57(2008.2 掲載)

 『摘録 断腸亭日乗(下)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)

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 下巻は昭和12年(1937)59歳から昭和34年(1958)81歳までの日記(歳は数え表記)。戦中・戦後の激動期を記録したものであるため、内容はきわめて豊富。これほどおもしろく、またこれほどドッグイアが多くて手こずった本はいまだかつてない。4月にわたって連載しなければならないほどの量になった。「身辺雑記」と「世相観察」とに分けることには無理があったが、あえて体裁を上巻に合わせ、「身辺雑記」には「月愛づるひと」、「世相観察」には「街談録」という項目を別に立てた。

  ●身辺雑記

 かねてより弟威三郎とは仲が悪く、その事情を上巻で《威三郎はかつて余の妓を納れて妻となせしを憎み、爾来十余年義絶して今日に及べり。》と述べていたが、昭和12年(59歳)3月、大久保の母親重病のしらせにも、弟威三郎が同居しているからという理由で見舞いに行かない。《余は(大正7年)余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日(キニチ)と思ひなせしなり。》かさねて威三郎への恨みを綿々とつづっている。
 上巻ではあれほどさかんだった女性関係の記述が下巻ではすっかり影をひそめてしまう。58歳のとき、《余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。》と記していた。荷風はちょっと体調が悪いとすぐそんなふうに嘆いてみせるから今度もそのたぐいかと思っていたが、どうやら本当だったようだ。それでも昭和12年6月には《楼婢朝八時過廊下より寐入りし妓を呼覚すその声に、余まづ起きて障子をあくるに》だの《六月以来毎夜吉原にとまり》だのとあるから、このころはまだまだゲンキだったようだ。吉原の女郎の投げ込み寺浄閑寺をおとずれおのれの墓に思いをいたす。《余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域(えいいき、墓場)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。》名は荷風散人墓の五字を以て足れりというのは鴎外の遺言「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」にならったのだろう。
 同年9月、母危篤のしらせあれど、行水をして浴衣のまま浅草に赴き《松喜にて夕餉を食し駒形の河岸を歩みて夜をふかし家にかへる。》じつは内心悲嘆を極めていることが、あとにつづく〔欄外朱書〕でわかる。《母堂鷲津(ワシヅ)氏名は恒(ツネ)、文久元年辛酉(シンユウ)九月四日江戸下谷(シタヤ)御徒町に生まる。儒毅堂(キドウ)先生の二女なり。明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す。一女三男を産む。昭和十二年九月八日夕、東京西大久保の家に逝く。雑司谷墓地永井氏塋域に葬す。享寿七十六。追悼。泣きあかす夜は来にけり秋の雨。秋風の今年は母を奪ひけり。》追悼文のひな形としても記憶にとどめ置くべきもの。

 昭和13年(60歳)、当時麻布に住んでいた荷風は、浅草、銀座で夕飯をとることが多かった。玉の井に赴くこともしばしば。女の身の上話を記しているところを見ると、半分は取材のようだ。浅草オペラ館の楽屋をおとずれ踊り子・女優と写真を撮ったりしてひとときを過ごすことも多い。
 同年6月、17日に《平井君『断腸亭日記』第一巻の副本をつくり終わる。》さらに22日には《午後平井君来話。日記三巻を交附す。》とあるが、これだけでは事情がわからない。散逸を恐れてコピーを作ったということか。

 昭和15年(62歳)1月、旅順要塞司令部から占領30年祭につき詩歌を揮毫して郵送せよとの書状が来る。《軍人間に余が名を知られたるは恐るべく厭ふべきの限りなり。いよいよ筆を焚くべき時は来れり。》
 同年2月、谷中というひとが言うには、きょうオペラ館に高見順が踊り子2、3人をつれてやってきた。《原稿紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度実に驚入りたりといふ。》33歳ぐらいだろう、やりそうだ。《かつて三上於莵吉(オトキチ)といふ文士神楽坂の待合にて芸者に酌をさせながら原稿をかきこの一枚が十円ヅッだから会計は心配するなと豪語せしはなしと好一対の愚談なり。》愚談なりがコキミいい。
 同年5月、土洲橋医院の院長に、自炊生活は過労のおそれがあるから入院せよと言われる。欧州戦争に関する報道は英仏側電報記事だけを読み、ドイツからの報道はいっさい読まない。《余は唯胸の奥深く日夜仏蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ。》
 同年6月、《夜銀座に飯し浅草より玉の井に至る。》昨年年季が明けて国に帰った者がまた客を取っている。《この里には水切(ミズギレ)の騒なしといふ。》事実を記すのみで評価はしていないとはいえ、見方が皮相ではないか。同じころ鶴彬は「淫売をふやして淫売検挙だってさ」「修身にない孝行で淫売婦」などの川柳で舞い戻らざるをえない娼婦たちの実相に迫っている。
 同年7月、奢侈品の製造販売禁止の令出る。ただし外国人に売って外貨を稼ぐぶんにはさしつかえないという。《然れば西洋人を旦那にして金を取ることは愛国的行為なるべく明治時代にありし横浜の神風楼は宜しく再築すべきものならむ。》神風楼は異人相手の娼館。いまの北朝鮮も同じことをしている。外貨に困ればどこの国でもする。
 同年8月、「ぜいたくは敵だ」と書いた立て札が出はじめるが、《今日の東京に果して奢侈贅沢と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり。》それなのに陸軍中将某氏未亡人の家に盗賊が入り金銀小判金製品を盗み出して逮捕された。貴金属はすでに政府に売り渡したはずなのにまだ隠匿しているとは怪しむべきなり。
 同年9月、中河与一が雑誌の原稿をたのみにくる。《時勢の変遷を何とも感ぜざる人間世にはなほ多しと見ゆ。鈍感むしろ羨むべきなり。》時勢に敏感な荷風は作品の発表にも用心深い。同年10月、このころ新体詩ふうのものをよく書いている。《戦乱の世に生を偸(ヌス)む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよしと思ひたればなり。散文にてあらはにこれを述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。》

 昭和16年(63歳)1月、炭もガスも乏しければ湯婆子を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。軍人政府の専横いっそう甚だし。それでも時雨降る夕べ下駄の鼻緒が切れはせぬかと案じながらネギ醤油を買って帰る折などは《哀愁の美観に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。》1月の時雨降る夕べに哀愁の美観に酔うというのだからうらやましい。自分など1月になったら一歩も外に出られない。
 同年1月、《深夜遺書をしたためて従弟杵屋五叟(キネヤゴソウ、大嶋加寿夫)の許に送る。》葬式はするな墓石は立てるなと言っている。
 同年2月、浅草オペラ館の楽屋で朝鮮の踊り子一座が日本のはやり歌を歌っている。《声がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせなば嘸(サ)ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに、公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると答へさして憤慨する様子もなし。余は言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき。》明治42年(1910)に韓国併合がおこなわれ昭和14年には創氏改名に至った。芸事にうるさい荷風は心から芸術的感興をおぼえたであろうに、それが満たされぬとは。余は日本人の海外発展には嫌悪と恐怖を感じてやまざるなり。6月には《余はかくの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て鄰国に寇(コウ)することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速に起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を与へしめよ。》とまで言っている。
 同年6月、きわめて重要な日記を残している。《たまたま喜多村?庭(キタムラインテイ)が『?庭雑録』を見るに、基蜩(キチョウ)の『翁草(オキナグサ)』につきて言へることあり。》として以下に『?庭雑録』を引用している。たぶん基蜩が喜多村に言った言葉なのだろう、平生のことは遠慮がちでもいいが、《筆をとりては聊かも遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し。翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく実事のままに直筆に記し、これまで親類朋友毎度諫(イサ)めていかに写本なればとて世間に漏出まじきにてもなし、いかなる忌諱の事に触れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へといへど、この一事は親類朋友の諫に従ひがたく強て申切てをれり。/余これを読みて心中大に慚(ハズ)るところあり。》今年2月のころ『杏花余香』なる一篇を『中央公論』に寄稿したのだが、それによって多年日記を書いていることを世間が知り、自分が時局に対していかなる意見をいだいているか知りたがるようになった、かもしれない。《余は万々一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憤惻の文字を切去りたり。また外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり。今『翁草』の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。》
 上巻を読んだときも、政治的発言の箇所ではたびたび「何行抹消」という注記が出てくるから、過激と思われる発言を自制しているのだろうと思ったが、やはりそうだったのだ。
 後世史家の資料に供すべしと覚悟を決めたのだろう、時局に関して思いきったことを書いている。《日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗穀及び満洲侵畧に始まる。日本軍は暴支膺懲(ボウシヨウチョウ)と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧洲戦乱以後英軍振はざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人ら及猛悪(ドウアク)なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。麻布聯隊叛乱の状(サマ)を見て恐怖せし結果なり。今日にては忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一稼なさむと焦慮するがためなり。元来日本人には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。欧羅巴の天地に戦争歇(ヤ)む暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず。》麻布聯隊の叛乱とは2.26事件のこと。いままで2.26事件がどういうものだったのかわからなかったが、これで実感できた。軍人によるテロだったのだ。国民はテロに恐れをなして以後口をつぐんだのだ。1932年の5.15事件、36年の2.26事件というテロ行為で軍部が着実に勢力を拡大していったということがよくわかる。

 昭和17年(64歳)1月、軍人執政の世となり急にミソギというものがはやり始めた。元旦から海水を浴びてミソギをしてきたと大声で自慢する者がいる。寒中の水浴がもし精神修養に効果があるなら、夏の日暖炉に対して熱湯を飲むもまたしかるべしとからかっている。悪口のうまさにはほとほと感心する。
 同年2月、銀座金兵衛にて歌川氏より羊羹をもらう。甘き物くれる人ほどありがたきはなし。こののちもことあるごとに誰から何をもらったということを大事そうに書いている。
 同年7月、腹痛がひどくなりかかりつけの土洲橋病院へ。明け方には楽になる。ヘエと思うのは《午後看護婦を偏奇館留守宅に遣り戸締をなさしめ郵便物を持来らしむ。昨夜来暑気酷烈華氏九十度に達すといふ。》むかしの看護婦はそんなことまでしてくれたのだなあという感慨と、当時は華氏を使っていたという事実。
 同年9月、10日ほど前から両手両足が麻痺し歩くときよろめく。土洲橋で診てもらうが原因不明。《余が生命もいよいよ終局に近(チカヅ)きしなるべし。乱世の生活は幸福にあらず死は救の手なり悲しむには及ばずむしろよろこぶべきなり。》
 同年11月、《政変以来作品を公表せずいはゆる文壇より全く引退したれば出版商新聞記者文学志望者等雑賓の門を叩くもの跡を断ちたり。これ最もよろこぶべし。》政変とは何のことをさしているのだろう。

 昭和18年(65歳)1月、浅草の雑沓は去年の比にあらず、仲店も人波で歩けず観音堂に参ることもできない。どうしてそんなに混んでいたのだろう。清水金一・エノケン・緑波など浅草の道化役者は「不真面目だから芸風を改めるように」との命令を受けているというのに。庶民の神頼みか。
 同年4月、銀座の金兵衛で晩飯を食っていると、仙台から来たひとがいうには、塩釜あたりの漁師は米国飛行機また潜水艦に襲われるものがはなはだ多いと。はじめて聞く話。沿岸の漁船が襲われるのだからこの時点でもう負けている。
 同年5月、《菊池寛の設立せし文学報国会なるもの一言の挨拶もなく余の名をその会員名簿に載す。同会々長は余の最も嫌悪する徳富蘇峰なり。》無断で人の名を濫用する報国会の不徳を責めてやろうかと思ったが、これがかえって豎子(ジュシ)をして名をなさしむるものになるべしと思い返して捨て置くことにした。豎子は青二才。
 同年6月「街談録」浅草公園のある芸人に玉の井の噂を聞いた。《例の抜けられますとかきし路地の女の相場まづ五円より十円となれり。閨中秘戯に巧みなるもの追々少くなれり。花電車といふ言葉も大方通ぜぬやうになりたり。》お客が青二才ばかりで老人が少なくなったからだろうと分析、されど七八百人もいるから中には尺八の上手なものもいる。《この土地にて口舌を以てすることをスモーキングといふ。》町の噂については「世相観察」の末尾に「街談録」の見出しで一項もうけたが、これは場違いなので「身辺雑記」に入れた。
 同年7月、忠孝や愛国の氾濫にうんざりしたようで、「冗談剰語」として次のような悪態をついている。《日本人は忠孝及貞操の道は日本にのみありて西洋になしと思へるが如し。人倫五常の道は西洋にもあるなり。但しやや異なるところを尋れば日本にては寒暑の挨拶の如く何事につけても忠孝々々と口うるさく聞えよがしに言ひはやす事なり。また怨みありて人を陥れんとする時には忠孝を道具につかひその人を不忠者と呼びかけて私行を訐(アバ)くことなり。忠孝呼ばはりは関所の手形の如し。これなくしては世渡りはなりがたし。》人を陥れようとするとき不忠者のレッテルを貼るというテクニックは、いまの世でも健在。
 愛国に関しては――、《日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異らず。その短所欠点はゆめゆめ口外すまじきことなり。歯の浮くやうな世辞を言ふべし。(中略)楠と西郷はゑらいゑらいとさへ言つて置けば間違はなし。押しも押されもせぬ愛国者なり。》どこの国だって戦時になれば同じようなもの。楠と西郷のくだりは、当方に理解するだけの知識がない。
 同年9月、米国飛行機かならず来襲すべしとの風説があり、上野駅は避難客で雑沓しはじめた。疎開すべきかどうか悩みはじめる。ここから荷風の人生の激動期が始まる。
 同年10月、フランス語の聖書を読みはじめる。キリスト教を信じるわけではないが、《軍人政府の圧迫いよいよ甚しくなるにつけ、遂に何らか慰安の道を求めざるべからざるに至りしなり。》
 同年10月、おかずがないので海苔と味噌を副食にして米飯に飢えを忍ぶ。《これにつきて窃(ヒソカ)に思ふに人間の事業の中(ウチ)学問芸術の研究の至難なるに比して戦争といひ専制政治といふものほど容易なるはなし。治下の人民を威嚇して奴隷牛馬の如くならしむればそれにて事足るなり。ナポレオンの事業とワグネルの楽劇とを比較せば思半(オモイナカバ)に過るものあるべし。》
 同年11月、音楽映画の構成を手がける。翌19年にその筋の検閲で不許可になったという『左手の曲』がそれだろう。小説の執筆が危険だから音楽映画の台本にしたのにそれでもボツだ。
 (つづく)