55(2007.12 掲載)

 『昭和史戦後篇1945−1989』(半藤一利、平凡社)

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●敗戦後の思想戦にも敗北

 2003年3月のイラク占領から2006年の年末までに、イラクでは3000人の進駐米兵が殺された。しかし日本占領期間に米兵が殺されたとかなんらかの武力抵抗があったという話は、聞いたことがない。なぜなのかその理由を知りたくて幾冊かの本を読んだ。鶴見俊輔は、「とにかくみんな栄養失調で、そういうことをやる気力がなかった」と答えていた。まさかそんな単純な理由ではあるまいと考えていたが、本書を読むとどうやらそれが一番の理由のようだ。《まあ不思議なくらいに言うことをきいたんですね。逆をいえば、あれだけ徹底的にやられて、どうにもならない状況下で降伏した、ならばこれ以上抵抗しても無駄、と思い知ったのかもしれませんが、それにしても大元帥陛下の命令がなんと偉大であったことか……今になって考えると、自称「世界最強」の軍隊があんな整然といっちゃおかしいですが、サァーッと解体していく姿は驚くべき眺めでした。現代のイラクを考えますと、なんと日本人は素直に敗北を認めたか、日本人の民族性はもともと戦争が嫌いなんじゃないかと思わないでもないんです。》

 それでも占領軍は、日本人がアメリカ人に対して復讐心を抱かぬように細心の注意を払っていた。「復讐」をテーマにした映画、たとえば「忠臣蔵」が禁止されたのはもちろん、「桃太郎」や「猿蟹合戦」のようなおとぎ話まで禁止された。《これをまた日本人は、反抗もせず唯々諾々として受け入れていったんですね。そういう意味で、アメリカの占領政策は、やったアメリカ人たちも驚くほど、従順にしかも忠実にきちんと実行されていきました。》その経験があるものだからイラク占領もうまくいくと高をくくっていたのだろう。世界中で日本人ほどお上に従順な国民はいないのだ。驚くべき特異性といっていいだろう。

 《敗戦国はどこであれそうですが、「過去の自国は悪かったのだ、申し訳なかった」とその伝統や文化を全否定してしまう、日本もまさにこの敗戦コンプレックスに陥りました。ですから日本人は、アメリカがここで、じつは戦争が終わったあとの「大思想戦」、自分たちの思想を改造するための大宣伝をしているとは思わなかった。》アメリカのしかけた思想戦に敢然と立ち向かった日本人はいなかったのだろうか。武力戦争が終わったあとには思想戦が待っているのだ。《戦争に敗ける、軍事的に敗北するということは、精神文化の敗北でもある。つまり日本人がもっていた根本の原理そのものが全否定され、雲散霧消してしまうことだというのが、人間宣言そして修身・歴史・地理の全廃といった話によく表れていると思います。以来、日本人は歴史を習わない、知らない人がどんどん増えてしまいました。》

●内務省、パンパン宿を開業

 東京・大阪・名古屋・神戸・横浜などの大都市はおろか地方の県庁所在地など90都市がすべて無差別爆撃を受けた。木と紙でできた日本の家屋は灰燼に帰した。罹災者845万人、東京裁判で戦勝国は「人道と平和に対する罪」という新概念を導入して日本を裁いたが、これこそ「人道と平和に対する罪」ではないか。どの面さげて日本人を裁いたのか。とにかく日本人は占領軍に逆らう気力などこれっぽちもなかった。

 戦時中「負けたら日本女性はすべてアメリカ人の妾になり、男は奴隷になる」といわれていた。みんなそれを信じたらしく、内務省は「良家の子女」を守るべく終戦の3日後には米兵のための慰安婦を募集している。3日前まで「鬼畜米英」といっていたのに変わり身の早いこと早いこと。8月27日、占領軍の本土上陸のその日にあわせ1360人の慰安婦を集め「特殊慰安施設」を大森に開業した。鶴見俊輔も戦時中ジャカルタで日本軍のための慰安所の設置に奔走していたというから、「とかくこの世は色と欲、兵隊の性欲を抑圧したらとんでもない暴発が起こる」と日本人は考えていたのだ。古来強姦と略奪こそが兵士の楽しみであった。米兵による強姦事件もあったようだが、特殊慰安施設がなければその何倍も起こったことだろう。特殊慰安施設は大森だけではあるまい。駐屯地には必ずあったのではなかろうか。

●半島が38度線で分断された理由

 ソ連との冷戦開始により、昭和24年、アメリカの占領政策はガラリと変わり、再軍備を求めてくる。厚生省はすでに将来に備え、第一復員局(陸軍)と第二復員局(海軍)に優秀な旧日本軍人を雇い入れていた。《再軍備のための研究をどんどん進めていたのです。しかも連中は、いざという時のために、追放をくった七万人以上の正規の軍人、士官たちの完全な資料を持ってきていました。》

 シベリアからの引き揚げは米ソ関係の悪化で一時中断していたが、昭和24年に再開された。《舞鶴へ最初の船、高砂丸が着きますと、降りてきた人たちが皆、赤旗を手にして「天皇制打倒」を唱えているんです。(中略)当時は「洗脳」という言葉が非常にはやりました。》

 南北朝鮮がなぜ北緯38度で分断されたのか、この本で初めて知った。敗戦時、日本軍をどの軍隊に降伏させるかが問題になった。日本本土の軍隊はアメリカ軍に、満州の日本軍はソ連軍に、朝鮮半島の日本軍は38度線以北はソ連軍に、以南はアメリカ軍に降伏した。ベトナムが戦後の一時期南北に別れていたのも同様の理由で、北部の日本軍はフランス軍に、南部の日本軍はアメリカ軍に降伏したからだ。だからといってなぜ朝鮮やベトナムが分断の憂き目を見なければならなかったのか、そこまでは論じていないが、たぶん連合国はそれぞれ日本の縄張りだったところを自分のものにしたかったのだろう。

 昭和26年サンフランシスコ講和条約締結、27年4月28日平和条約が発効して国家主権を回復。占領軍と同時にパンパンも姿を消していく。接収されていた施設建物が返還される。終戦直後には「真相はかうだ」のような暴露番組や鋭い風刺の「日曜娯楽版」がもてはやされたものの、昭和26年にもなると、「いやなことは忘れよう」と、とにかく明るいことが好まれるようになり、「君の名は」、美空ひばり、ジャズなどがはやる。

●日本を大きく変えたもの

 昭和20年から26年までの占領期とは何だったのか。《まず象徴天皇制になり、主権は国民にありと決められました。同時に議会制民主主義を確認しました。さらに非軍事化、軍事力をまったく放棄します。ほかに財閥解体、農地改革、言論・表現・結社の自由、さらに労働三法の実行などなど。とにかくすっかり模様替えしました。とりわけ農地改革は、日本人が自主的にやろうとしてもなかなかできなかったことです。それをGHQの指令とはいえ見事にやってのけた結果、農業国家日本が大きく変革することになりましたが、小作人などの封建的システムが崩壊したのは大変素晴らしいことではないかと思います。ただし「是認できない改革もある」と言う人もいます。もちろん「天皇象徴制などけしからん! 天皇陛下は絶対だ」とか、「軍隊放棄とは何事か。国家防衛はどうするのだ、陸海空軍を再度編成すべきだ。などさまざまな意見もあります。ただ私が一つ思うのは、民法を変えさせたのは日本の国柄が変わるのに非常に大きな影響を与え、それはいい影響ばかりでなく悪い影響もたくさんあったのではないかということで、これにはかなり問題が残るのではないでしょうか。今さら元へは戻れませんが。》民法の改変に関してはほかにも養老孟司の意見を引きながら疑義を呈している。

 

 『中島虎彦歌集 とろうのおの』(中島虎彦、アピアランス工房)

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●サマワ出兵に危機感をいだき

 巻頭にかかげられた津軽三味線奏者高橋竹山のことばが、本書の立場を象徴している。《まなぐの見えねえもんにとって、一番ひどかったのは戦争だったな。戦争になると、まなぐの見えねえもんは、役立たず、言われて、生ぎていがれねえもんな。したはんで戦争だば絶対まいねじゃ》作者の中島さんは、佐賀県の過疎の村に住む頸髄損傷者だ。重度障害者がなんとか生きていかれるのも平和であればこそ。戦争が始まろうものならバッサリ切られるのは目に見えている。「大川にポイってなもん猫の子にかぎらずご用心ご用心」

 2003年のサマワ出兵に危機感をいだき、「非戦の願い」をこめた短歌を2006年に撤退がきまるまで首相官邸のホームページなどに配信しつづけてきた。相手にされるわけがない。そんなことははなからわかっている。だからおのれの短歌は総理大臣やアメリカのネオコンなどに対しては「蟷螂の斧」であり「徒労の斧」に終わるだろうと覚悟して「とろうのおの」と名づけたのだ。「カーテンの襞に閉じ込められているおはぐろトンボほどの雄叫び」しかし絶望しているわけではない。言霊の力、祈りの力を信じて短歌を発信しつづけている。「ヒロシマの徒労のような祈念ゆえここまで使われずにすんでいる」

●反省のひと

 「腰抜けと言われたくないばっかりに憲法だってねじ曲げてゆく」「雪おろしの自衛隊ならたのもしくサマワへ向かうリアリティーのなさ」のようないかにも反戦歌らしいものも中にはあるが、それは少ない。車椅子の低い視点からいきりたつひとびとを三白眼でながめながら「えらそうに」とつぶやいているようだ。「戦争は必要悪という人のローレックスがぎらついてくる」「国益を言いつのる人自分さえよければいいかのように聴こえる」

 「戦友とは人を殺しあった友達という意味ならば裏声になる」これはまた思いきったことを。鋭い歌だ。だが本書の特徴は糾弾攻撃よりも自省反省にあると思う。かくいうあんたはどうなのよ、かくいうおのれはどうなのよ、といつも反省しているのが中島虎彦という歌人だ。「雑踏のなかの私をもうひとり別の私が見下ろしている」

 「がさつにしか言えぬ農婦と知りながらやや心臓をえぐられている」のような家族関係の苦しさや、「棚田までのぼってくれば減反のこれではまるでナズナ畑か」のような過疎の村を詠んだものにも秀歌はたくさんあるが、ここでは「反省」に焦点を当ててみたい。

 「タマネギを廃棄している夕空が北までずっとつながっている」北は北朝鮮だろう。同じ空の下、かなたでは飢餓に苦しみ、こなたでは農作物を踏みにじっている。

 「かの国をわらう六十年前のこの国をわらうように苦く」どうしてあんなに悲惨な情況に置かれていて反乱を起こさないのかねえ、といったって、戦時中の日本で反乱を起こした者などいるのか。

 「山道の不法投棄にみる民度となりの国のことは言えない」テレビなどを見ているとまったく上から下まで我欲ばかりでうんざりする。

 かくいうおのれはどうか。

 「捨てきれぬキトクケンエキ族議員から電動車いすまで」評者は最近車椅子をあたらしくした。役所からの交付通知書を見てこんなに税金を使っているんだなあと恐縮してしまった。だからといって自費でやりますとは申し出ない。

 「えらそうな日誌書きつぎクーラーをつけっぱなしのことにはふれず」頸損は体温調節ができないからしかたがないとはいえ、気が引けるのね。

 「アリバイのようなものかもしれないと「とろうのおの」を更新している」おのれにきびしいひとなのだ。

 そんなに反省ばかりしているから鬱憤がたまる。「大雨のあと濁流に身を乗り出してどやしつけている誰にともなく」まわりにひとがいないのをたしかめて。

 ユーモラスな歌も少しはある。「勲章を打診されたらどう言って断ろうかと頭が痛い」「焼酎を変えてうんこが出なくなる違いのわかる男のお腹」

 「うれしの川沿いの桜をこの春も飲んだくれてゆく文句あっかあ」その意気その意気、たまには発散しないと鬱病になっちゃうよ。元気出していこうぜ虎ちゃん。

(「はがき通信」第103号から転載)

 

  • 【中島虎彦】 1953年佐賀県生まれ、本書のほか『障害者の文学』『夜明けの闇』などの著作がある。その3作とも書評を書いた。上記の文を「はがき通信」(2007.1.25発行)に掲載してすぐ氏からつぎのようなメールがあった。《「はがき通信」の「とろうのおの」書評、読みました。痛快でした。今までに頂いた批評の中で一番です。引用の歌が的確なのばかりで舌を巻きました。》直後の3月、脳出血で死去。書評が間に合ってよかった。氏は念願の独居生活をはじめたばかりだった。 「花吹雪ひとりで死んでゆく覚悟できているからまたことのほか」(虎彦)