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 『立った!ついに歩いた!――脊髄損傷・完全四肢麻痺からの生還――(右近清、樹心社)

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 小樽の右近清という写真家(昭和16年生)が最重度の頸髄損傷者森照子さん(昭和12年生、受傷当時55歳)を8年で歩かせた経過の記録は「はがき通信」で断片的に読んだことがある。半信半疑だった。医療従事者でもない写真家がなぜという思いもあったが、それはともかくC2のひとが歩くだなんて、そんな話は聞いたことがないからだ。しかしこうして一書にまとめられたものを読むと、ひょっとしたら誰でも歩けるようになるのかもしれないとすら思う。ちなみに森さんと右近の家はすぐ近くで、親の代から家族ぐるみのつきあい。

 右近の文章は独特だ。訓練を開始するときの風景はこう描かれる。《私はすぐMDにスイッチを入れ、喜多郎が奏でるシンセサイザーの『無限水』が天空に舞い上がり、光芒が部屋の空間にきらめくのを聴きながら私専用のソファーに腰をおろします。そして美子(森さんの姪)が入れてくれる熱い番茶を一口すすり、手に鞭を持ち「ヨシ!」との合図で一日の訓練が始まります。》思い入れの強い文といっていいだろう。これをきらうひともいるが、じつはこの思い入れの強さ、情熱こそが「奇跡のリハビリ」をなしとげた原動力なのだと本書を読んで思った。

〇森さんの障害程度

 本書を読む前にいだいていた最大の疑問は、森さんの頸髄がどれほど損傷していたかということだ。頸損関係者なら誰しも、歩いた歩いたといってもそれは損傷程度が軽かっただけのことではないかという疑念をまずいだくだろう。1993年6月6日、森照子さんは、自転車で転倒。既往症の後縦靱帯骨化症で骨化した靱帯が衝撃で折れて頸髄の2番から5番を傷つけた。かつぎこまれた小樽第二病院で《首の後ろ側の骨(二〜七番)全てを取り除くという》手術を受ける。頸髄を取り去ったのではなく、あくまでも頸椎の背側を取り去ったということだろう。省略して「2〜7全てを取り去った」という表現が随所に出てくるが、これは誤解を招きやすい。できればイラストで損傷状況を図解してほしかった。とにかく損傷部位はC2だから医師は「2、3日うちに呼吸は停止するだろう」と診断した。だが幸運なことに自発呼吸は残った。もし人工呼吸器を付けていたら激しい訓練などできなかっただろう。

 事故後すぐに近くの島田脳外科に担ぎ込まれ、メチルプレドニゾロンの大量投与を受けたのち、市立小樽第二病院へ搬送。メチルプレドニゾロンが脊髄損傷に有効であることが発見されたのは1990年ということだから、島田院長の処置はきわめて先進的なものだったといえるだろう(有名になったのは1995年のクリストファー・リーブの落馬事故の時ではないだろうか)。ただし、島田医師も第二病院の医師たちも「もう動くことはないだろう」と思ったという。

 自発呼吸が残ったところを見ると、頸髄C2、3、4の損傷は甚大なものではなかったという可能性も捨てきれないが……。医師の診断はこうだ。《手術後、執刀の先生は「森さんは神経の表面に傷を受けたから動くことはかなり厳しく、難しいと思います」と言われました。私はそれを聞き、「あぁ、表面でよかった。芯ではなく」と思ったものです。/しかし、これはとんでもない間違いでした。その表面の白質層こそ、脳からの指令、伝達を司る長く伸びた神経繊維で作られた神経路の「鞘(サヤ)」であり、髄鞘(ズイショウ)、ミエリン鞘とも言われ、全ての指令の伝達被膜だったのです。》《私は手術後に真っ先に聞いたのは、「切断ですか?」でした。先生はちょっと間をおき、/「いわゆるスパッと切れた切断ではありません」/「では挫滅ですか?」/「そうです。しかし、いずれにしても医学的に切断状態であることには変わりません」》

 まさしくC2レベルの麻痺だったのだ。ところが右近はこう考えた。《何十万もの無数の脊髄神経が、横断によって、その神経細胞が全て死滅して機能しなくなったとは、どうしても私には考えることはできませんでした。「生き残っている神経は必ずある!」と思っていたからです。》

〇リハの経過

 第二病院は3ヶ月で出ていけと言う。転院先はいっこうに見つからない(頸損なら全員が体験することだ)。そんななかでリハビリで有名な札幌の大病院が引き受けてくれるのだが、これがとんでもないインチキ病院であることがじきに判明する。訓練もマッサージもなく、腕も指も曲がり、足は尖足に。それなのにいきなり寝返りの訓練を申し渡される。「C2〜7番のうしろ側を取り払った首、極端に言うと脊髄が剥き出しになっている状態」でそれはあまりにも危険な訓練だと右近が憤るのはもっともな話だ。

 寝返りが不可能と分かると、今度は起立台も使わず、両脇から支えられての「立ち」訓練ときた。倒れるまでの数秒間、たしかに立ったように見えるが、それは本物の「立ち」ではない。片麻痺患者の扱いと混同しているらしい。だから、インチキ病院というより、頸髄損傷に無知な病院といったほうが正確だろう。頸損に対する世間の認識はまだまだそんなものだ。

 この病院では泌尿器科の医師から膀胱瘻(ロウ)の手術を勧められたが、その場にいあわせた看護師が反対し、つらい訓練の結果なんとか8ヶ月で自力排尿にこぎつける。その方法はカテーテルのクランプによる膀胱訓練のようだ。《もしこの手術を受けていたなら、これから始まる凄絶とも言える床運動のうち、うつ伏せ、中でも寝返りへの実に厳しく激しい特訓に果たして耐え得たであろうか。また、この手術につきものの周辺の褥瘡と膀胱洗浄、定期的な管の交換、細菌感染の処置などを考えたとき、この勇気ある看護師さんは森さんにとって決して忘れることができない生涯の恩人なのです。》膀胱瘻周辺の褥瘡というのがわたしの経験にはないが、ほかの指摘は正確なものだ。できればこんなことはしたくない。だがせざるを得なかったわたしは、これを読んで悲しくなる。受傷以後、うつぶせになったことは一度もない。受傷19年も経っているからいまさら厳しい訓練を受けても手遅れだろうが、うつぶせになって痛む背中をマッサージしてもらったらどんなに楽だろうと思うのだ。もうひとつやるせなくなるのは、帰宅後電動車椅子を処分してしまうという話だ。あまりにも便利すぎて《一旦これに慣れると、リハビリを施す者、受ける者が、立って歩くという想像を絶する訓練に挑戦しようとの気は起きるはずもありません。》この狂気にも似た決意が必要だとしたら、どれだけの障害者が参加できるだろう。受傷歴の長い者には無理だろう。

 《そしてここで私たちは、病院の職員から衝撃的な事実を聞かされることになります。/「これからも第二病院から患者さんを廻してもらうため、六ヶ月の間、森さんを引き取っただけなのです」》1994年2月退院。結局この札幌の病院では寝ていただけに終わる。札幌にいた半年のあいだに全身の状況は悪化してしまった。足首・腕・手首・指、みな妙な方向にねじまがり硬縮した。

 右近はいくつもの大病院をたずねリハビリの実態を見て回ったが、片麻痺の患者ばかりで、全身麻痺も下肢麻痺もいなかったという。《私は今まで数多くのPT・OTに、「頸髄損傷による全身麻痺患者のリハビリ経験は?」と聞いたところ、異口同音に「リハのやりようが無いじゃないですか」との答えでした。なかにはフッと薄笑いを漏らした者もいたのです。そこで頸髄を損傷した完全四肢麻痺患者を扱ったことがないとの決定的な事実が分かったのです。脊損のリハビリ経験もない人がどうして「やりようがないじゃないですか」と言えるのか。》まるでわが国には脊損のリハをおこなう病院がないかのような書きぶりだが、そんなことはない。ただし、PTははなからあきらめている。歩けるようになるなんて思ってない。

 そんな病院まわりをくりかえすうちに右近は「何か」をつかむ。《脊髄という神経を損傷したから動かないのであって、その脊髄に絶えず命令という刺激を与える、いわば神経活性化訓練なしには絶対動くはずはないと確信を持つようになったのです。》そのためには、やる気を起こさせ心を高揚させる励まし、精神を一点に集中し凝縮しての取組み、暗示を与えて常に脳に指令を発し、刺激を与え、考えさせる訓練が必要だという結論に達する。

 右近は退院の3ヶ月前から森さんの自宅の改造を始めている。《十六畳全てをバリアフリーのフローリングにして、床暖房と完璧な空調。トイレとお風呂はストレッチャーを考えてスペースを広く取り、特にベッドの装置を見た人は皆驚嘆します。/その装置とはベッドごと一つの部屋にして寝室という箱で囲み、それを壁に埋め込んだレールで吊り上げてゴンドラ式に上下するものです。》エレベーターよりはるかに安いという。2階の寝室から訓練室に降りるための工夫なのだろう。

 森さんの要望で訓練室には仏壇を置き両親の写真をかざった。これで右近の厳しい訓練に耐えることができた。右近もまた《動かない身体を動かすのは精神力だと信じて疑いませんでした。》と語るように精神重視のひとだ。

 ふたつの約束をかわす。朝は必ず化粧をしておしゃれすること、それに人前に積極的に出ること。重度障害者は家に閉じこもりがちだからだ。右近は言う。《重度の障害を持つということは何ら恥ずべきことでなく、むしろ積極的に人前に出て行けることは、健常者には考えられない苦悶と煩悶を克服した何よりの証拠であり、その精神力、生き方は人を感動させるものであって、自分を卑下するほうがはるかにおかしいと私は思ったからです。》

 医学の門外漢である右近は文献に当たり、整形外科・脳外科の医師に情報を求めた。なんとしても歩かせるという情熱にあふれてはいたが、決して確信に満ちてまっしぐらに突き進んだということではなかったようだ。「やはりダメだ、もうあきらめるしかない」と途方に暮れる場面が何度も出てくる。常に暗中模索、試行錯誤の連続だった。

〇訓練開始の2年後に立つ

 2ヶ月単位の目標を立てて、その一点に集中するという方法を編み出す。まず座位姿勢の保持。起立性低血圧の克服。

 つぎに腹筋強化訓練と胸式呼吸から腹式呼吸への切替えに励んだとある。胸式呼吸から腹式呼吸への切替えというのは解せない。もともと肋間筋が利かないのだから胸式呼吸はできないはずだ。自分の体を観察しても、腹は上下しても胸は動かない。《スイマー用鼻栓でしっかり閉じ、特注で作らせた訓練専用椅子の肘掛けと脚に森さんの手足を縛り付けて私と美子が両肩を持ち、支え、強制的に身体を折り曲げて、他力による前屈後屈訓練がこうして始まったのです。》記述はないがおそらく背もたれもあるのだろう。背もたれと肘掛けがあってなお手足を縛らなければ座位が保てないとは、そうとうひどい状態だ。C5のわたしは、腹筋も背筋も随意には動かせないと思いつづけてきた。なぜそう思ったのだろう。医師・看護師など医療関係者やあるいは医学書の影響だろう。何よりも感覚のない部分に力が宿るとは実感しにくいのだ。にもかかわらず右近は筋力をよみがえらせようとした。「医学的な知識がなかったからできた」と謙遜するが、正確にいえば「まちがった医学的常識に左右されて諦めるということがなかったからできた」のだろう。

 これを1日6時間毎日546日間つづけたところ、森さんの体からは《自分で起きあがろうとする筋肉の震えの手応えがかすかに》感じられるようになり、縛らなくてもすわれるようになり、ついには背もたれなしの端座位ができるようになる。腹圧が付いてきて言語も明瞭になる。その訓練法もスパルタ式だ。すわっている森さんをわざと指でついて倒す。生体の防衛反応を引き出そうとしたのだ。《脳から強い警告刺激を与え続ければ、それが生き残った電線に必ず伝わると固く信じていたからです。》すごい。やればできるのだ。たしかに頸髄損傷といっても、完全に横断してしまうことはないそうだから、これは筋の通った方法だ。わが国のPTはこれを知っているのだろうか。そもそもわが国では入院中ひとりの患者にふたりの訓練士が付くことなどない。ひとりのPTが同時に10人20人の患者を見る。1日の実質的訓練は30分ぐらいではないか。

 札幌の院長が寝返りの訓練を言いだしたときには、「脊髄がむきだしになっている状態でそれはあまりにも無謀だ」と憤ったひとがずいぶん危険な訓練をしたものだ。へたをすれば第2の戸塚ヨットスクールになってしまう。それに毎日6時間それを546日間つづけるだけの根性と環境をすべての患者に要求するのは困難だろう。しかも殺気を帯びた訓練だというのだから。

 つぎに立つ訓練。足で立つのではなく、腰と腹筋で立つのだという。床運動で腰と腹筋の徹底的訓練をおこなう。《L型に座らせて二人掛かりでの屈伸と捻(ネジ)り。床に寝せて膝を立て、腹部のベルトを持ち上げての腹筋強化。》

 椅子にすわらせ腰のベルトを両脇からふたりで持ち、呼吸を合わせ一気に立たせるという方法。あるいは《森さんの両膝に美子の両膝をピタッと合わせます。いわゆる皿と皿を付けて腰のベルトに手を廻し呼吸を合わせて気合いをかけたその瞬間、美子の膝をグイと森さんの膝に押し付けて伸ばしてやるのです。蝶番(チョウツガイ)を伸ばしてやる原理です。/このとき、一番大切なことは、その瞬間、森さん自身が、「立て!」と脳に強い命令を発することで、この二人のピタリとした阿吽(アウン)の呼吸が何より大切です。》はじめはベルトを離すとすぐにくずおれてしまった体も、腰と腹筋の強化のおかげで、体勢を立て直すことができるようになる。

 リハビリ開始後2年、座位から半年で初めて1分46秒立つ。それ以降、足のむくみはなくなり、大腿筋とふくらはぎにコリコリとした筋肉がつき始める。松葉杖で立つようになる。

〇3年め、4メートル歩く

 つぎはついに歩く訓練。歩行訓練は危険なものだった。突然の不随意運動で態勢がくずれると転倒のおそれがある。転倒は呼吸筋の麻痺につながる。精神の集中を乱す電話・来訪・私語を厳禁したうえで、森さん自身がうごかぬ足に「うごけ! うごけ!」と命令を発すると同時に、右近と美子さんが外的刺激をあたえつづけた。関節の回内・回外、屈曲と伸展。タオルこすり、突起物刺激、タッピング、低周波、遠赤外線、電子鍼、電気的振動、温風、氷当て、鞭。はじめは何の反応もなかったが、内的命令と外的刺激をくりかえしているうちに脚部にかすかなふるえがあらわれる。そして事故後883日めの1995年11月6日、右足を随意でくりかえし動かせるようになる。《それまでは一旦重度の損傷を受けた中枢神経は再生、修復することは不可能と、どの先生にも言われ、また本の知識から得た通りであり、やはりその通りだったと何回諦めかけたことでしょう。/しかし、ここから私たちは驚くような事実を経験します。それは二年半にもわたり狂気じみた訓練を行った結果、ほんの微かに神経が繋がった「途端」という表現がピッタリですが、一旦神経が繋がってからというものは、その運動と機能の回復が次から次と伝播していくかのように、今度ははっきり目で確認できるまでとなってきたのです。/それはまるで枯れかけた木の根が高濃度の栄養分を貪欲に吸い取り始めたように、神経の枝が次々と伸びて繋がっていくかのようでした。/これは専門医である島田先生も毎月定期検診に来るたびに確認して、その機能の回復振りに驚くほどでした。》

 足にかすかな神経がつながると、それまで訓練していなかった手まで動きだした。《いよいよ一歩前に出す足、体重を受け止める腰、腋を支える肩、杖を繰り出す上腕、歩くための四つの条件がこうして整いました。》

 事故後3年めの1996年6月14日、4メートルの距離を48分13秒で歩く。しかしこれはただ「すべりうごいた」だけだとして、さらに目標を高くかかげ、補助装具いっさいなしでの歩行に挑戦する。このころ、床についた足の接地感、さらに訓練後のわずかな発汗と外気温を感じるようになる(麻痺した部分にはふつう発汗も温冷感もない)。「フローリングに裸足」が鉄則で、右近はその後たずねてきた脊損たちに「まず靴を脱いで素足から」と注文を出す。その結果、ほとんど全員と言っていいほど、足裏から感触が目覚め、それが上がってくるとのこと。森さんはいまや《床に落ちた乾いた米粒や糸屑を踏んだだけで》わかるという。皮膚感覚までよみがえるとは驚きだ。

〇「リハ最中にコト切れるなら本望」

 最初は100回やったら100回倒れた。《足が完全に床から離れた瞬間、サッ!と恐怖がよぎり、身体が硬くなって金具になった足を出すことができません。/それからというものは猛然と倒れる特訓だけに集中したのです。》頸椎のうしろ側を取り去ったひとにずいぶん危険な訓練をしたものだと思うが、とにかくこの方法で倒れずに歩かせてしまう。凄いとしか言いようがない。森さんも「リハ最中、転倒してコト切れるなら私はそれで本望です。しかし何もせず、ベッドで瞬きだけの生活にだけは絶対戻りたくないのです」と語る。双方にこれだけ激しい気迫があったればこそ偉業がなしとげられたのだ。

 93年9月に第二病院から札幌の病院に転院するとき、看護師詰め所で「リハビリに頑張って何年後かに必ずこの詰め所に松葉杖で挨拶に来ます」と断言した。その約束を果たしたのは97年6月6日、事故4周年の日だ。《私と森さんの頭の中には第二病院の全ての地図が入っています。/玄関からエレベーターまでの距離。二階に上がり脳外の手術室を通り越して、長い廊下の突き当たりが詰め所。そこを右に折れると病室。その詰め所に行くまでを何回も何回もイメージトレーニングしました。/行く時間は午後三時。/なぜならこの時間帯には、少し傾いた陽が窓を射し、木立の影が長い廊下に市松模様のきれいな影をつくり、落ちるからです。/ストレッチャーで天井ばかり見ていた森さんにその影を踏ませて歩かせてやりたかったからで、段だらのその影を一歩、一歩踏み越すごとに確実に歩いているという実感を味あわせてやりたかったのです。》必ず歩いて帰ってくると断言したり、その日に事故記念日を選んだり、あるいは光線の射しぐあい、木立の影などを計算に入れるなど、企画を立てて自分のイメージどおりに物事をすすめようとするところは、まさに写真家らしい。このような芸術家的感性が右近の訓練の原動力になっているものとわたしは見た。

 【追記】 事故後4年で、松葉杖をついてではあるが、歩いて病院を訪問している。C2のひとが歩いたのだ。前代未聞の偉業と言っていい。複数の専門家に囲まれるようにして訓練したクリストファー・リーブ(C2)でさえ、水中ですこし足がうごいたという程度で終わってしまった。それを右近氏は4年で歩かせたのだ。なぜ日本の医学界はこれを無視するのだろう。国家的なプロジェクトにするべきではないか。医師やPTは、しろうとに教えを請う屈辱に耐えられないのだろう。偶然だと思っているのだろう。

 ただし右近氏の訓練を1対1で1日も休むことなく何年間も受けることは、もうだれにもできない。いま小樽で訓練を受けようと思っても200人待ちだそうだ。訓練期間も数日にならざるをえない。

 森さんの訓練風景をビデオで見た。寝たきり状態から歩けるようになるまでおこなった訓練を順番に再現したものだ。歩行訓練は及びもつかぬが、背中の痛いわたしはせめて端座位をとりたい、どこにも寄りかかることなくすわりたい。そのため森さんが端座位を実現するためにおこなった腹筋・背筋の訓練をまねてみようと思った。わたしがL字型にすわり、背後から介助者が背中を押したり肩をつかんで引き戻したりする運動だ。森さんのばあい始めて546日めに《自分で起きあがろうとする筋肉の震えの手応えがかすかに》感じられるようになったというあの訓練だ。やってみて驚いた。初日から背筋がわずかながらうごかせるではないか。ナンタルコト、モットハヤクカラヤッテイレバ……。「完全四肢麻痺」と言われたのだから腹筋も背筋も随意ではうごかせないものと思いこんでいた。それが常識だからだ。右近氏の最大の功績は、この「常識」をくつがえしたことだろう。「無数の脊髄神経がすべて横断して死んでしまうはずはない、必ず生き残っている神経があるはずだ、それを鍛えよう」という信念が勝利して実を結んだのだ。

 頸損の筋肉トレーニングは、入院中ですらほとんどおこなわれない。あるとしても「一生歩けない」ことを前提としたものに過ぎない。せいぜい硬縮予防運動だ。退院後はそれすらもないからほとんどの頸損はなにもできないでいる。介護保険には訪問リハというものがあるが、障害者にはない。どんどん硬縮していくばかりだ。右近氏が実例を示した以上、社会も障害者自身も「やれば効果がある」ことを認識して実行に移すべきだろう。

 (2006年「はがき通信」に掲載したものを加筆訂正した)