46(2007.03 掲載) 『川柳のエロティシズム』(下山弘、新潮選書)
〇不粋・不通を嘲笑する古川柳 本書の要点は3つ。《@川柳は粋(イキ)志向・通志向の文芸である。A作者の粋ぶり・通ぶりを主張するよりはむしろ、不粋・不通な他人を嘲笑するのが主眼である。B嘲笑の種としては、人が懸命に取り組む金もうけ、家計のやりくり、立身出世、育児、そして恋や性がふさわしい。中でも性は秘すべき部分が多いから、作者の制作意欲を刺激するに事欠かない。》 江戸のことを語るとき、それは江戸時代の日本全般に共通することなのか、それとも江戸地方に特有のことなのか曖昧なことが多い。どうやら川柳は江戸地方にしかなかったようだ。《この短詩には江戸趣味がふんだんに盛り込まれており、従来の上方中心の伝統文芸とは異なる新しい領域を開拓する先駆の一つになった。時期は十八世紀後半のことで、江戸が政治の中心地であることに加えて、文化の情報基地としても整備されてきた頃にあたる。》江戸時代は17世紀初頭から19世紀中葉までつづいたから、江戸はその中期以降になってやっと文化の中心になり得たということになる。田舎者の集まりだったことを忘れ、いやその記憶を打ち消すためにも、粋だの通だのをことさら強調して自己の優位性を誇ろうとしたのだろう。 下山に言わせれば、粋と通を忘れた現代川柳は、「17文字のユーモア詩」でしかない。《古川柳は現代人の常識あるいは良識を突き破る江戸独特の文芸である。》たとえば「さるぐつわはめてと子もりないて居る」は、《子守の幼女が男に猿ぐつわを噛まされて暴行された。それを泣きながら人に訴えている。こういう様子を描いた句であるが、作者がこの幼女に同情を寄せたり犯行に義憤を感じていると見て取るのは、これまた不十分な理解といわなければならない。外聞もかえりみず大騒ぎしているのがおかしくて、気の毒だねと軽くいなしているだけなのだ。》ならば古川柳とは冷酷なものだ。《描かれている人間と作者とは別人だ(中略)川柳は人ごとを詠む文芸であって、自分の心境を述べるものではない。》
しかし古川柳が嘲笑を旨とするものだという己の主張にとらわれて、いささか的をはずしている解釈もあるようだ。たとえば「ぬける迄置きなともゝへからみ付き」に対してはこういう解説をおこなっている。《これはどういう人間が詠んだのだろう。作者には、「普段は澄まして気取っている女でも閨房では積極的に出るものだ」と暴露する快感がまずある。そして、「お高くとまっててもどうせ女は……」という軽蔑がこれに伴う。これらを表わすために、なまなましい性描写を用いたのだった。》そうかなあ。それほど深刻な解釈を与えなければならぬほどのものか。女の性の普遍性を描いた句だろう。ここに動物行動学の知識があれば、受胎の可能性を高めるために女体にプログラムされた欲望を読み取ることもできるが、かんたんにいえば、「あるある、そういうの」といった人間観察だろう。「下にしてくれなと女房せつながり」「しやんとおしなと女房のつかゝり」これらと同類の句だろう。 〇ばれ句に登場するステレオタイプ 西洋のジョークでスコットランド人といえばケチ、ポーランド人といえばバカと決まっており、そういう決めつけをステレオタイプというが、川柳でも下女といったら必ず好色な者、奥女中といったら必ず張り形を使っているものとして登場する。実態がどうあれ、そういう決まりなのだ。わきまえておいたほうが解釈をあやまたない。
【ごぜ】 盲目の女三味線弾き。
【踊り子】 歌舞音曲というより売春が主。
【下女】 好色。特に相模(神奈川県)出身の下女は好色。
【乳母】 乳母はお乳が出るくらいだからまだ若い。若い女ならセックスが好きにちがいない。
【妾】 すれっからし。御妾といったら武家の妾を指す。
【奥女中】 女だけの世界に住む奥女中は張り形を使ってオナニーをする。
【むこ】 むこといったら入り婿のこと。女房に頭が上がらない。
【浅黄】 浅黄侍と蔑称される田舎侍は、嘲笑の種。不粋で好色。
【歌舞伎俳優の卵】 歌舞伎俳優の卵は仏僧などの男色の相手をする。肛門を酷使するので陰間としての機能は低下し、17歳ぐらいになると今度は女性客をとった。《女形になった俳優はたいていこういう経験をさせられて、痔持ちだったそうだ。》板東玉三郎をホモセクハラで訴えた卵がいた。芸能マスコミは深く追及しなかった。いまだに芸能界の常識なのだ。
【学者】 女房のことをサイなんて気取っていう。
【若旦那】 下女に手を出す。
【和尚】 立場を悪用する。 どうもこう見てくると、川柳が庶民文芸であるという思いこみは怪しくなってきた。いままで「知り切っているのに鶺鴒(セキレイ)馬鹿な奴」とか「弁慶と小町は馬鹿だなあかかあ」などの句をたちどころに理解した八つぁん熊さんの文化程度は驚くほど高かったと思っていたが、その見方は改めざるを得ない。と思い始めたところにこんな一節――。川柳は庶民文芸だといわれるが、庶民といっても長屋の住人ではなく、ある程度の経済力があり、歴史や古典に親しむ教養のあったひとびと、それが作者であり読者であったとのこと。《これらの条件が揃えられるのはどういう人間かといえば、おそらく中産階級の商人とか徳川直参の武士の次三男などが主要な作者であり、また読者でもあったろうと推測できる。/彼らは泰平の世に恵まれて、生きるために汗水垂らしたり田畑の土にまみれる必要がなかった。そういう苦労は、商人ならば番頭や手代が、武士ならば長男や役人がしてくれるから、自分は高みの見物で人のことを野暮だの田舎侍だのいっていればいい。川柳はこの種の人間の愛玩物だった。》そうだったのか。これは新鮮な知見だ。 〇川柳を通して江戸の風俗を知る 川柳は江戸のデータの宝の山だ。本書はばれ句ばかりを集めたものだが、それでも江戸の世態風俗の一端をうかがい知ることはできる。最近も大修館書店から『江戸川柳で愉しむ中国の故事』という本が出たし、むかし読んだ『サカナの雑学』も魚に関する古川柳ばかりを集めたじつに興味深い本だった。古川柳はさまざまな切り口が可能なほど多彩な内容を秘めている。ただ、学者が長年とりくんできた万葉集でも読みかたすらわからない歌が多いというから、万句合も意味不明な句が多いことだろう。
・かわらけもまゝあるものと湯番いひ このあたりなら解説なしでも想像はつくが、万句合全体を見渡せばそういうものは少数にちがいない。以下のものは知らなければわからない。
・やらかしているよとふれる樽ひろひ――酒屋のご用聞きは樽の回収もした。《細い路地などをしょっちゅう通るので、秘密の情景を見てしまう》
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