜなのか。

 ひとつには《ギリシア・ローマ神話が、諸天体や自然現象にかかわる絢爛とした幻想的な物語であると考えられているのに対して、日本神話は、人間の姿をした神々の日常的な愛憎の物語で、素朴ではあるかもしれないが、稚拙であるといった判断である。これが誤りであり、日本神話も、壮大にして幻想的な宇宙論的ひろがりをもっていることは、この本を読めばわかっていただけると思う。》読まれないもうひとつの理由は、明治以来、古事記や日本書紀を「皇国」の歴史として教えたこと、また敗戦後その反動としてこの貴重な文化遺産を教育やメディアの場から一掃してしまったこと。それだけでなく、皇国史観に反対のはずのマルクス主義史観も記紀を古代の階級闘争の反映とする誤ったとらえかたをしたことなどがあげられる。

 しかし神話は歴史ではない。《神話は、それぞれの種族が自己を取りまく宇宙や自然を、具体的な記号に置き換え、体系化した言語表現である。/なぜそのようなことが必要とされたのか。それは、狩猟・採集であれ遊牧であれ、あるいは農耕であれ、天体とりわけ太陽の運行や季節の循環は、生活や生業と不可分であり、それらを精密に観察し、その体系性を知ることが不可欠だったからである。(中略)いままでの日本神話の解釈が不毛であったのは、神話がそれぞれの種族の宇宙論であるという、こうした視座が決定的に欠けていたからである。》宇宙の意味の解読が、記紀の深いコンテクスト(文脈)にほかならないと著者は言うのだ。

 このあたりの考えかたは『動物と人間の世界認識――イリュージョンなしに世界は見えない――』(日高敏隆、筑摩書房)を思い起こさせる。その本では、しきりに客観的な世界などというものはない、たとえば同じ部屋の中にいても、人間・犬・ハエでは見ている世界がちがうと述べていた。まあ同じ人間どうしの認識ならそれほどちがうとは思えない。まして現代はこれだけ情報量の豊かな世の中なのだから。だがそれでも一神教の種族と多神教の種族とでは、ふだん自国の神話など意識していなくても心の奥深いところではそれに影響され、物事のとらえかたは微妙にずれているのだろう。

 旧約聖書でもホピ神話でもギリシア神話でも、神が粘土をこねて人間を造ったとされるが、この思想は日本神話にはない。なぜなら人間は神々の子孫であり、神々は人間の祖先と考えられているからだ。《地球上のすべてが人間とともに先祖を同じくするという考え方、むしろ最新の進化論や生物学と認識を共有するこの考え方に、われわれの神話の特質がある。現在のわれわれの世界観の根底にも、こうした無意識でエコロジカルな知があるといっても過言ではない。》だから古事記は新しいし、エコロジカルな日本人はエライといいたいのだろう。われわれに自信を持たせてくれるような説は心地よい。かつて読んだ『カラスの早起き、スズメの寝坊――文化鳥類学のおもしろさ――』(柴田敏隆、新潮選書)は、神は汎神多神から進化して唯一絶対神になるという一神教の立場に反対し、豊かな土地では汎神、やせた土地では唯一絶対神になると説いていた。これも長年西洋文明一辺倒できたわれわれに新しい見かたを提供し自信を回復させる学説だった。べつに自分は一神教の教徒でも多神教の教徒でもないが、生まれ育ったなじみの文化が未開のものであるようにいわれるのは面白くない。

〇宇宙をセックスで解釈した古代日本人

 どこの地域の神話でも天地創造から始まるようだ。なによりもまずどうして天と地があるのかという説明をしなければならないからだろう。イザナキ・イザナミの2神が天上の神々からたまわったアメノヌホコ(天の沼矛)で沼のようなところをかき混ぜると、その先からしたたり落ちる塩が重なりつもって島となった。矛はその形状からして男根の象徴。沼は女陰。男根で女陰をかき混ぜると島が生まれるという、わかりやすい説明なのだ。ちなみにイザナミは火の神を出産したことで死んでしまうが、女陰をホト(火の門または火の戸)と呼ぶのはこの神話に由来するとのこと。

   ヨミの国で妻の醜い姿を目撃したために追いかけられたイザナキは、這々の体で現世に逃げ戻る。《イザナキの杖から出現したクナトとは、紀の異本によれば、イザナキがヨミとの境に、ヨミの神々はここから先に来るな、と突き立て(ツキタツ)たとある。来るなというト(門)であるからクナトという。これはまたタマホコの神でもある。村々の入り口や道の分岐点に、魔除けとして立てられたホコであり、いつごろからか陽石と陰石との性的な対となり、さらにのちには彫刻された道祖神となった。》道祖神にはそんな意味があったのか。村の入り口に勃起したペニス像を置いてよそものを威嚇する風習は、四半世紀前に読んだアイブル・アイベスフェルトの『愛と憎しみ』(みすず書房)でも見たような気がする。世界に遍在する現象なのだろう。

 《わが国のジェンダーでは、タケ(嶽)とよばれる峨々とした山岳は男性であり、ヤマ(山)とよばれる優美な山岳は女性である。》そういう区別があるとは気づかなかった。山岳雑誌を読んでいるひとにとっては周知のことだろうか。

 本州をオホヤマトトヨアキツ(漢字を当てれば大大和豊秋津)とよぶのは、神武天皇が国見をしたさいアキツ(トンボ)がトナメをする形だと言ったところから。トンボがみずからのト(女陰)を舐めている形だというから嬉しい(本州をどの角度から見ればトンボがトナメをしている形に見えるのだろうという疑問は残るが)。むかしの日本人はセックスのことばかり考えていたんだな。物事の生成を説明しようというばあい、セックスを持ち出すのがもっとも説得力に富むのだろう。

 神武天皇がどうして本州の形を知り得たのかという疑問に対しては、有史以前にポリネシア人の大航海時代があったこと、インド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』は地球が丸いと記していることなどをあげ、古代人の地理学的認識能力は驚くほど高かったと述べている。自分もかねてから現代人のほうが古代人よりすぐれているとする考えかたにはほとんど根拠がないとおもっている。われわれが日常生活で縄文人と競争して勝てるのはパソコンだけだ。