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 『アースダイバー』(中沢新一、講談社)

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〇神社は縄文遺跡

 縄文海進期、これが本書のキーワードだ。縄文時代、温暖化していた地球は極地の氷を溶かし、海面を今より数メートルほど押し上げていた。地質学はその当時の地図を作製している。添付された当時の東京の地図を見ると、今よりはるかに入り江の多い、中沢いうところの「フィヨルド」あるいは「リアス式海岸」の様相を呈している。当時陸地だったところを洪積層といい、当時は海でその後陸地になったところを沖積層という。洪積層は高地で、沖積層は低地ということになる。ここで中沢は大発見をする。都市開発という名の浸食を受けにくい神社や寺院のある場所は、《きまって縄文地図における、海に突き出た岬ないしは半島の突端部なのである。縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地を作ったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた。/そういう記憶が失われた後の時代になっても、まったく同じ場所に、神社や寺がつくられた》のだという。付録の地図を見ると、必ずしも岬の突端に建てられているわけではないが、ほとんど水辺に、つまり洪積層のへりにある。さらにこうもいう。《神社の建っているところは、縄文時代の神様を祀ってあった場所であったことが多く、そのころの神様のシンボルである石棒などが立っていた。また古墳時代に墓地だったところには、お寺が建っていることが多い。》

 こんなことを指摘したひとはかつてなかったのではなかろうか。東京を見る目が変わる。本書は一種の東京論だが、ほかの地方についても当てはまるだろう。梅棹忠夫の『文明の生態史観』を連想した。中沢自身は《まったくこれはコロンブスの卵のような「発見」だった。》とまでいっている。しかし、「縄文時代人が岬のような地形に強い霊性を感じていた」という説の根拠は記されていない。彼らが水辺に住んでいたことは想像に難くない。貝塚も作れば墓地も作ったであろうし、墓地を作ったということは死者との精神的なつながりがあった証明にもなる。だが食糧確保の容易な海辺に住んでいたことをことさら岬の霊性とむすびつけるのは強引ではないか。単に住居の近くに埋葬地をつくっただけのことだろう。それにこれはどうなのか、地図を見たところ海辺というより大河の河畔に見えるのだが。塩水だったのかなあ。出土する貝の種類を調べればわかるだろう。

〇ミサキでおこなわれた増殖祈願

 読んでいて羨望を禁じ得ない。わが家の近所を中沢はママチャリで走り回っているのだ。自転車ほどすばらしい乗り物はない。排気ガスを出さない。場所を取らない。わずかな労力で適度のスピードが出る。人類がかつて考案した移動道具のチャンピオンだと思う。それに乗って自由自在に走れるなんて。《善福寺川のほとりに自転車を走らせていると、何千年もの間このあたりはたいして水路が変わっていないのではと思わせる場所を、いくつも見つけることができる。いちばん印象的なのは杉並区の成田西のあたりで、そこで川は大きくカーブを描いて湾曲していくのだが、そこは昔から「オザキ」と呼ばれるあたりで、たしかにいまでも「ミサキ=岬」のかっこうをとどめている。そのミサキの突端に近いあたりに古い神社(熊野神社)がある。そして言うまでもなく、そこは縄文の古い遺跡なのだ。》

 「フランスへ行きたしと思へども フランスはあまりに遠し せめては新しき背広を着て きままなる旅に出てみん」とうたったのは朔太郎だったか。「成田西に行きたしと思えど 成田西はあまりに遠し(自転車でとばせば10分だけど) せめてはネットの地図で 熊野神社を探してみん」地図を見ると、おお、たしかに尾崎熊野神社というのがあるわ。「鎌倉に住めれど病めば行きがたみこの里の梅見テレビにてしつ」(吉野秀雄)の心もちだ。

 もうひとつ、中沢を勇気づけ、本書の執筆を決意させたと思われる発見があった(これを第1章に持ってきたのがそう思う根拠だ)。《はじめて野川の古八幡社を訪れたとき、小さな社殿の縁先に、ぼくはお多福人形がさりげなく置いてあるのに気がついた。それを見てひらめくものがあったから、手を合わせておまいりしたあとやおらそのお多福人形を逆さにして、人形の下半身をのぞいて見た。案の定である、そこにはぷっくらとした女性器が隠されていた。/ああ、なんという想像力の連続性。ミサキにある聖地では、遠い昔、生命と霊力の増殖の祭りがおこなわれていた。その感覚が、すがたを変えていまも生きているのである。》大衆の想像力は縄文時代から現在に至るまで図太く生きつづけているのだと、女ずわりしたお多福人形の裏側を写真で見せている。ぷっくらしていてなまめかしい。観光地で(といえば日本ではたいてい神社仏閣だが)このてのものが売られている背景にはこういう増殖祈願の思想もあるにちがいない。

 ミサキもまた本書のキーワード。《人間は昔から、なにかにつけて「さきっぽ」の部分に深い関心を持ってきた。そのさきっぽの部分で、人間にとってなにか重大な出来事が起こるのを期待してきたからである。古代語で「サッ」という音そのものが、境界を意味していた。》「サッ」に関する証明がないのはものたりないが、「みさき」が「御先」であることは容易に想像がつく。「おざき」は「御先」もしくは「尾先」の意味だろう。

〇金持ちは高台に住む

 第2章「湿った土地と乾いた土地 新宿〜四谷」で思わぬ再会をした。泉鏡花の小説「貧民倶楽部」は四谷鮫ヶ橋の貧民街に住む女傑を主人公にしたものだが、その貧乏ぶりの描写がえげつないから、それを読んだときは実際の地名かどうか怪しんだものだが、本書を読んで実在のものと知った。四谷3丁目の交差点の南東に位置する沖積層だ。「貧民倶楽部」は洪積層麻布の金持ちと沖積層鮫ヶ橋の貧乏人との戦いだ。「鮫河橋」と呼ばれる大きなスラム街は《東京オリンピックのときに跡形もなく消されて、公園に塗り固められてしまった》という。

 高台の洪積層は乾燥しており、低地の沖積層は湿っている。新宿でいえば中村屋・紀伊国屋・伊勢丹が並ぶあたりは乾燥した高台、一方、歌舞伎町・大久保あたりは、明治30年代淀橋浄水場を作るために掘り出された土で埋めたてた、もともと湿地帯だった所。「大久保」の久保はおそらく窪地の意だろう。和語は目で見る前に耳で聞くべし。さて、歌舞伎町は、戦後の焼け野原になった新宿に歌舞伎座を誘致しようという計画のもとに名づけられた地名だ。ここからは中沢の、よくいえば豊かな想像力にもとづいた仮説、悪くいえば自説を裏付けるための妄想。《銀座の歌舞伎座もいいけれど、もともと歌舞伎は湿地を住処にするような人々によって、守り育てられてきた芸能ではないか。銀座の歌舞伎には、もうそういう湿地に生まれた芸能としての生命は失われて、乾燥した高台に住む上品な人々のための、お上品な芝居になり果ててしまっていた。歌舞伎を乾いた土地から、湿った土地へ取り戻そう。》という思想で「新宿歌舞伎座」計画は進められたのだが、歌舞伎関係者の「湿地生まれの芸能という、自分の過去の素性に回帰することもなかろう」という思惑で頓挫したのだと中沢はいう。説得力のある仮説だ。ただし銀座も最近まで海だったところだが。

 この本では神社仏閣が洪積層のへりに建っているという指摘以外、なにひとつ事実は示されていない。それ以外は、すべて中沢の仮説、幻想でなりたっている。《地下鉄の座席に座って、何食わぬ顔で本を読んでいるようなふりをしながら、ぼくはほとんど性的な興奮にふるえている。自分の肉体の一部が、他の存在の肉体の一部に、じかに触れて周りからやさしく締め付けられているような感覚だ。そう、いまぼくは地下を走るチューブの中にいて、その周りでは地球の熱い血液が脈打っているのである。地下鉄は存在自体がエロチックだ。地上にいて、足下を地下鉄が走り抜けていくのを伝える振動を感じるたびに、ぼくには東京が性的な快感にふるえているように思える。》ひとびとに新しい視角、新しい認識法を提示するという点において中沢は詩人に似ている。一歩まちがうとヘンタイだけど。

〇仏教伝来以前からテラはあった

 「寺」という字は、音で「ジ」、訓で「テラ」とよむ。音が中国読みで訓が日本語読み、すなわち中国でジといわれるものに日本語を当てはめるとテラになるということであるなら、中国から「寺」という物と文字がはいってきたときに、日本にすでに「テラ」が存在したということになる。仏教の渡来以前に日本にテラがあったのだろうか……。むかしからそんな疑問をいだいている自分の前にこんな一文が現れた。《沖縄の古い言葉では「ティラー」は埋葬地のことをさしている。沖縄に仏教のお寺ができる以前から、この言葉は使われていたらしいところから見ると、お寺の墓地があるからそこが「ティラー」と呼ばれたのではなく、もともと埋葬地をあらわすこの言葉から、「寺」という呼び方ができたのだとも考えられる。》

 沖縄方言にはア、イ、ウの3音しかないから、本土のエはイになった、つまりテラがティラになったと見るのが常識だが、自分はかつてこの常識に異を唱えた。沖縄方言のア、イ、ウ3音こそが縄文日本語の原型であり、日本語はのちに2音足したのではないかと。要するにこういうことだ。縄文人(日本原人)は埋葬地をティラーと呼んでいた。弥生時代、東アジアからやって来て縄文人を東北・北海道と九州・沖縄に追いやった現在の日本人の祖先は、「ティ」の音が発音できなかった(かろうじて発音できるようになったのは戦後アメリカに占領されて以降のことだ)。先進文明とともに「エ」と「オ」を持ってきた彼らはそこで「テラ」と発音した。だから6世紀に仏教が渡来したとき、わが国にはすでにテラがあり、「寺」の字に「テラ」という訓を与えることができた。おそらく埋葬地のそばには埋葬作業や休憩のための簡単な小屋があっただろう。そこもテラと呼ばれていたにちがいない。それで仏教寺院をどこに建てるか検討したさい、やはり埋葬地のそばに建てることにしたのだろう。ウーン、こう考えると、だいぶ得心がいく。古墳時代初期に大和朝廷は日本を統一し、後期に仏教が伝来した。《古墳時代に墓地だったところには、お寺が建っていることが多い。》という中沢の指摘とも一致する。

 中沢は天皇をこうとらえている。《天皇を頭にいただく朝鮮半島からの移住者を、この列島の先住民である縄文人たちは、なにはともあれ受け入れたのである。そのときから異質な文化同士が混じり合って、おたがいの長所を引き出しながら、この文明を造ってきた。》これはもう現在の常識として学会に認められた説なのだろうか。釈迢空が関東大震災の朝鮮人虐殺に材をとって「砂けぶり」をものしたころには、とてもこんなはっきりした発言はできなかった。《おん身らは 誰をころしたと思ふ。/かの尊い 御名において―。/おそろしい呪文だ。/万歳 ばんざあい》

 本書は「週刊現代」に1年間にわたって連載されたものだという。スキャンダルやヌードが売り物の男性週刊誌だ。反対も根強かっただろうにこれを載せようと決めた鈴木章一編集長は偉い。そのかいあって発売から5ヶ月で7刷に達している。数万部だろう。わが国の文化程度はわれわれが思っている以上に高い。