47(2007.04 掲載)

 『毒言独語』(山本夏彦、中公文庫)

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 「大衆は大衆に絶望する」という一文はきわめて示唆に富んだものだ。《自分の目で見よ、他人の目で見るな、という。/そして自分で考えよ、となが年学校で教えるから、生徒も親もまにうけて、それが可能で、げんに自分の目で見て、自分で語っているつもりでいるが、そんなこと、できない相談である。》その証拠が吉田茂の評価。在任中は犬畜生のようにいわれたのが一変して、いまでは歴代総理中の第一人者になった。《死んだらマスコミは泣けといって、テレビは泣いている市民をうつした。/あの泣いた人は、以前罵った人である。全く同一の人物である。してみれば、まじめ人間は、笑えといわれれば笑い、泣けと命じられれば泣くものと見える。/これを「善良な市民」という。善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ。》

 大衆が自分では考えられない証拠をさらに挙げる。《敗戦直前まで、アメリカ人は鬼畜だった。直後は正義と人道のモデルだった。共産党さえ、マ元帥の前で万歳を三唱した。今はベトナムを、ソンミを、沖縄を見よ――再び鬼畜である。その評価は情報の多寡できまる。まだきまらなければ繰返せばきまる。/人は他人の目で見て、他人の言葉をおうむ返しに言う動物である。自分の考えと自分の言葉をもつものは希である。》耳が痛い。この連載なんかまさにそのとおり、他人の思索を書き写しているだけだ。

 大衆は自分が凡夫凡婦であることを自覚しているので、天才が出現してくれるのを期待している。《ヒトラーもスターリンも、今は犬畜生だが、以前は神人か天才だった。天才なら仰いで一言もなくついて行けば、どこかへつれていってくれる。そこはいいところにきまっている。》このあとにくる結論は恐ろしい。《自分の考えもなく、言葉もなく、晴れてみんなで追従できるのだもの、こんなうれしいことはない。万一しくじっても、それは天才のせいで、凡夫のせいではない。/昔なら英雄豪傑、今なら革命家の出現を、いつも、彼ら(また、おお我ら)は待っている。待っていれば、いつかは必ずあらわれる。》

これを読んでいるときたまたま朝日新聞(2006.1.15)の書評欄(評者野村進)に『ニュルンベルク・インタビュー』(レオン・ゴールデンソーン、河出書房新社)をみつけた。著者のレオンはアメリカ人。陸軍軍医としてヨーロッパ戦線に参加。ナチスの最高幹部たちの「病理」を発見しようとニュルンベルク裁判に乗り込み21人と面談を重ねたが、《彼らの大半がきわめて頭脳明晰で、生い立ちも家庭生活も至極まっとうな常識人ばかりであることを知る。》ガス室で子どもを殺し、毎日2000人の死体を焼却するという仕事をしていたにもかかわらず悪夢なんか見たこともない。一方、ヒトラーへの評価は「疑問の余地なく天才だった」「子ども好きで……、優しく、情にもろい人」とアメリカ人には信じられないほど高いもの。いったいこれはどういうことなのか理解に苦しんだという内容の書籍らしい。上下卷各2500円では、値段はともかくボリュームに耐えられないから書評だけですませてしまう。しかし読まなくてもこの「病理」の正体はわかっている。30年前に読んだ『服従の心理――アイヒマン実験――』(スタンレー・ミルグラム、河出書房新社、1975、原題はOBEDIENCE TO AUTHORITY)がすでに結論を出していた。要するにひとは権威から自分に責任がないことを保障されればどんな残忍なことでもやってのけるものだというのだ。恐ろしい内容だったので記憶に残っている。ともにホロコーストに触発されて書かれたものだが、『ニュルンベルク・インタビュー』が終戦直後の記録であるのに対し『服従の心理』は戦後30年たってからのものなので考察は深まっているだろう。それにしても同じ出版社から発行されているのが、伝統を感じさせて興味深い。

 山本の短文には、この2冊を超える深さがある。オウム事件のはるか以前に書かれたものであるにもかかわらず、ここにはオウム真理教などの狂信集団が次から次へとあらわれるであろうことも予見され、原因も明らかにされている。オウムの一般信者たちは、善良かどうかは措くとして、きわめてまじめなひとたちだった。ちゃらんぽらんに快楽ばかりを追い求める同世代の若者たちにくらべ、人生とは何か神とは何かをひたむきに追い求めるひとたちが大半だったように思える。なぜまじめなエリートがこんな恐ろしいことをしたのかと、世間は理解に苦しんだ。彼らはおのれの思考を停止して「天才」の導きに身をゆだねる恍惚と安心を選んだのだ。そしてまたわれわれも五十歩百歩だと山本は指摘する。まじめ人間は、殺せといわれれば殺すものだ、と。ではどうすればいいのか。《人は他人の目で見て、他人の言葉をおうむ返しに言う動物である。》これを肝に銘じて用心深くいくしかないだろう。

 

 『お笑い! バリアフリー・セックス』(ホーキング青山、ちくま文庫)

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 身障専門雑誌に連載したものを文庫化。「エッチしたいけどどうやったらできるか」という身体障害者の悩みに答える。《元来「エッチとは無縁」とされてきた身障であるこのオレが、「身障の性」について書いて、勇気を与えてやろうと思った次第である。》身障の若者を励ます本だ。《障害があるから彼氏彼女ができないなんてことは絶対にない。健常者にもブサイクなヤツがいるけど、みんなちゃんと恋人や配偶者がいる。障害なんて人間関係や恋愛において本人が思っているほどたいしたことではなく、ブサイクとかハゲと同じレベルだ。オレの経験上、これだけは断言できる。》

 青山は先天性多発性関節硬縮症で、生まれたときから関節が固く縮まって手も足も動かない。体幹には問題がないという点は、先天性四肢切断の乙武洋匡に似ている。《地方の講演なんかに行くと、舞台に出た途端、田舎のババァが「乙チャ〜ン!!」なんて声援してくる》そのせいか乙武をライバル視し、「おまえにはこんなもの書けないだろう」とばかりにおもいきり赤裸々な内容になっている。《なんと素っ裸のオヤジが、同じく素っ裸のオフクロの上にまたがっているではないか!》と幼時の原体験まで明かす。お笑い芸人はひとまえで素っ裸になるぐらいの覚悟がなければならないとされる。文学に一脈通じるところがある。

〇しあわせな筆おろし

 高校卒業まで通っていた養護学校のことを書くのにも容赦はない。《同級生の女の子はみんなヨダレを滴らして「うぇ〜、うぇ〜」なんて言ってんだから、どう考えたって恋愛対象になんてなりっこない。これは女の子の方だってそうである。》学校では教師に「身障として生まれてきた以上、セックスなんて一生できないのだから、あんまり性的刺激の強いもの(AVや風俗のことか?)には、触れないように」といわれ、家では父親に「オマエなんかどうせ、そんな身体なんだから、一生女なんて知れねえんだよ! なんだったら、オレの女房でも抱かせてやろうか?」などといわれて育つ。その言葉に反発したのかどうか、高1のときに原宿でナンパした女子高生と初エッチ。初体験だから印象深いということもあるのだろうが、この筆おろし体験記がすばらしい。金曜午後の原宿、学校帰りの女子高生に近づき、エレベーターのボタンを押すために常時携行している棒だというからたぶんマウススティックだろうが、それををわざと落とす。女の子は拾ってくれただけでなく洗ってくれる。いい子に巡り会えたのだ。これはチャンスとばかりに「それにしても日本の福祉はまだまだですねえ」などとシラジラしいことをいって話をつなぐ。すると彼女のほうから「もうすこしお話ししません?」とのってくる。居酒屋へはいって酒を飲みながら話しているうち、付き合っているバスケ部の彼とうまくいってないと告白してくる。「君みたいなかわいい子を放っておいてやる部活なんて、何が楽しいんだろうね」といってあげると泣きだしてしまう。ここにつけこむしかないと思い、すかさず「ゴメンね。ボクの手が動いたら、君の涙を拭いてあげられるのにね……」とだめ押し。女子高生号泣。さらに飲ませてフラフラにさせ、「ちょっと休んでいこう」とラブホへつれこむ。《ラブホテルの高めのベッドにほぼ同じ高さの車椅子からズって移動し、寝そべっている彼女に迫ると、「本当?」と聞かれたから、「身障とやれる機会なんてなかなかないよ!」と口説くとなぜか彼女、静かに目を閉じた。》障害を逆手に取るとはたくましい。手が使えないから徹底した"口撃"。「お願いだからもう入れて」とまでいわせ、コンドームを口でつけさせる。アダルトビデオでベンキョウしたのだろう。《体位を変えるときには彼女に起こしてもらったりしないとならないのだが、これでかえって彼女との連帯感が増した。》きっとズボンやおむつもはずしてもらったのだろう。ここには健常者の男女関係にとっても貴重なヒントが含まれている。男はどうしても一方的に女体を玩弄したがる。女もそれを望んでいると勘違いしている。デリヘル嬢も、身障相手のセックスは肉体的に難しいこともあるが、「これらの困難を2人で力を合わせて乗り越えたとき、お互いの親密度が増すんだよね」といっている。まあそれにしても居酒屋といい、ラブホといい最近の女子高生はマスコミが報じるとおりなんだなあ。ちゃんとコンドームを使用しているところを見るとこの子なんか品行方正の部類に属するのだろう。青山はいい時代に生まれた。うらやましいぞコノヤロ。

〇性欲に狂う者たち

 養護学校の同級生には、性欲がたまってくると精神状態をコントロールできなくなって突然暴れだす者がいた。《するとなぜか、決まって若い男の先生が、そいつを連れてどこへともなく消えていく。》青山は尾行した。ふたりはトイレへ行き、《その先生、そいつのパンツを脱がしてチンポを握るや、いきなりシゴきだしたのだ!(中略)そいつのモノをひとしきりシゴくと、今度は股間に顔を埋めて、なんとフェラをしだしたのだ!! これにはさすがに思わず目を背けた。》この先生はその後女性と結婚したからホモではない。驚くべき証言といえよう。『セックスボランティア』(河合香織、新潮社)で、障害者施設の職員が手の動かない障害者のマスターベーションを介助しているという記述を読んでホンマカイナと思ったが、どうやら事実のようだ。かと思うと、女性教師に「好きだ」と告白した生徒が保健室に連れて行かれて鎮静剤を打たれたというエピソードも紹介されている。いやはやすさまじいところだ。

 養護学校の教師が女子生徒に手を出すというニュースは時たま耳にするものだが、青山の中学時代の担任は《学校中の女子生徒とヤりまくって》いた。補習を口実に女の子を残し、まずはお菓子とジュースで気を引く。補習が終わって「遅くなるから」と生徒が帰りそうになると、「普通学校では放課後みんなこうやって教室に残ってお菓子を食べてるよ」と引き留める。養護学校の生徒はこの「普通学校では」というせりふにめっぽう弱いそうだ。生徒の身の上話を聞き出し、「障害があるからつらいよね」だの「僕は君の力になってあげたいんだ、先生と生徒ということではなく」などといってさそう。《だが、身障だってやはり初めてのセックスは怖いから、なんとか抵抗しようとすると一言、「これも社会勉強だから」。身障の一番弱いセリフである。》まさに弱みにつけこんだ手口なのだ。

 《実は性的欲求をコントロールできなくなっちゃった障害者が、電車などでそばに来た女性に衝動的に痴漢行為なんかをしちゃうという性的犯罪らしきものが、被害として警察に届けられているものの、"性的欲求をコントロールできない"のでどうしようもなく、結局その身障の性的犯罪そのものが表面化してこない、という現状があることを聞かされ、》身障専門のデリヘルをはじめたとCANDYの経営者は語る。『セックスボランティア』に出てきた身障専門デリヘルの経営者と同じく、このひともまた《さまざましてきた悪行への罪滅ぼしの意味も込めて(?)、「身障専門」のデリヘルを立ち上げることを決意》したというのが興味深い。《たとえ障害の種類が医学的に同じでも、その程度や身体の状態は一人ひとりまったく違う》ので、経営者氏は身障に関するセミナーに出席したり、「身障と性」を研究する慈恵医大のリハビリテーション科の医師に協力もしているというから頭が下がる。悪行も、それを悪行と意識していればいつか救済につながるのだ。

 性欲に狂うのは健常者も同じこと。AV女性監督の小早川かおりは、青山との対談で「欲求不満になると暴れるというのは分かります」と述べている。3年間禁欲生活したことがある。《すぐ傍にはエッチのできる男性もいて。いつでもこちらが言えば「できる」環境だったけど、敢えてしなかった。そしたらどうなったと思います? ある日私、突然暴れ出したんですよ(笑)。それも真夜中に。(中略)まず、道端に止めてあった誰のものかも知らないトラックのドアを開けて、クラクションを鳴らし続けてたんです。そしたらその持ち主がやってきて、交番につき出されました。それで救急車がやってきて。叫びながら暴れるから、縛られたんですよ(笑)。それで点滴を打たれたんですね。》それで家に帰ったらすっきりしたんですか? 《これがすっきりしない(笑)。セックスしないと欲求不満が蓄積したままなんですね。》では修道院では夜ごと尼さんたちが叫び狂っているかといえばそんなことはあるまい。しようと思えばできる環境にいたのに我慢したのが惑乱の原因だろう。己をコントロールできる人間ばかりではない。