50(2007.07 掲載)

 『やわらかな心』(吉野秀雄、講談社文芸文庫)

   yawaraka.jpg
 明治35年(1902)生まれの歌人は、慶応大学在学中に肺結核になり10年療養、昭和元年25歳のとき最初の妻はつ子と結婚。《学生時代に約束した女性で、病人でもかまわぬからいくといい、まるで看護婦代りに来てくれたのだが、これがわたしにとってどんなに幸運だったか、とてもいいつくせるものではない。》人一倍丈夫なはつ子だったが、40すぎて胃癌になり、戦争まっただ中の昭和19年8月、あえなく奪われる。

   古畳を蚤のはねとぶ病室に汝がたまの緒は細りゆくなり
   病む妻の足頸にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし

 死の前夜のことを吉野はこう詠んだ。

   真命(マイノチ)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ

 これほど激しい歌は目にしたことがない。どちらからいいだしたのだろう。

   これやこの一期のいのち炎立(ホムラダ)ちせよと迫りし吾妹(ワギモ)よ吾妹

 妻からだ。たじろぐ夫を叱咤している。そして――。

   ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす

 なぜ堕地獄なのかわからないが、ともかく行きはてたようだ。さてここからが本論。

 《はつ子は死にぎわに、「あの世はないものだ」と冷静にいいきったが、その点についてわたしはどう反応したかというと、あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。――と、わたしはそうおもった。/よしゑやし奈落迦(ナラカ)の火中(ホナカ)さぐるとも再び汝(ナレ)に逢はざらめはや/(中略)お前は否定する、それは正しいであろう、だがそれならば、おれは自力であの世をおし立て、それがたとえ地獄だとしても、その地獄の火を掻き分けて会わずにはおかぬぞという歌である。――世間では、あの世はあるかないかなどと、かんたんに議論するが、あの世がなくては生きていけぬ人、またはそうした場合にとって、あの世は実在するのであり、どんな達人でもこれを嗤うことはできまいと、わたしはそのときつくづく思い知ったのであった。》

 これにつづいて読んだ本『季節の思想人』(佐田智子、平凡社)のなかで梅原猛が、思想と出生の関係について話している。法隆寺は殺された聖徳太子一族の鎮魂の寺であるという説、あるいは柿本人麻呂は流刑死したのだとする説の根本にあるのは、隠された者や弱者に対するシンパシーだという。なぜそういうシンパシーを抱くようになったのかと問われ、《それはやっぱり私自身の生まれと関係あるでしょうね。面と向かっては言われなかったけど、どこか冷たい差別を感じてきたからでしょうね。/父が東北大の学生だったとき、下宿の娘さんと恋をして私ができた。若くて結婚を許されない。間もなく結核にかかり、父は田舎に帰って治ったが、母は死んだ。私は一歳三カ月でした。/父の兄にもらわれた。伯父は町長をしてたから、私に言う人はないし、中学三年まで知らされなかったが、何となくわかりますわな。始終空想にふける。空想の世界がないとやりきれないような、そういう人間でしたね。/(中略)哲学にしろ、文学にしろ、イマジネーション、空想の世界がなくちゃやりきれない、そこから来ているような気がするね。》

 宗教はその最たるものだ。《あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。》という吉野の言葉は宗教の淵源を示している。いかんともしがたい現実に前をふさがれたとき、ひとは空想のなかに逃げこまざるを得ないのだ。

 

 『季節の思想人(ビト)』(佐田智子、平凡社)

   sisoujin.jpg
 朝日新聞の女性記者が世紀末に各界の著名人に対しておこなったインタビュー集。たぶん年4回の連載だったのだろう。新聞連載時には意味があっても、単行本になってしまったら「季節」という言葉に意味はなくなる。ひとつも食欲をそそらないタイトルだが、中身はおもしろい。

   対談や座談会などは、単に「テープ起こし」をのりとはさみで短くまとめればいいと思っているひともいるだろうが――そして自分もやるまではそう思っていたが――じつはテープ起こしを参考に自分で書きおろすものなのだ。佐田のまとめかたを見るとそれがよく分かる。たとえば外科医須磨久善の回はこう始まるが、《佐田 二月。厳寒。命あるものには一番厳しい季節です。最先端の心臓外科医として、命と向き合って来られ、二年前には脚光を浴びているバチスタ手術(心臓縮小手術)を日本ではじめて実施された。今、命というものをどんな風に考えてますか。》そんなしゃべりかたをする女はいない。

 塩野七生――日本による植民地支配が失敗したのは、明治時代まで他国とのつきあいがなかったから。《三千年の歴史のうち二千五百年を共有したヨーロッパ諸国と、二千年のうち千九百年間を一部の人だけが行き来した日本。他国の民族と肩触れ合わせて過ごさなければという時代は、明治後の百年よ。》ローマの帝政と近代の帝国主義とは異なる。いちばんの違いは、一神教か多神教か。一神教の帝国主義は、信じる神の前ではだれもが平等ととなえたが、《神が別になれば、平等でないってことでしょ。日本は多神教の伝統を持っていたのに、自覚しないで、一神教的な植民地統治をやってしまったんじゃないか。》日本の800万の神はすべて日本製だったのに対し、ローマの30万の神々は他民族の神々を輸入した結果だったという違いもある。本書に登場するひとには一神教の弊害を説くひとが何人かいる。

 梅原 猛――ヨーロッパ文明は小麦文明、東洋思想は米文明。小麦文明と牧畜は容赦なく自然を破壊する。《畑はどこにでも作れるからどんどん拡大する。小麦ができんようになると、牧草地にして最後はヤギが木の根っこまで食べる。あとは岩山。古代文明の跡は、ほとんどひどい荒れ地、砂漠です。/田んぼもやはり木を切るが、森が要る。小麦の反自然的な世界観に比べ、稲作はもうすこしマイルドな、共生する世界観だった気がする。》

 杉浦日向子――桜の花見がさかんになったのは、八代将軍吉宗以降。享保の改革で倹約倹約と締めすぎて世の中が暗くなった。そこで民心を懐柔するために、それまで郊外に行かなければ見られなかった山桜を町なかに植えた。《また花見には三春、梅、桃、桜とありまして、それぞれ愛でて、春の成立となります。役割も違い、梅見は一人、あるいは二人のごく親しい間柄で行く。桃見は家族連れで家族の親睦を深める。で、花見になりますと、長屋単位、店単位で繰り出して、どんちゃん騒ぎをやる。つまり社会的なつながりを深める親睦会ですね。》花見は無礼講の一大イベントで、1年かけて出しものの計画をねり、うんと金をかけたというから、まるでリオのカーニバルのような有様だったのだ。杉浦は江戸に関する質問ならなんでも即座に解答できる。しかしいつも思うのだが、江戸について語るひとの多くは、江戸という都市について語っているだけなのに、まるで江戸時代には日本中そうだったかのようにいう。江戸以外の地域ではどうだったのかが分からない。

 井上ひさし――なぜ現行憲法を擁護しつづけるのかと問われ、5歳のときに死んだ父親について語りだす。子どものころアズキキャンデーが買いたいのにどの店へ行ってもイチゴキャンデーしか売ってくれない。「お前のところはアカだから赤いキャンデーでいいんだ」とからかわれ、国民学校では上級生から「お前の親父は国賊だ」といじめられる。《親父は山形南部の小地主の長男なんですが、東京の薬科専門学校に通いながら、吉野作造を一生懸命読んだ世代なんです。それから河上肇も愛読する。で、田舎に帰って劇団をつくり、薬屋をしながら演劇活動や農地解放運動をやっていた。芝居を通して、主権は国民にあるんではないかとかやって捕まる。それが親父の正体だったと、やっと高校のときにわかってくるわけです。/わかってきて、親父は、今この憲法があったら幸せだったんだろうなと思うようになりました。》井上がなぜ脚本家になったのか、なぜ共産党シンパになったかが分かる。吉野秀雄、梅原猛、井上ひさし。思想の中核は書物でなく体験によって形作られるもののようだ。

 河合隼雄――日本人は豊かになって幸福になったかといえばそうでもない。豊かになるのは《何も悪いことないし、非常に結構。ただ、物が豊かになったときの倫理、心の在り方なんて、今までだれも勉強してなかった。/僕らが教えてもらったのは、節約はよろしいとか、もったいないとか。僕らのバックボーンというのは、物がないということを前提につくられたものなんです。》現代人の悩みは、貧乏に追われるという表層の問題が解決しただけに昔のひとより深くなっている。《人間の悩みというのは、ある程度その人を守っているんですよ。何やら「忙しい、忙しい」と言ってる人は、忙しいによって守られてる。うっかり悩みがなくなると、ものすごくおかしくなる人がいます。だから、僕らはすぐに悩みを取らないです。(中略)取ったら危ないんです(笑い)。悩みによって守られてるわけですから。日本も表層の悩みが取れて、深い層の問題が今、むき出しになってるわけです。》現代日本で起こっている(いや、日本にかぎらず先進国で起こっている)わけのわからぬ事件や社会現象の謎を解くことばだ。人間の体にしても(いや、人間にかぎらずネコの体でも同じだが)飢えを前提に造られている。今度いつ食えるかわからないから、食ったときに脂肪をため込んでつぎの飢えに備えるようにできている。それが毎日たらふく食っているのだから病気にもなるはずだ。