42(2006.11 掲載)

 『摘録 断腸亭日乗(上)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)

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 荷風が38歳から79歳まで付けた厖大な日記を磯田が摘録。もともとおもしろいところだけを編んだ書物だからドッグイアだらけ。しかしそれにしても古文を「一太郎」で書き写すのは難渋を極める。「異る」と打つにはいったん「異なる」と打って、しかるのちに「な」を消さなければならない。簡単に出てこない難漢字も多い。古文の書写はワープロより手書きのほうがはやくて確実。本巻は大正6年から昭和11年まで。始終腹痛を起こすことから自宅を断腸亭と名づけた。書名はおそらくそれに由来するのだろうが、あるいは秋海棠(シュウカイドウ、別名断腸花)を好んだところからか(昭和2年5月)。命名法は漢詩をよくした父親が住まいを来青閣と名づけ『来青閣集』という詩集を出したことにならったのだろう。身辺雑記と世相観察に重点を置いて読む。

〇身辺雑記

 親兄弟との仲はうまくいっていなかったようだ。父親の死後母親は弟宅へ転居。

 大正7年(荷風40歳)8月、父親の遺した牛込区(現新宿区)大久保の自宅の土蔵を掃除しているとき《床下の殊更に奥深き片隅に》先考(父親)が上海から持ち帰った陶器文房具のたぐいを発見する。《これに依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。》築地に引っ越す。いずれ発表するつもりで書いている。ずいぶんあからさまなことまで書くものだ。
 同12月、《午後病を冒して築地の家に徃(ユ)き家具を排置す、日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。この妓無毛美開、閨中欷歔(キキョ、すすりなく)すること頗妙。》出ました「四畳半襖の下張り」。八重福は桜木にいるものなのか、それとも桜木で呼ぶものなのか、しくみを知らず。開の意味は開高健の随筆で読んで知っていた。知らなければ楽しめない。難しい言葉がたくさん出てくるので充分味読するには相当の知識を必要とする本だ。

 大正8年(41歳)5月、《余は日本現代の文化に対して常に激烈なる嫌悪を感ずるの余り、今更の如く支那及び西欧の文物に対して景仰の情禁じがたきを知ることなり。(中略)然れども日本現代の帝都に居住し、無事に晩年を送り得る所以のものは、唯不真面目なる江戸時代の芸術あるがためのみ。川柳狂歌春画三味線の如きは寔(マコト)に他の民族に見るべからざる一種不可思議の芸術ならずや。無事平穏に日本に居住せむと欲すれば、是非にもこれらの芸術に一縷の慰藉を求めざるべからず。》8月7日、物干し台に出て路地裏を見おろせば《いつもながら日本人の生活、何らの秩序もなく懶惰不潔なることを知らしむ。(中略)市民の生活は依然として何のしだらもなく唯醜陋なるにすぎず個人の覚醒せざる事は封建時代のむかしと異るところなきが如し。》基本的にこういう姿勢なら何を見ても腹が立つことだろう。荷風の旺盛にして的確な批判力は、このような根本的嫌悪感に由来するのだ。

 大正9年(42歳)5月、麻布市兵衛町に転居。《麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。》

 大正10年(43歳)4月、《昨日あたりより花満開となれり。近隣の児童群れ集りて、あるいは石を投げ、あるいは竹竿にて枝を折り取らむとす。日本の子供は犬を見れば撲ち、花を見れば折らざれば已まず。獰悪山猿の如し。》自分のおさないころも子どもたちは犬を見れば石を投げた。かわいそうなことをするものだと思ってながめていたが、いまになってみれば野良犬が多かったのでふだんから威嚇して犬たちの増長を防ぐ意味があったのだと思う。最近のイノシシ、サル、シカなどによる被害は、人間の住居が山を削り山に餌がなくなったせいだといわれているが、動物愛護・野生生物保護の思想が広まったせいもあるのではなかろうか。
 この年荷風全集完結。《余の身既に世になきが如き思ひあり。》43歳で全集を出し、虚脱感に襲われている。それともおどけているのか。

 大正11年(44歳)9月、《夜母上を訪ふ。手づから珈琲を煮て勧めらる。余年漸く老るに従ひ朝夕膝下に伺侍せむことを冀へども、弟威三郎夫婦世にある間はこの願ひの叶ふべき日は遂に来らざるべし。十一時の鐘鳴るを聞き辞して門を出れば、人皆戸を鎖し道暗くして犬頻に吠ゆ。満腔の愁情排けがたし。》弟に対する私怨を晴らすために書いているようなもの。大正13年(46歳)の12月にはその背景が書かれている。母親は弟夫婦の子どもふたりと暮らしているのだが、これがまた行儀の悪い子で、母と荷風が対座するそばに走り寄り椅子によじ登ったりお茶をひっくり返したり菓子を奪いなどし、《余に向かつて早く帰れなどと面罵す。》威三郎夫婦は野猿の如き悪児ふたりを年老いたる母に託し朝鮮の某所に住んでいる。《これ人の親たる務を尽さず、また子たるものの道にも反けるものといふべし。威三郎はかつて余の妓を納れて妻となせしを憎み、爾来十余年義絶して今日に及べり。》日記執筆以前の大正3年なじみの芸者八重次と結婚し、4年に離婚している(大久保時代は近所にやはり芸者と結婚して添い遂げた坪内逍遙が住んでいた。逍遙のしたことをおのれもして何が悪いと思っていたのだろう)。

 ただ、父親が倒れたとき、八重次の家にいてそれを知らなかったことをひどく悔やんでいる。《予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て》箱根で罪滅ぼしをしようというつもりで行ったのだが、八重次の家に帰ってからも雪がひどくてつい居つづけてしまったと言い訳している(大正15年正月)。こんなことがあったせいか結婚したばかりの正妻ヨネとは1年で離婚、八重次と一緒になったもののこれまた1年で離婚したという次第。

 荷風はじつに詳しく当時の売春事情を書いている。後世のための記録、またこれから書く作品の資料としてメモしている気配がある。大正12年(45歳)6月、《市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。囲者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十ばかりなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の写真など見せ、それより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四、五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て、身体はやや小づくりなり。秋田生れの由にて言語雅馴ならず。灯ともしごろまで遊びて祝儀は拾円なり。》市兵衛町だからご町内だ。秘密にやっている仕事だろうに表札の名前まで出されちゃって迷惑な。

 なぜそんな下半身事情を日記として残すのか。大正14年おおみそか、桜川町の女を連れ帰ったものの除夜の鐘が鳴ったらそのまま帰してしまう。《予今年六、七月の頃より執筆の気力遽(ニワカ)に消磨し、心欝々として楽しまず。淫蕩懶惰の日を送りて遂に年を越しぬ。この日記にその日その日の醜行をありのままに記録せしは、心中懺悔(ザンカイ)に堪へざるものから、せめて他日のいましめにせむとてなり。》とかなんとかいっても、全然他日のいましめになんかしていない。おおみそかは体調がすぐれなかっただけ。翌15年(48歳)正月2日には《桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。》6日には虎の門の女を訪ねている。かつて脚本家のジェームス三木が、若いころ書いた「春のめざめ」だったか女性遍歴の日記を奥さんに発見され離婚されてしまうという事件があった。女体の味わいをA、B、Cとランク付けしてあり、自分がBに格付けされているのを知った細君が激怒したのだった。そのとき世人はそんな文書を残しておくなんてバカな男だとあざけったが、なんでも記録して残しておきたいような人種が作家になるのだ。他日のいましめにしようという気もないではなかろうが記録癖が第一因。
 同年正月12日、桜川町の女お富について詳述するときも《包まず事の次第を記して、後日の一●(イッキャク、わらいぐさ)に資す。》と弁解せずにはいられない。《宛(サナガ)ら二十前後の恋仲にも似たりと思へば、さすがに心耻しく顔のあからむ心地するなり。人間いくつになりても色慾は断ちがたきものと、つくづくわれながら呆れ果てたり。》48歳の老人にもなって恥ずかしいというわけだ。ところが同22日、《震災の頃よりは年も漸く老来りし故にや、かへつて孤眠の清絶なるを喜ぶやうになりぬ。》家に妻妾がいると化粧品がくさくて花の香りも楽しめないし階段には糸くず髪の毛が落ちて《草廬の清趣全く破却せらる。これ忍ぶべからざる所なり。》だけど淫欲も排除できない。《勉学もおもしろく、放蕩もまた更に愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。》二転三転、色慾と孤眠のあいだでゆれうごく。

 大正12年(45歳)9月1日、関東大地震。《日まさに午ならむとする時天地忽鳴動す。(中略)架上の書秩頭上に落来るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々、殆咫尺(シセキ)を弁ぜず(暗くて近くのものでも見分けが付かない)。(中略)塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。(中略)身体の動揺さながら船上に立つが如し。》それでも昼飯を食いに山形ホテルに赴いている。
 10月3日、日比谷公園には仮小屋が建ち連なり《糞尿の臭気堪ふべからず。》いたるところ糞尿の臭気はなはだしく支那街のごとしと言っている。愛宕下から江戸見阪を上り来路をかえりみると、《房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。》世間に対する悪口より、房総の山が手に取る如く見えたというところに興味を覚えた。

 揮毫を頼まれることが多くて閉口している。大正14年(47歳)12月、《文筆の業は固より世間外のものなるに、情実のために意を枉げざるべからざる事多きを思へば、世の顕職激務にある人々の煩累さぞかしと察するに余りあり。》同12月、寄贈雑誌を売り払う。毎月郵送してくる「中央公論」「解放」「女性」「新小説」「文芸春秋」など、受け取るやいなや押入に投げ込む。《雑誌より得る所の知識果して何ぞや。予は雑誌閲読の時間を以て、古今を問はず学者のまとまりたる著書を熟読することとなせり。》ま、そうなんだけどさ。雑誌も読めなくなってみるとさびしいものだということには、無理もないが思いは至らないようだ。雑誌が読めない理由はふたつ。読書に充てられる時間が少ないからどうしても単行本を優先せざるを得ない。雑誌は表紙が柔らかくて書見台に固定しにくい。漫画も受傷前までは毎日のように読んでいたものだが、これは頻繁にページをめくらなければならず、口でめくる身にはつらい。

 風景描写にうっとりする。大正14年12月、《鄰家読経の声に夢寤(サム)るや、空霽れわたり、窗前の喬木に弦月懸りて、暮靄(ボアイ)蒼然、崖下の街を蔽ひたり。》

 大正15年(48歳)7月、庭掃除をしているとツバメがたくさん電線にとまっているのに気づいた。ツバメが庭に来たのは初めて。《下町辺震災の後、今に仮普請の家のみにて燕の巣を作るべき処なきが故か。》観察眼はバードウォッチングにも及んでいる。
 昭和2年(49歳)7月、森鴎外の忌日に墓参りをしたところ、墓前に手向けた花に大きな名刺が下げてある。《これを見るに慶應義塾大学部教授文化学院教授与謝野寛とあり。先師の恩を忘れず真心よりその墓を拝せむとならば人知れず香華を手向け置くも可なるべし。肩書付の名刺を附け置くは売名の心去らざるが故なり。老孤の奸策さてもさても悪むべきなり。》なにもそこまで糾弾しなくてもと思うが、このての俗っ気、不純なるものをひどく憎むひと。菊池寛に対する攻撃がもっとも激しい。
 同年12月、弟鷲津貞二郎死去。《貞二郎は余とは全く相反したる人にて、その一生を基督教の伝道にささげたるなり。放蕩無頼余が如きものの実弟にかくの如き温厚篤実なる宗教家ありしはまことに不可思議の事といふべし。》

 昭和3年(50歳)2月、このころご執心なのはお歌。毎晩のように晩飯のおかずを持ってくるかわいい女。芸者をしていたにしては正直者で親切だとたたえる。《お歌はまだ二十を二ッ三ツ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり。(中略)余かつて遊びざかりの頃、若き女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮気一つせずおとなしく暮しゐるを見る時は、これ利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚しくこれを卑しみたり。》しかしそうともいえないと荷風は言葉を継ぐ。生まれつき気が弱く世間にもまれてつらい思いをするより生涯日陰の身で安らかな日を送りたい女もいる、これは文化の爛熟した国にしか見られぬもので、ニューヨーク、シカゴあたりにはいないがパリにはよくいるタイプだと述べたあと、《余既に老境に及び芸術上の野心も全く消え失せし折柄、かつはまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨歎する折柄、ここに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし。》このまま静かに老後を送りたいものだとしみじみするのだが、このあと波乱の展開が待っている。3月、お歌は売りに出ていた待合い蔦の家を買い受けて営業したいと言いだす。荷風は東京海上の株を売って金を工面してやる。

 昭和5年(52歳)2月、お歌が突然待合いを売り払いふたたび芸者になりたいと言いだす。《余去秋以来情慾殆消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず。余一時はこの女こそわがために死水を取つてくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなきゆめなりき。》お歌がはたして性欲の不満から芸者に戻ると言いだしたのかどうかは明らかではないが、荷風はそう推察している。年齢差が大きいとどうしてもこういうことが起きるんだなあとこちらも感慨にふけっていると、なんのこたあない、同12月、夜お歌のところへ行き夜半家に帰る。この夜はゲンキだったのか、世の中は不景気だが《されど予が健康今年は例になく好き方にて夏の夜を神楽坂の妓家に飲みあかしたることもしばしばなりき。五十二歳の老年におよびて情癡なほ青年の如し。笑ふべく悲しむべく、また大に賀すべきなり。》かってにしなさい。

 昭和6年(53歳)6月、晩飯ののち小星(妾、ここではお歌)を訪れたその帰り、《小星余の帰るを送りて麻布に至らむとする途中、車上遽に発病、苦悶のあまり昏眩(コンゲン)絶倒す。》行きつけの中洲病院に入院させる。いずれ発狂するだろうという医者の見立て。7月に入るとお歌のことをお歌とも小星とも書かず、病婦と記述するようになる。《夜番街の病婦を訪ふ。言語挙止全く狂人に類す。憫むべきなり。》8月、お歌の母と待合いの売却について話し合う。お歌は実家へ。待合いの留守をあずかる老婆と金のうちあわせをしたり、人を介して父親と接触したりと後始末に忙しい。

 昭和7年(54歳)2月、《身体衰弱し活力殆消磨したる状態なり。》「鏡中憔悴の形影を写す」と題して添えられた自画像に「子細に見るに左右の鬢に白髪四五本生ず」の自筆文字を発見。あのなあ、おれなんか54のはるかむかしから総白髪だ。あんまり哀れっぽい声を出すな。

 昭和8年(55歳)、5年前某教科書出版社にあてて書いた出さずじまいの手紙――。『あめりか物語』の一節を教科書に盗載したそうだが当惑している。自分の小説は慰みに書いたもので女子教育のために書いたものではない。《かつまた小生の品行思想両(フタツ)ながら男女青年子弟の教育には甚弊害有之(コレアリ)候ものにて、これを教科書に採録するは実に以ての外の事に有之候。》といいながらじつは後段《小説家輩の文章を編纂して学生に売付利を貪る書肆の悪事を憎み候ものに御座候。》に力点がある。不潔のにおいに敏感なひと。しかしさすがに大人げないと投函をためらったのだろう。
 同年11月、やはり未発表の随筆を写し置いている――。なぜ独身を通しているのか。べつに独身主義ではなく、ただ妻となるべき女性に妻の心得を説いて聞かせるとみんなびっくりして逃げてしまうのだ。一家の主婦たるものは下女より早く起き、下女より遅く寝ること。毎日家計簿を付け、来客へのお茶は下女でなく自分で出し、自分の部屋は自分で掃除する。《家内のことは大小となく一応夫に相談した上でなければ親戚友人には語らぬ事。》これだけのことなのだが、現代教育を受けた女にははなはだ奇矯に聞こえるようだと。

 昭和11年(58歳)1月、帰朝以来なじみを重ねた女性16人をあげ、素性を記す。芸者、私娼など。《この外臨時のもの挙ぐるに遑あらず。》同2月、銀座に行こうと思ったが顔を洗うのがめんどうで行かず、筆をとるのも懶い。《老懶(ロウラン)とは誠にかくの如き生活をいふなるべし。芸術の制作慾は肉慾と同じきものの如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ芸術の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ。余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。》もうだまされんぞ。荷風はちょっと体調が悪いとすぐこんなことを言う。(来月につづく)