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 『やぶさか対談』(東海林さだお・椎名誠、講談社文庫)

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 雑誌に掲載したものを単行本にし、ついで文庫化するというのが、著者と出版社にとっての理想的なコースだ。この本は2005年5月15日発行だが、初出は1999年の「小説現代」で、2000年に単行本として出されている。そういうことが奥付対抗ページを見るとわかる。しかし本の頭から順に見ていかなければならない自分にとっては、本文を読み終わるまでわからない。たぶんそうだなきっとそうだなと思っても確かめられないのがもどかしい。そういうことは最初に書けといいたい。

 タイトルは「対談」だがゲストをまじえた座談会が多い。ゲストの話を聞いてるだけでいいからラクなんだと(^o^)。大江健三郎の回がおもしろい。じつに綿密なひとで、「やぶさか対談」だと聞いて、自分がやぶさかという言葉といつ出会ったか、2度めに出会ったのはこんな機会だったという話を用意してくる。気遣いもそうとうなもの、座談会冒頭でまずホスト二人の文章をいかにむかしから愛読してきたかという挨拶をする。

 ノーベル賞を取って何が変わったかと問われ、ホテルの朝食にベーコンのつかないアメリカンを注文しやすくなったと意表をつく答え。太っているからベーコンは要らないのに、《以前は、「店の人たちはぼくのことを『お金がないから、ベーコンを取らないんだろう』と思うかもしれない」と》心配していたが、受賞後は《「ベーコンは、うちでいつでも食べてるから食べない」と思うだろうと、パンとコーヒーを注文します、堂々と(笑)。》サービス満点のひと。

 16歳のとき松山東高校で伊丹十三と出会い、のちにその妹と結婚する。伊丹とは何度も喧嘩をし2年間絶交したこともあった。《でも、優しいふりをして意地悪な人がいるんです。親身なようなことばかり言うけれど、心の中に冷たいものを持っていて、それを、特にある人間だけに照射するような人が。(註記。これは、若い時の伊丹十三への山口瞳氏の態度としていって、雑誌にはそのまま載ったのですが、単行本化の時、責任者の宮田氏がそれを削ってしまい、このように連続性のない発言になりました。大江)》さらにつづけて《こういう感情のことを福沢諭吉は「怨望(エンボウ)」と言ってるんですよ。》吝嗇には節約という一面があり、粗暴には勇敢という一面があるように、あらゆる要素にはプラスの要素があるのに、怨望だけは全部マイナス、《遺恨には理由があるけれど、怨望は何もなくて、ただある人を怨む、羨むことです。そして、足引っ張るようなことをするんですよ。》と山口瞳の知られざる(?)一面を暴露している。

 この註記を読んでいらついた。大江にいらついたのではない。奥付対抗ページの内容が巻頭に記してあれば、ははあ単行本の担当編集者(あるいはその上司)は宮田っていうんだな、苗字だけで名が書いてないのは武士の情けなんだろうな、きっと単行本ができたときの大江の怒りかたといったらなかったろうな。いろいろ空想して楽しめるものを、いきさつがはっきりしないものだから、たぶんそうだろうとは思いながらも註記が味わいきれないのだ。文庫化にあたって、この註記だけは絶対入れさせるぞと大江は意気込んだにちがいない。ただ、単行本と文庫本の区別がつくひとなんて世の中にあんまりいないというところまで思いが至っていたかどうか……。

 

 『謎解きの英文法 冠詞と名詞』(久野ワ・高見健一、くろしお出版)

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 ずいぶん英語は勉強したつもりだが、冠詞だけは最後までわからなかった。aをつけるのかつけないのか、theをつけるのかつけないのか。辞書を引いてもよくわからない。説明を読みすすんでいくうちにこんがらがってきて、もういいやということになってしまう。本書を読んでだいぶわかった……ような気がする。

〇a はだいぶわかったが

 イラストが理解のたすけになる。文章だけで《不定冠詞のa(n)〜は、明確な形をもつ単一の個体を表わし、冠詞のつかない名詞は、個体としての明確な形や境界をもたず、「単一体」ではなく「連続体」を表わす》といわれてもよくわからないが、It's an eel. にはニョロリとしたウナギ1匹の絵が、It's eel. には串焼きの絵が添えられているのを見れば合点がいく。これがわかればイラストがなくても、There's a chicken over there. とI like chicken better than pork. のつかいわけもすんなりナットクできる。目の前のブツにはaをつける、とおぼえておけばいいのだ、たぶん。

 家族でチキンの丸焼き1羽を食べたときもOur family had roast chicken last night. aはつけない。《1匹のチキン全体ではなく、食べ物として焼かれた肉の部分であり、1つの明確な形をもつものとしては意識されていないためです。》冠詞は、英語びとがその名詞で表されるモノをどう意識しているかによって付けかたが決まってくるわけだ。

 There is a school at the foot of the mountain. のschoolは、明確な形をもつ校舎だが、I go to school with my sister. のそれは、《学校で行なわれる連続体としての「授業、教育」を表わし、単一の個体ではなく、連続体》だからつけない。個体ではなく連続体だからという説明はいまいち腑に落ちない。モノではなく抽象だからといったほうがわかりやすいのでは。I will make a speech this afternoon. のspeechは明確な内容をもつ「話」だからaがつくが、Speech is silver, silence is golden. のばあいは連続体の「話すこと」だからつかないというより、「話すこと一般」だからつかないといってくれたほうがわかりやすい。

〇the はまだよくわからない

 つぎはthe。 楽器を演奏するというときtheをつけるのは、さまざまな楽器があるうちの特定の楽器、たとえばguitarを取り上げるため。しかしtheをつけないばあいもある。Lonnie played guitar and his daddy and brother played violin. このばあいはほかの楽器と対比していないのでつかない。《楽器にtheがつかない場合は、その楽器の弾き方を知っているとか、職業としてその楽器を演奏しているという意味になります。》めんどくさー。

 In the summer I take a vacation and go to Hawaii. のsummerにtheをつけるのは、ほかの季節と区別し限定しているため。In summer I take a vacation...となっていたら、筆者はほかの季節と対比していないということ。……しかしこんな微妙なことを言われてもなあ。このふたつを訳し分けるのはたいへんだ。

 everyとany, eachの使い分けは納得。I can eat anything, but Ican't eat everything. どうちがうか。どんな料理でも食べられるが、一度に食い尽くすことはできないという意味。everyは同時、any, eachは個々とおぼえればいい。Every student in the class adores Professor Smith.とはいえても、このばあいEach student...とはいえない。クラスの学生はひとりひとり別々にスミス教授を尊敬しているという意味になり不自然(まったくの不適格文ではないにしても不自然なこういう文章には、?/??という記号をつけるとのこと。初めて見た)。

 もし関係代名詞の穴埋め問題で、John married a girl ( ) he met at a party a month ago. とあったら、whomを入れるだろう。目的格だからだ。ところがいまのアメリカの日常会話ではwhoをつかう。whomなんか使おうものなら「気取ってる」「古くさい」といわれてしまうのだそうだ。「誰が誰と働いた」というのも、Who worked with whom ? とはいわず、Who worked with who ? というのが一般的なのだそうだ。ところが「前置詞+疑問代名詞」が文頭に移動したばあいはwhomをつかう。つまりWith whom did you work on this ? とはいうが、With who did you work on this ? とはいわない。「前置詞+疑問代名詞」を文頭に移動させる構文は古くさいものなので古い文法規則が残っているのかもしれないという。アメリカ人よ、苦労しておぼえた文法なんだからコロコロ変えないでほしい。

 

 『問題な日本語――どこがおかしい?何がおかしい?――(北原保雄編、大修館書店)

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 『明鏡国語辞典』の副産物。辞典刊行を記念して《全国の高等学校の国語科の先生方に「気になる日本語」を指摘していただき、それらの用法について解説するという試みを行ったところ、たいへんな好評をいただいた。》そこで本にした。販促キャンペーンがベストセラーにつながったのだから2度おいしかった。840円という値段ははなからベストセラーねらい。それにしても安い。

 《表題とした「問題な」も味な使い方だと思うが、問題のある表現である。》と北原はまえがきで苦笑している。しょうがねえなあ出版屋さんは、いくら商売だからっておれは筑波大学の学長だったんだよ、示しがつかんじゃないか……。大修館は確信犯であることを示すため、装幀でも「な」の字だけ赤くしてすこし傾けた。「な」の字が、おくちポカンの子が空を見あげて笑っているような顔に見える。みごとな本づくり。

〇ねむい本文に喝を入れる漫画

 「おビールお持ちしました」という項目をトップに持ってきたのにはわけがあると見た。《「ビール」に「お」を付けるのは言葉を上品に美しくするためで、「おビール」のような語を美化語と呼びます。》へええ美化語なんていう言葉があるんだなと感心しているうちはいいが、美化語は自分の品位を高めるためのものだから、使う使わないには個人差があり、お茶は普通だが、お米は使わないひとも多く、お大根は男はあまり使わないなどと細かい分析がつづくとすこしうんざりしてくる。教師たちが集まって書いた本は総じてねむくなる。

 ここに覚醒剤を打ち込むのが、いのうえさきこの4こま漫画だ。「おビール」と題する4こまではまず「お酒はOKでおビールはNG、おそばはOKでおパスタはNG、お召しものはOKでおスーツはNG」という、本文にはない観察でオヤと思わせる。同名の漫画はもう一つあり、1.居酒屋の大将が「あいよ生1丁!!」ドーンと出したジョッキ550円、2.お運びのおばちゃんが「ハーイ、ビールおまちどお」運んできたビンビール630円、3.若いホステスが「ハイ heart.jpg おビールおまたせしました heart.jpg 」お客につぐビール3000円、4.「ヒトはオロカな生き物だ……」客は泣きながらビールを飲む。大学の先生の脳みそからは出てこない発想。漫画家はどれだけ跳べるかが勝負なのだろう。いくつか挿入されたいのうえの漫画の中でもこれが最高におもしろい。そこで編集者は「おビールお持ちしました」を巻頭に持ってきたにちがいない。

〇解決しない疑問も多い

 駅のアナウンスで「あぶないデスから白線の内側までお下がりください」という。「あぶないデス」が落ち着かないとむかしから思っている。どうしたらいいのだろう。「あぶのうございますから」なら落着きがいいと思うのだが、いまどきそんな言葉を使うのは、天皇陛下を案内する東京駅の駅長だけだろう。《形容詞+「です」の形は、口頭語ではかなり古くからあって、》と、漱石・芥川の例を引き、ただしともに会話文中のことであって、《地の文にはまず使われることがありません。(中略)文法的に誤りとは言えないまでも、どことなく落ち着かない、熟さない表現だという印象はぬぐえません。》「?/??」というマークを付けたいところだ。形容詞どころか今は何にでもデスをつけたがる。野球選手も相撲取りも、「よかったデス」という。「よかった」でもう終わっているのに、それだけでは失礼だとしつけられているのか、デスを追加する。ただ彼らもなんとなく違和感があるのかはっきりとは発音せず、「よかったス」というのが普通だ。

 《「的」というのは元来は名詞について形容動詞を作る接尾語です。多くは漢語に付きますが、「メルヘン的」「マニュアル的」のように外来語の名詞を形容動詞に変える働きもします。》異議あり。「元来は」というのがいつごろのことなのかが不明。『字通』で「的」を引いても、マトという意味とアキラカという意味しか出てこない。ということは元来「的」にそんなはたらきはないということだ。池田弥三郎は「ことばの漫画」のなかで《何々的という日本人の大好きな「的」も、もとは「ティック」の音をそのままに的におきかえたのだ。》といっている。-tickの当て字だとすると明治以降の話だろう。

 本文は2段組になっていて、下段には「使うのはどっち?」というミニ知識が並べられている。稲妻は「いなづま」か「いなずま」か。人妻は人と妻の連合とみなして「ひとづま」だが、稲妻は現代語の意識としては2語に分解しにくいものとして「いなずま」と書く(昭和61年内閣告示の「現代仮名遣い」による)。めんどくさー。現代語の意識なんかにこびず、「いね」の「つま」なんだから「いなづま」と決めてしまえばいいではないか。こうと決めてしまえばなんでもないものを、言葉というものは時代とともに変遷するものじゃからのうなどとイイ顔しようとするものだからかえって国民は混乱する。フランスを見てみろ。17世紀にアカデミーができてから国語は変わってない。われわれは江戸時代の文章なんて読めやしない。

 十分か充分か――本来の形は「十分」で、「充分」は「充足」などの類推から出たものとのこと。「十分煮る」など、ジュウブンかジップンかわかりにくいときは充分でもまあいいんじゃないの、と曖昧。

 知里幸恵は金田一京助にむかって「被害はすでに害を被るという意味なのだから、被害を被るという言葉遣いはおかしい」といった。その話を読んでから、なるほどそのとおりだ、しかしそれでは何といえばいいのかと落ち着かない思いをしてきた。ミニ知識に《「犯罪を犯す」は〜ヲに〈動作・作用の結果生じるもの〉をとるもので、「歌を歌う・選挙戦を戦う・遺産を遺す」なども同じ。重言として追放すべき言い方ではない。》とあるのを見て、被害を被るでもいいんだなといちおう安心はしたが、許される理由がよくわからない。

 時代劇などで「親方様が申されますには」などと言っているのを聞くたびに、ああ、バカなシナリオライターだな、目上のひとの発言に謙譲語の「申す」なんか使ってどうするんだ、尊敬の「れる」をつけたって手遅れだろうとイライラしてきた。ところがミニ知識に《「新大納言成親卿も平に申されけり(平家物語)」を始め、「号を見山と申される(中里介山)」「何と申される(司馬遼太郎)」など、古典や時代小説における使用例は幾らでもある。古くから使われてきた言い方だ。ただ、「部長が申されますように」など、現代語で使われているものは誤用とすべきであろう。》とある。わからん。平家物語で使われているほど古典的な表現なのに現代語で使うとなぜ誤用になるのか。中里介山や司馬遼太郎の使用例を正当性の根拠にするのはヘンだろう。二人とも現代の作家ではないか。