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 画家の手もとに迫る 原寸美術館』(結城昌子、小学館)

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 画集に収められた絵はまず縮小されたものと見てまちがいない。それを原寸で見せようという企画だ。かつてない企画で賞賛に値する。当然作品は部分図にならざるを得ないが、全体図とそれに対比した人物のシルエットを併載し、全体の大きさを理解させるという編集方法もみごと。《原寸で見る楽しみは、純粋に「目」の喜びである。できれば文学的なイメージを捨て、歴史観によった知識を忘れ、真っ白なカンヴァスを前にする思いで、細部をたっぷり見つめてほしい。》取り上げるのはボッティチェリからワイエスまで欧米の画家30人。泰西名画の流れを知ることができると同時に、解説文は技法に力を入れているから絵画の入門書としても楽しめた。

〇原寸ならではの発見が

 ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」(1485)の特徴は輪郭線。《近づけば人物を縁取る線がはっきりと見え、色彩が線に沿ってきちんと塗り分けられているのがわかる。》ルネサンスの精密な描法を採らず、従来の宗教画のような《紙芝居的な画風を踏襲しているのだ。》といい、《時代を超えてボッティチェリ絵画が愛される理由は、ここにあったのだ。》と結論づけているのは、ほめているのかけなしているのか。メディチ家の依頼で制作された「春(プリマヴェーラ)」(1482)も有名な絵だ。ヴィーナスの足もとを原寸で見せ、《きわだつのは足もとの花々だ。装飾的なものだと思われていたこれらの花々が、じつは自然に忠実に描かれた実際のフィレンツェの野原のものだという研究もある。》フフフ、結城も右足の指が6本あることには気づかなかったようだ。思わぬ発見も原寸の功徳。

 ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(1497)は巨大な壁画だ。なのに壁画に最適といわれたフレスコを採らず剥落しやすいテンペラ技法を選んだのはなぜか。《輪郭線を描かず、人物が周りの空気に包まれるようなレオナルド独特の表現には》卵黄を絵の具にまぜあわせて量感を出すテンペラがどうしても必要だったからだ。《レオナルドを境として、絵画の歴史は、対象を線でとらえるドローイングを基本とする絵画から、陰影でとらえるデッサンを基本とする絵画に移行した》。よほど輪郭線が嫌いだったようで、「モナ・リザ」(1506)では指の腹でぼかすスフマート技法を駆使しているという。スフマートなんて初めて聞く言葉だが、これで「空気遠近法」に挑戦しているというからいろいろやるひとだったのだ。ところで発見、輪郭線を描いてないというけど頭部の輪郭は描いている! いくらなんでも油絵で髪の毛一本一本を描き込むのは無理だったのだろう、と思ってよく見たらまたまた発見、ベールをかぶっているではないか。そんなこと今まで気づかなかった。これも原寸の功徳。

 「絵画なんか女子供の芸術だ。彫刻こそ男の仕事」とミケランジェロはいった。ふつうの彫刻家は彫るまえに粘土で数分の1のモデルをつくりそれを見ながら石を彫っていくというのに、彼は「彫像が早く石の中から出してくれと訴えている」といってじかに巨大な大理石を彫っていった。そんな根っからの彫刻家が、システィーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」(1512)をいやいや引き受けた。生乾きの白い漆喰の上に下絵を転写して輪郭を決めたら一気に土製顔料を塗ってしあげるフレスコ画。《一日に仕上げられる分だけの漆喰を塗り、乾く前に素早く描くという瞬時の選択を迫られる。》それでフレスコ(フレッシュ)という。《首を上方に折り曲げる不自然な姿勢と、天井から滴り落ちる絵具に顔を汚す苦しみは、尋常ではなかったと思われる。》高い足場から降りるのがめんどうでワインのボトルに小便していたが気づかずにそれを飲みつづけたというエピソードも聞いたことがある。たったひとりでテニスコート2面以上の作品を完成させた。

 デューラーの「野ウサギ」(1502)は、透明水彩とグワッシュで描かれている。《野ウサギの柔らかな量感を透明水彩でつくり、キリリとした毛並みや瞳、ひげなどの細部はグワッシュで仕上げたと思われる。》透明水彩は下の色が透けて見える絵の具、グワッシュは厚塗りに適した不透明な水彩絵の具でわれわれが小学校以来手にしてきたもの。われわれはそんなシャレたことを子どものころからやってきたのだ。
 「絵をお描きになるとか」
 「ええ、グワッシュを少々」
 「まことちゃんですか」
 「それはグワシでんがな!」

〇芸術も環境を超越できない

 かつて『上の空』に受傷直後の夢とも現ともつかぬ状態のことをこう書いた。《となりでは老人がタンに苦しんでいた。看護婦が「誰々さん、今日はよくタンが出たねえ、よかったねえ」と話しかけているのが聞こえた。その声で、あるヨーロッパの画家の絵を連想した。名前は思い出せない。なにか巨大な魚の腹わたを小さな人間たちが引きずり出しているというような気味の悪い絵である。その作品の一隅で、老婆が口から大量のタンを吐き出していた。記憶ちがいかもしれない。私はまぶしさと暑さと緊張と苦痛に耐えながらその会話を聞いていた。そうか、人間最期はタンで死ぬんだなとそのとき思った。》この画家がヒエロニムス・ボスなのかブリューゲルなのかいつまでたってもわからない。この本でボスの「快楽の園」(1516)とブリューゲルの「ネーデルラントのことわざ」(1569)が併載されているのを見て、なぜわからなかったのかがわかった。似ている。ふたりとも同時期おなじオランダに生まれているのだ。

 おなじ文化のなかに生まれ育つと同じような作品を作るものだという事実は、グスタフ・クリムト(1862〜1918)とエゴン・シーレ(1890〜1918)の例を見ても明らかだ。ともにウィーンの近くで生まれ、生涯友情を結んだという。並べ見ればまったく異なる画風だが、私蔵して深夜じっくりなめまわしたいようなエロティシズムが共通している。

 フェルメール(1632〜1675)の作品は、カメラ・オブスクラという暗箱に映った像をなぞって作ったという。ちょっと拍子抜け。絵画が写真に取って代わられる前兆を見る思い。むかしプレゼンなどのさいデザイナーが簡単な線描だけで写真をじつにみごとに模写してくるので「さすがプロ」と感心していたが、デザイン事務所に行ったとき写真の上にトレペをのせるだけで大小自由自在に模写できる器械を発見し、なあんだと思った。それに似ている。

 《一五世紀まで、ヨーロッパには風景画というジャンルがなかった。》「モナ・リザ」のように背景として風景が描かれることはあっても、本格的な風景画が登場するのは16世紀のブリューゲル、ルーベンスなどのフランドル派以降。《山水画の伝統をもつ東洋、なかでも、古来、風景に心を重ねる私たち日本人には、風景発見のこの遅さは驚くばかりだ。》フランドルはフランスなのに、なぜブリューゲルのようなオランダ人画家の名が出てくるのかと思って調べたら、オランダ名フランデレン、英名フランダースとのこと。オランダ領になったりフランス領になったりしたのだろうか。「フランダースの犬」のネロはルーベンスの絵の前で死んだ。フランドル派の絵にあこがれたということなのだろう。

 《マネの描き方は、チューブから絞り出したそのままの色を直接カンヴァスに置いていくアッラプリマ技法。》「ぶっつけ描き」のこと。マネ(1832〜1883)の作品は宗教や歴史に題材を採らず庶民を描いたためとかく評判が悪かったが、《ほんとうのところ、時間をかけずに仕上げたような斬新で荒削りな筆跡が、悪評に拍車をかけたのだろう》《写真の発達で、絵画が写真のかわりをする時代も終わる。絵画にはなすべき新しい使命が生まれることをマネは感じていた。》

 アッラプリマ技法を自家薬籠中のものとして独自のスタイルに結びつけたのは、フィンセント・ファン・ゴッホ。《溶き油によって薄めることをしない厚塗りの可能性に注目したゴッホは、絵具の盛り上がりそのものをマチエールとした。》確かに「星月夜」(1889)のオレンジ色の月のまわりにぐるぐると塗りたくられた黄色、緑色、群青色には異様な迫力がある。イワシの大群が奔り回っているようだ。晩年の10年間ゴッホは1日1点のスピードで絵を描いた。《もし、ゴッホがチューブから絞り出す生の色とカンヴァスとを直結させていなければ、作品数は激減していただろうし、これほどの迫力も生まれていなかったはずだ。》余談ながら「星月夜」という翻訳はいただけない。星月夜は月が出ているほど明るい星空のことだ。原題はなんというのだろう。

 ポール・ゴーガン(1848〜1903)について結城は《専門的な教育を受けていなかったゴーガンは、そのぶん、陰影や奥行き、リアルさを捨て、色と平面性と題材の特異性を手に入れて、次の時代での評価を待ったのかもしれない。》という。それでタヒチくんだりまで行ったのか。芸術家もどうやって目立とうかと苦労しているのだ。サルバドール・ダリの有名なぐんにゃりした懐中時計の「記憶の固執」(1931)にしても、《抑圧された無意識の夢を写実的に表現した》ものだというのだが、とにかく未だかつて誰も描かなかったような絵を描きたいという功名心が動機だろう。誰も書いたことのないような小説を書きたい、誰も聞いたことのないような曲を作りたい、誰も登ったことのない山に登りたい……みな同じことだ。呪術・宗教・教育などの実用から独立したとき、絵画芸術は欲望を原動力にせざるを得なくなった。そのため一段とおもしろくなりにぎやかにもなったが、騒々しくもなった。それでときどきボッティチェリのような素朴な絵画がなつかしくなるのだろう。