43(2006.12 掲載) 『摘録 断腸亭日乗(上)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)
〇世相観察 大正10年(1921、43歳)9月、《銀座通に出るに道普請にて泥濘踵を没す。商舗の燈火は暗澹として行人稀なり。余東京の市街近日の状況を見るや、時々何のいはれもなく亡国の悲愁を感ず。》1918年富山の米騒動、1920年世界恐慌と、しだいに日本を暗雲がおおいはじめたころだ。 大正11年(44歳)4月、《晩間銀座に徃(ユ)くに電車街路斉しく田舎者にて雑踏すること甚し。年年桜花の時節に至れば街上田舎漢の隊をなして横行すること今に始まりしにあらず。されど近年田舎漢の上京殊に夥しく、毫も都人を恐れず、傍若無人の振舞をなすものあり。日本人と黒奴とはその繁殖の甚しきこと鼠の如し。米国人の排日思想を抱くもまた宜なりといふべきか。》後半は筆がすべったというべきだろうが、確かに人数が少ないうちは田舎者だろうと黒人だろうと気にならないものの数が多くなると嫌悪感を禁じ得ないのも正直なところだろう。傍若無人とあってはテリトリー意識も反感に拍車をかける。同4月、《銀座にて昼餉をなす。帰途愛宕山の裏手なる天徳寺横町を過ぐ。小学校あり。教師の講義する声窓より漏れ聞ゆ。何心なく塀外に佇立みて耳を傾るに、教師は田舎漢とおぼしく語音に訛あり。かつまたその音声の職業的なること宛然活動弁士の説明を聞くが如く、また露天商人の演舌に似たり。余が小学校にありし頃に比すれば教師の人格の甚しく低落したるは、その音声を聞けば直にこれを知り得べし。敢てその他を問ふに及ばず。》声音に注目するとは恐るべき繊細さ。声で人格を判断する、いい着眼点だ。
大正14年(47歳)10月、《三階建の牛込演芸館の入口に何やら片仮名にてかきたる歌劇の看板かかりて、怪し気なる合唱と楽隊の響漏れ聞ゆ。西洋芸術中の精華とも称せらるる歌劇も日本の地に移さるるや、忽野鄙聴くに堪えざるものとなる。日本語に訳せられたる西洋の歌謡はまことに侏離鴃舌(シュリゲキゼツ、音が聞こえるばかりで意味が通じない、モズのさえずり)といふべきなり。》以前NHKの「ラジオ深夜便」で日本におけるクラシック音楽の歴史といった内容の番組を聴いていたら、有名な歌曲をふたりの女性が歌っている。ひとりは明治時代のごく初期の録音でこの歌がまことにお粗末。いまひとりの現代の歌手とくらべたら月とすっぽんの差がある。輸入した文化が根付くには100年ぐらいかかるという解説だった。アメリカやフランスで本場のオペラを聴いてきた荷風にとっては野鄙聴くに堪えざるものだっただろう。彼我の文明差に思いをいたせば暗澹たらざるを得なかったにちがいない。つい悪口になる。 昭和2年(49歳)10月、《正午邦枝君来りてこのほどより警視庁保安課にて銀座通のカッフェーに出入する客を検挙すべき模様なりとの事なれば、当分避けらるるが宜しかるべしと言ふ。》この時代のカッフェーがどういうものであったのかわからないが、荷風は毎晩のように銀座で晩飯を食ったあとには「タイガー」などのカフェに足をのばしている。昭和にはいってすぐ風紀の取締りがきびしくなっていることがこの日記によってわかる。同年11月には社会主義者が資金集めのために揮毫を求めに来る。3年には無産党員が円本の印税を狙って自宅に押しかける。 昭和4年(51歳)2月、紀元節の日、脚気および梅毒の注射をするため車で丸の内のあたりを行くと青年団が「日本(ヤマト)魂」「忠君愛国」などと書いた布をたすきがけにして行進している。《近年この種類の示威運動大に流行す。外見は国家主義旺盛を極るが如くに思はるるなれど実はかへつて邦家の基礎日に日に危くなれることを示すものなるべし。何事に限らず外見を飾りて殊更気勢を張るやうになりては事は既に末なり。》皮肉きわまりない見かたのようだが、今から見れば結局当たっている。同年12月、銀座のタイガーに行くも閑散としている。《今秋内閣更迭以来官吏会社員の月俸は減少し禁奢の訓令普達せられしのみならず、酒肆(シュシ)舞蹈場の取締厳格となりしため銀座始め市内の酒舗はいづれも景況落莫たり。(中略)官権万能にして人民の従順なること驚くに堪えたり。》日本の庶民は「自覚」がないと随所で嘆いている。 昭和5年(52歳)3月、都新聞の記者が来るが会わない。世の人は新聞記者が来るとたいてい歓迎する。ゆえに記者も狎れて失礼な質問をする、《たまたま面会を拒絶するものあれば驚き怪しみ倨傲憎むべしとなすなり。然れども記者は警察吏にあらざれば猥(ミダリ)に人の家に来りて面談を迫り家内のさまを視察してこれを公表するの権能なし。》
昭和6年(53歳)3月、報知新聞の野間清治社長が活版刷りの手紙で原稿を求めてくる。《手紙の中に玉稾の取捨と多少の伸縮とは新聞製作の技術上これを社に一任せられたき由をしるす。これ人の文を把りて濫(ミダリ)に添削改竄する事を公言するものならずや。無礼これより甚しきはなし。》朝日新聞が随筆の寄稿を求めてくるが、朝日は、《余がかつて銀座のカッフェーに出入する事につきしばしば中傷の記事を掲げたり。然るに今日俄に寄稿を請ふ。何の故たるを知らず。》どいつもこいつもといった様子。同3月、広津和郎の小説「女給」で有名になった銀座の黒猫亭に行くと、店頭に「当店に女給小夜子あり」と書いた看板を出している。《楽隊にて囃し立てるさま、宛然縁日の見世物小屋なり。当世人の悪趣味実に究極する所を知らず。》まったくどいつもこいつも。
昭和7年(54歳)2月、紀元節のせいだろう、早朝から花火が上がり、ラジオの唱歌騒然、《去秋満洲事変起りてより世間の風潮再び軍国主義の臭味を帯ぶること益々甚しくなれるが如し。》満蒙事件の報道で「日々新聞」に先を越された朝日新聞はそれ以来、営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹には冷淡にしていたところ、陸軍省から不買運動を起こされたものだから陸軍部内の有力者を接待し10万円寄付、《翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしといふ。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり。》朝日・岩波の左翼的論調は商売に過ぎないとよく山本夏彦が言う。他社に先を越されたから別の方針で行くというのもみっともないし、不買運動を起こされたからまたまた方針転換するというのもだらしない。こののち、銀座通り商店は上海攻撃の写真を掲げ、蓄音機販売店は軍歌を吹奏するという光景がつづく。 昭和9年(56歳)7月、鳥居阪警察署の特高刑事3人が来て『日本の神話』という小冊子の寄贈を受けたかどうかを問う。寄贈の新聞雑誌は封も切らずに竹駕籠の中に投げ込んであるから勝手にさがしてくれと答える。同年10月11日、コノ日ヨリ就学中ノ青年カフェー及舞踏場に(ママ)入ルコトヲ禁ゼラル。
昭和10年(57歳)7月、《路傍に十字架の紋つけし小挑灯(コヂョウチン)を持ち、若き女二、三人引連れ辻説教をなせる老人あり。》汚れた浴衣姿の貧しげな老人、震災のころ偏奇館の隣にいた牧師だ。《その頃にはこの宗旨もなほ今日の如く衰微せず、救世軍の如きは太鼓叩き讃美歌うたひて大通を練り行きたり。昭和六年満洲戦争起りてより世の有様は一変し、街上にて基督教を説く者殆跡を断ちたり。》同7月、ラジオで鴎外先生の『山椒大夫』を浪花節で流しているが、先生は浪花節が大嫌いだった。《しばしばその曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。(中略)今日浪花節は国粋芸術などと称せられ軍人及愛国者に愛好せらるるといへども三、四十年前までは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道芸にすぎず、》座敷で聞くものではなかった。かっぽれより下品な芸とされていた。《現代の日本人は芸術の種類にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。》
昭和11年(58歳)4月、新聞には連日血なまぐさい事件ばかり。《公私の別あれどこれを要するにおのれの思ひ通りに行かぬを憤りしがためならずや。人生の事もし大小となくその思ふやうになるものならば、精神の修養は無用のことなり。》まったくだ。教訓カレンダーの1ページに収録したいことば。人生の事もし大小となくその思ふやうになるものならば、精神の修養は無用のことなり。
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