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 『漢語からみえる世界と世間』(中川正之、岩波書店)

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 「北国」はキタグニなのに、なぜ「南国」はミナミグニとよまないか。単語を4音節以下にしたがる日本語の性質上ミナミグニではおちつかないからだという。いままで気づかなかった日本語の法則をいろいろ教えてくれる本だ。

 中川は中国語の研究者。語り口がいい。学術書ではなく一般書だから、なるべく素人にもわかりやすく興味深い話を導入部に置こうとつとめている。序章「二つの領域」は「レイシュ」すなわち漢語と「ひやざけ」すなわち和語とはどうちがうかという話から始まり、そこから日本酒・果実酒・葡萄酒などの中国語は酒の種類をあらわし、ひとりざけ・いわいざけ・やけざけなどの日本語は飲むときの状況をあらわしている、かくして中国語は指定的・分類的であるのに対し、日本語は情況依存的であるというむつかしいことばが結論としてつかわれる。うまいものだ。

●「韓国は日本から最近の国」といえないのはなぜか

 漢語と思われているもののなかには日本製のものが少なからずあるので、そのどちらであるかを判断するには過去の文献を丹念に調査しなければならない(ちなみに著者は丹念を「たんねん」と表記している。『字通』を見たら「丹念」などということばはない。日本製なのだ)。ただし《本書では中国語の原理に従っているものを一律に漢語として取り扱った。》

 千数百年前に輸入された漢語は、日本語の影響を受けつづけたため意味・機能がずれてしまった。しかも日本語にはいった漢語は、その後中国語の中で起こった変化――たとえば降雨は現代中国語では下雨になり、発汗は出汗に、帰国は回国に変化した――に影響されることなく、もとの姿をとどめているものが少なくないので、両者の差異はますます広がった。たとえば同じ「最近」という単語でも、中国語では「韓国は日本から最近の国です」という使いかたをするが、日本語では「最も近い国」といいなおさなければならない。「最」は「もっとも」という意味なのだから中国語の用法を可とすればいいものをそれができない。《日本語では、「最近」が時間表現のみに限定されていること、しかも『近い未来』ではなく『近い過去』にしか用いられなくなったことからしても、語としての細分化が進んでいることがうかがわれる。このような意味的な特化、あるいは結合相手の特定化は、漢語が日本語の中で一語として固定化した結果であると考えられる。》ちょっとむつかしい。かんたんにいえばもともとの意味のうちひとつしか採用しなかったということだろう。漢語の大半は中国でのごくふつうの日常的用法を欠落させているとのこと。

●日本語は「なる」言語

 日本語では「家を建てる」とはいえるが、「酔っぱらいを立てる」とはいえない。「立たせる」にしなければならない。《それは、いくら「酔っ払い」であっても自らたとうとする意思があると日本語では考えるからである。(中略)日本語は、対象が自らの意思をもっているか否かによって動詞の形を変えていることがわかる。》だから中国語では「敵を撤退する」のように撤退を他動詞として使うことができても、日本語では「撤退させる」といいかえなければならない。

 人間が、対象にはたらきかけ、対象の姿や状態を変えるという表現を好む言語を「する」言語と呼び、人間以外のものにも意思を認めたり、あるいは自然にそうなったという表現を好む言語を「なる」言語と呼ぶ。《「する」言語では、実際の文でも動作の行い手が主語として、動作の受け手が目的語として表現されることが多い。その場合は、当然のことながら動作は他動詞によって表現される。それに対して「なる」言語では、しばしば動作主が表現されないばかりか、話し手の意識からすら消え失せ、あたかも自然にそうなったかのように表現されることが多い。》このあとに、自分しか飲まないことが分かっているのに「最近ウイスキーのなくなるのが早い」といったり、自分の過失で割ったのに「お皿が割れた」といったりすることを例に挙げている。「8月6日は何の日?」ときかれたら多くの日本人は「広島に原爆が落ちた日」と答え、「アメリカが広島に原爆を落とした日」とはいわない。これも「なる」言語のせいなのだろうか。

●ことばの優先順位で大発見

 宮武外骨は『面白半分』(昭和4年)の「貧は尊く富は卑し」というエッセーの中で「善悪、美醜、上下など、漢語では上のほうに尊いものをもってくる。貧富という熟語は、貧が尊く、富が卑しいという思想の現れだ」と述べている。また、表裏・前後・日月・昼夜・左右を日本では陰を先にし陽をあとにするため、うらおもて・あとさき・つきひ・よるひる・みぎひだりというと述べている。これを初めて読んだときは感激した。大発見だと思った。

 しかし中川は、外骨を引いての論ではないが、意味で配列しているという見かたを俗論として排する。漢語に関しては生死・明暗・利害という漢語だけ見ていれば、上のほうに尊いものをもってくるという法則が読みとれそうだが、死活・陰陽・損益ということばもあると指摘する。種明かしをすれば、中国語・漢語は声調(四声)順に並んでいるのだそうだ。要するに意味ではなく音。中川はいつも音に目を付ける。

 この上下関係説は日本語のばあいもっと当てはまらない。「ふえたいこ、まるしかく」には上下も陰陽もない。《前にくるものが『尊い』とするなら、日本語では「てきみかた」というので、我々は「敵」のほうを尊重しているということになる。》にし・ひがし みぎ・ひだり うら・おもて……、《そう、二音節のものが前に、三音節のものが後ろにくるのである。この例外は「のぼり・おり、なぐる・ける」くらいしかない(これは『上下』の場合『上』が先という原則が、音節の長短による原則より優先的に適当されるためである)。短いものが長いものより先にくるというのは日本語ではかなり強力な規則である。》なるほど、こちらのほうが学問的な感じがする。中川の勝ち。大発見を論破したのだからこれもまた大発見だ。

●「障害者のかた」はゆるされるか

   テレビから「障害者のかた」ということばが聞こえてくるとイライラする。「障害者」はすでに人間をさしているのだから、それにさらに「かた」という人間をさすことばを補うのは無用なことだ、「障害者は障害者でいいんだ」とつぶやく。でも、初対面のひとに面と向かって「障害者は」といわれると、アタマとは裏腹にココロにはさざ波が立つ。不躾なやつだと思ってしまう。なぜなのだろう。

 《どうも日本語では、素材概念をそのまま用いると感情のこもらない表現になってしまう。個人的な人間関係が意識される場、つまり世間では、なんらかの形で話者と関係づける表現に変える必要がある(それをしくじると「口のきき方を知らない」と指弾される)。》「障害者」は素材概念なのだ。

 論文のなかでなら「視覚障害者は」でも許されるだろうが、放送では「視覚障害者のかた」といわなければ、やはり口のききかたを知らないと指弾されるおそれがある。論文は遠い「世界」だが、テレビは身近な「世間」なのだ。同じことばでも距離によって使いわけなければならない。障害者どうしの会話なら近いから許される。障害者と健常者でも親しければ気にならない。親しくなくても障害者自身が口にするならかまわない。

 いやはや世間様は理屈だけでは通らないもんですなあなどと寝ぼけたことをいっていてはいけない。「素材概念をそのまま用いると感情のこもらない表現になってしまう」という日本語の法則を知って活用することだ。中川は若いころ何度も「口のきき方を知らない」としかられたり陰口をたたかれたりしたことがあるにちがいない。ことばの研究にたずさわる者はことばを正確に使おうとする。わが身に落ち度はないはずなのになぜ、というその思いが世間に隠れたもう一つの法則を発見させたのだろう。

 とはいってもやはり「障害者のかた」はなっとくできない。どういうわけか会社名に「さん」をつけるのも気持ち悪い。きっと談合の時なんか「本来なら〇〇建設さんの番ですが、今回の厚労省さんの工事は△組さんと××工務店さんの共同事業ということでひとつ」などと「さん」が飛び交っているのだろう。おおいやだ。