44(2007.01 掲載)

 『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(武居俊樹、文藝春秋)

   akatsuka.jpg
 2003年11月、青梅駅の近くにできたばかりの赤塚不二夫会館に行った。入り口に階段があって入れず、しかたないので連れ合いだけ入館し、自分は入り口横で逆立ちするバカボンのパパの隣に車椅子を駐め、待っていた。出てきた連れ合いに中の様子を聞くとあまり充実したものではなさそう。記念に買って帰ろうと思ったフィギュアも全部はそろっていない。バカボンとメンタマツナガリだけ入手した。ほんとうはウナギイヌがほしかったのに。アイデアしだいでもっとおもしろい名所にできるのになあと話していると、通りがかりのおじさんが「入れる?」と聞いた。通りに背を向けていたのでしかとはわからなかったが、どうも赤塚不二夫のようだった。客の入りを気にしてそしらぬ顔で偵察しているのだと思った。ところが本書によれば赤塚は2002年に倒れて以来、昏睡状態だという。じゃあおれの思いこみだったんだな。

  〇赤塚流漫画作法

 著者は昭和41年(1966)の小学館入社以来、赤塚担当を長年つづけた編集者。訪問初日から「少年サンデー」連載「おそ松くん」の「アイデア」に参加させられる。赤塚、長谷邦夫、古谷三敏の3人がテーブルを囲む。資料が2冊置いてある。『日々の研究事典』は雑誌の発売日周辺にどんな行事があるか調べるためのもの。もう1冊は『世界名作の簡略本』(ずいぶんいいかげんなタイトルだが、これでいいのだ、ろうか)。みんなでわいわい言いながら登場人物のしぐさ、せりふの一つ一つを決めていく。

 アイデアのつぎはネーム。《赤塚は、長谷がレポート用紙に書いたメモを横に置き、ネーム用紙に鉛筆を走らせている。/ネームというのは、最終的な漫画の形にコマが割られ、せりふ(これもネームと言う)が書かれる。漫画は、この段階で、テンポやリズムが決まってしまう。(中略)早い。コマの大きさを決めながら、凄いスピードで字を書いていく。時々、人物の動きを表すための、簡単な流線を入れたりしながら、まったく淀みがない。/すでにアイデアの段階で、赤塚の頭には、原稿の完成図が出来あがっていたのだ。》

 アシスタントがそれをケント紙に書き写し、赤塚がせりふを「吹き出し」で囲み、「当たりをとる」といって鉛筆で人物を書く。チーフアシスタントの高井研一郎がラフな線を鉛筆で1本の線に決め、アシスタントがペン入れしていく。13ページの漫画で、アイデア3時間、ネーム2時間、当たり4時間、赤塚の手を離れて原稿が完成するまで4時間、計13時間。そのあとは毎晩宴会。《こんなこともあった。五十嵐(マガジン編集者)も僕も、仮性包茎だ。赤塚は、飲んでいて、よく「五十嵐、チンポコを出せ」と命令する。五十嵐は、人と喋りながらも、手でチンポコを引っ張り出す。なんのためらいもない。赤塚も自分のモノを引っ張り出し、五十嵐の皮を自分のチンポコにかぶせて、二つのソレをドッキングさせる。/「合体!!」/そして、合体を解き、五十嵐のモノに、ラー油をたっぷりかける。勿論、それを食おうというわけではない。「熱い」と五十嵐は悲鳴をあげる。しかし、目が笑っている。》五十嵐は現在講談社の常務取締役をしている。

 フジオ・プロには競合漫画誌の編集者が集まって原稿を待っている。「少年マガジン」の「天才バカボン」のアイデアが始まると、赤塚が武居に声をかけてきた。「武居さん、こっちへ来て、一緒にアイデアやろうよ」「やだよ、なんで僕が、マガジンの仕事手伝わなきゃいけないの?」「あんた、心が狭いよ。仕事早く終わらせて、新宿行こうよ。こっちへおいで」「そう言われると弱いな」ビールを片手に、アイデアの輪に加わる。《それをさせる赤塚が悪いのだ。じゃなくて、偉いのだ。赤塚は、たとえ他人の漫画であろうが、それを面白くするために、考えたことを言い尽くす。出し惜しみをしない人だった。》これを読んで思い出した。高倉健の任侠映画全盛のころ、テレビを見ていたら、ある絵描きが高倉健を描いた作品を出した。するととなりにいた横尾忠則が「健さんは目を三白眼に描くともっと似ますよ」とアドバイスした。言われたほうは心なしかムッとしたように見えたが、横尾にしてみれば誰の作品であろうが良くなればそれでいいという思いしかなかったのだろう。こういう世界が好きだ。メンツだの立場だの、みんなそんなケチなことにこだわりすぎる。

〇ハチャメチャギャグの背景にあった満州・引き揚げ

 《第二章 赤塚藤雄「偽自伝」》がもっとも興味深い。偽というのは含羞で、ほとんど事実だろう。そうか、あの漫画の背景にはこんな人生があったのかと、気づかされる。赤塚不二夫の漫画人生の本を読んでいて満州が出てくるとは思わなかった。日本人にとって満州体験がいかに大きなものであったかがわかる。赤塚のほか、ちばてつや、古谷、森田拳次、横山光輝、北見けんいちも満州育ち。《我々、満州育ちは、同じ境遇で育ち、生死の境をさまよい、紙一重で生き延びてきた。だから、強い連帯感を持ってるよ。》

 昭和7年満州建国、翌8年に父藤七と母りよが満州で出会う。藤七は憲兵だったが、のちに警察官。不二夫は昭和10年熱河省で誕生、17年国民学校入学、暇さえあれば絵を描いている子どもだった。昭和20年ソ連軍満州侵入。藤七はシベリア抑留。当時100万人いた日本人は着の身着のまま逃走。《死体が散乱する草原。真っ赤な夕焼け空に何千何万のカラスの大群が飛んでいた。/オレは、今でも、その夢を見るよ。》《人が殺されるシーンも何回も見た。その時代、戦争も死体も、子供のオレ達にとっても「日常」だったんだ。》ソ連兵は子どもたちにチョコレートをくれる優しいひとたちだったが、《ある夜、そいつらの何人かが、我が家に押し入り、おふくろに襲いかかった。/赤塚少年は、夢中で外に飛び出し、カーベー(ソ連軍の憲兵)を呼びに行った。たまたま通りかかったカーべーは、狼達を銃把で撲りつけ、おふくろを助けてくれた。》五木寛之も同じような体験を語っている。日常茶飯事だったにちがいない。

 昭和21年6月、佐世保に引き揚げ。母の実家大和郡山まで満員列車でたどり着く。《ちょうど、朝の通勤通学時間だった。すれ違う人々は、我々を汚い物でも見るように、冷たい目で見て、通り過ぎていく。同じ日本人が、我々を「よそ者」のように見ていた。/八田村のおふくろの実家にたどり着いて三〇分後に、綾子は栄養失調で死んだ。/おふくろは、泣く気力もなく、綾子を抱きしめていた。》妹の綾子は生後半年だった。野坂昭如の『火垂るの墓』のような話はいたるところにあったのだろう。あのアニメのなかに、身寄りのなくなった兄妹が栄養失調で通りをさまよっていると、疎開から帰ってきたらしい家族の家の中からピアノの調べとともに「やっぱりわが家がいちばんねえ」と令嬢の声が聞こえてくるシーンがあった。令嬢は赤塚一家を汚い物でも見るような目で見たのだ。チビ太もニャロメもこの時代の思い出から生まれている。《結局、赤貧と、ガキのドロボウグループが、ひとりのギャグ漫画家を育てたんだよ。》

 昭和23年11月に発売された手塚治虫の『ロストワールド』は日本中の漫画少年たちを震撼させたようだ。24年12月父親帰国。26年中学卒業、高校へ行く金はなく塗装屋に住みこみで就職。「漫画少年」に4コマを投稿。入選作には手塚の短評が付けられたから、漫画少年たちはみんなワクワクしながら入選発表を待った。入選の常連は石森章太郎・高井研一郎・松本零士・水野英子。一方、落選組は、篠山紀信・筒井康隆・横尾忠則・黒田征太郎。みんな漫画家になりたかったのだ。映画のような大がかりのメディアは及びも付かない。手の届く創作といったら漫画しかなかったのだ。

 昭和34年「少年サンデー」創刊。36年「おそ松くん」連載。妻の登茂子に「不二夫さんの絵は古いんじゃない」と言われ、高井を共同執筆者にする。赤塚の作ったキャラの絵は、六つ子、父母、トト子ちゃんだけで、あとのイヤミ、ダヨーン、デカパン、ハタ坊などは高井が作った。漫画家どうしの嫉妬は激しい。「でも、ぼくは、天才赤塚不二夫の手伝いができただけでも幸せだったといまは思っている」と高井はいう。赤塚は集団で作品を作っていくタイプだった。赤塚ひとりでアイデアをやった「クソばばあ」はつまらない作品で、《赤塚一人にアイデアをさせちゃいけない、と思った。》と武居はいう。

 赤塚は美空ひばりの大ファン。《昭和一二年五月二九日、日本人は、この日を忘れちゃいけない。美空ひばり、本名・加藤和枝が、お生まれになった日だ。》昭和25年には「越後獅子の唄」がヒットしている。「わたしゃ みなしご 街道ぐらし ながれながれの 越後獅子」いま聞いたのではピンと来ない、なんでこんなものがヒットするのだろうと思われるような唄だが、満州・大和郡山・新潟と、親と離れ転校をくりかえし、友だちができてもすぐ別れなければならなかった赤塚少年の胸には「まるでオレのことを歌ってくれているようだ」と迫るものがあった。同じような境遇のひとが多かったからヒットしたのだろうと想像がつく。

 昭和48年、ひばりはそれまで17年間出場しつづけた紅白歌合戦に落選した。弟のかとう哲也が暴力団から拳銃を買った疑いで逮捕されたためだが、このときも「レッツラゴン」で、ひばりが拳銃を持っていたわけではないと擁護し、全篇ひばり賛歌に終始した。

 数々のヒット作を同時に連載するというハードスケジュールも、昭和52年ごろには衰退期に入る。《この頃、赤塚は、タモリ、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。舞台、映画、TVへと、仕事の場を広げていく。漫画活動では、少年誌は極端に少なくなっていく。》54年、出演したテレビ番組「家族対抗歌合戦」では「月月火水木金金」のこんな替え歌をうたっている。「朝だ夜明けだ 水割り飲んで 今日も暇だよ 仕事がないぞ 漫画描きたい 連載こない 過去の男だ 仕事がしたい 月月火水木金金」

 57年、テレビ番組で美空ひばりと対面。《赤塚は、この番組の中で、ひばりの前である唄を口ずさむ。ひばりの持ち唄なのだが、ヒットしなかったから、ひばり本人が歌詞もメロディーも忘れていた。ひばりは大感激した。》録画終了後、ひばりは赤塚のために「今日涙して、明日又、笑おうぞ」という色紙を書く。赤塚はそれを家宝にした。