58(2008.3 掲載)

 『摘録 断腸亭日乗(下)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)

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 (承前)
 昭和19年(66歳)1月、昭和初年にうんとかわいがりその後ぐあいが悪くなって別れたお歌が訪ねてきた。《阿部さだといふ女と心やすくなり今もつて徠往(ユキキ)する由。》なぜ訪ねてきたのか理由はわからないが、この戦乱の世にむかしの人の尋ねくるは涙ぐまるるまで嬉しきものなり。
 同年3月、空襲のさいの蔵書および草稿の安否が気になる。《今日余は既にその長寿なるを喜ばざるものなれど蔵書と草稿とは友人諸氏にわかちて贈りたしと思へるなり。》同3月、浅草オペラ館解散。踊り子たちは平然としている。民衆の心情ほど解しがたきものはなし。《これ現代一般の世情なるべく全く不可解の状態なり。》しかし3月末日の日記には、館主が一座の男女を舞台に集め告別式をおこなうと、みな泣きだしてしまい自分ももらい泣きしたとある。
 同年5月、ネズミもスズメも飢え、野良猫は姿を消した。《東亜共栄圏内に生息する鳥獣饑餓の惨状また憫むべし。》そう書いた3日後、突然イエネズミが姿を消す。
 同年6月、表通りの塀際に置いてある配給の炭俵を《夜明の人通りなきを窺ひ盗み来りて後眠につきぬ。》
 同年8月、《日本の文化は海外思想の感化を受けたる時にのみ発展せしなり。》仏教の盛んだった奈良朝、儒教の盛んだった江戸時代、西洋文化を輸入した明治時代、みんなそうだ。《海外思想の感化衰ふる時は日本国内は必(カナラズ)兵馬倥?(コウソウ)の地となるなり。(中略)この度の戦争はその原因遠く西郷南洲の征韓論に萌芽せしものと見るも過(アヤマチ)には非らざるべし。》同年11月には、むかしの日本人が奴僕婦女にいたるまで温厚篤実だったことは当時の本を読めばわかる、《明治以後日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りしためなること、今更のやうに痛歎せらるるなり。》江戸っ子は薩長が大嫌い。そういえば明治時代わたしの祖母が若かりしころのことだが、さる政府高官から縁談がもちこまれたさい、元幕臣の父親は「薩長の田舎侍に娘がやれるか!」と怒鳴りつけて追い返したという。薩長のせいで憂き目を見たという思いと、それでも格が違うわいという思い、ともにあったのだろう。
 同年9月、軍部の注文で岩波書店が『腕くらべ』5000部増刷。政府は今春から歌舞伎、花柳界の営業を禁止しておきながら、花柳小説と銘打った拙著を重版して出征兵士に贈ることを許可する。何らの滑稽ぞや。
 同年12月3日、66回めの誕生日。《この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒(イタズラ)に長命を歎ずるのみ。唯この二、三年来かきつづりし小説の草藁と大正六年以来の日誌二十余卷だけは世に残したしと手革包に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし。》

 昭和20年(67歳)3月、午後3時にあく「洗湯」のまえで群衆とたむろしているとむかしのことが思い出される。吉原でいつづけの朝も昼近く、女の半纏を借りて寝間着の上に引っかけわれこそ天下一の色男といわぬばかりの顔して黒助湯というのに行ったのが洗湯初体験だった。《その頃上野浅草辺の料理屋は暁方より朝がへりの客を迎ふるため風呂をわかし置くならはしなりき。》平成20年の現在、ホストクラブは出勤前のOLのために早朝営業をおこなっている。いつの世もフーゾクはたくましい。
 同年3月、東京大空襲で偏奇館消失。蔵書もすべてなくし着の身着のまま代々木の杵屋五叟の家に。
 同年4月、空襲やまず、角筈一帯消失、東中野のアパートに。
 同年5月、水道・ガス止まる。《敗戦国の生活水も火もなく悲惨の極みに達したりといふべし。》同5月、市兵衛町の旧宅焼け跡を見に行くと、兵隊が穴を掘っている。問うと焼け跡は軍隊が自由に使っていいことになっているとのこと。同5月、アパートの一同で取払い家屋の後かたづけに徴発される。《人々これをキンロウホウシと称す。無賃労役の意なり。》カタカナ表記は嘲弄。この日記は、戦時用語がいつ生まれたかをよく記録している。
 同5月、空襲を受け防空壕に入ったが、《爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる烟(ケムリ)風に従つて鼻をつくに至れり。最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上到るところに燃え出で、人家の垣牆(エンショウ)を焼き始めたり。》焼夷弾を活写している。こういう場面に遭遇すれば誰でも同じ文が書けるかといえば、むろん素人ではこうはいかない。夜っぴて逃げ回り明け方アパートに戻ると跡形もない。
 同年6月、明石の西林寺にある「貸二階」へ。風光明媚な海岸。だがここにも空襲の噂があり、岡山へ。ところがついたばかりの岡山でも宿の女将が、ツバメの子がきのう巣立ちしたまま帰ってこないから今日明日必ず異変があるだろうという。《果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。》真夜中まっ暗な河原を67歳の荷風は逃げまどったのだ。焼夷弾とこの襲撃は、もし荷風の生涯が映画化されれば最大の山場になるだろう。
 同年8月、旭川上流にある谷崎潤一郎の「客舎」に招かれ、贅沢な昼飯をごちそうになる。川の上流が階級の上流に符合している。翌日の朝食でさえ、《これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり。》この地へ移れとすすめられたのを遠慮して岡山へ帰ろうとしたが電車の切符がとれない。それを告げると谷崎はわけもなく入手してくれる。岡山に帰り、その日正午に日米戦争突然停止せし由を聞く。
 同8月、朝は重湯、昼と夕はおかゆと野菜の煮込みを口にするのみ。《されど今は空襲警報をきかざる事を以て最大の幸福となす。》
 同8月、奈良県法隆寺村に避難している島中雄作に手紙を出す。《漂泊の身もしかの地に至ることもあらばその人の厄介にならむ下心あればなり。》炭泥棒といい、下心といい、正直な告白が好もしい。
 同8月、東京行きの切符が手に入らない。ところが地獄の沙汰も金次第で、岡山駅のツーリストビューローの事務員に金子一包を贈ったところ東京行き2等の切符を入手できる。
 同年9月、五叟のつてで熱海に。熱海は初めて見るが、印象優美ならず。《殊に家屋道路海辺の埋立地の如きむしろ目にすることを欲せざるところもあり。》まったく同感、熱海不振のニュースを聞くたび、高度経済成長に乗って海辺にコンクリのホテルを建てすぎたのだと思っていたが、なんだ崩壊の兆しは戦前からあったのだ。
 同年10月、雑誌「中央公論」の再興に忙殺される島中が来て、罹災見舞金1000円と、また何ともつかぬ謝礼金5000円をくれる。現在のいくらぐらいに相当するのだろう。これから荷風たち反戦派の時代がやってくると踏んでほかの出版社に取られぬよう手付けを置いていったのだろう。
 同年12月、新生社主人から缶詰をもらう。コンバット・レーションのようだ。中身はどれもすばらしい。戦地でアメリカの将卒はこれを食っていた。日本軍が負けるのはもっともだ。《人間も動物なればその高下善悪は食糧によりて決せらるべし。近年余の筆にする著作の如きも恐らくは見るに足るべきものには非ざるべし。わが文芸の世界的地歩を占め得ることは到底望むべからず。悲しむべきなり。》すっかり弱気になっている。戦時中もずっとゾラなどのフランス文学を読みつづけていたから実力の差を感じていたのだろうか。ノーベル文学賞は世界的地歩を占めた証といえるだろうが、川端や大江が荷風をしのいでいるとは思えない。戦に負けると弱気になるのだ。

 昭和21年(68歳)1月、父親からうけついだ株の配当で食ってきたのに、去年からそれがなくなり、個人資産にも2割の税がかかることになった。《今年よりは売文にて餬口の道を求めねばならぬやうになれるなり。(中略)老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり。》全集まで出している作家が、本気なのか。同1月、五叟の家族とともに千葉の市川へ引っ越し。
 同年2月、銀行預金封鎖のため、生活費の都合により中央公論社顧問嘱託となる。
 同年8月、夜隣室のラジオがうるさくて耐え難いので暗いなか外出。居候だから文句が言いにくいのだろう。

 昭和22年(69歳)1月、《一日も早く腹痛の治するを待つて小西氏邸内に移居したし。》摘録に記述はないが、2月ごろ転居した模様(昭和32年3月、八幡町に移る)。
 同年6月、夜用事があって「大島」方へ行ったところ、残し置いた書物がことごとくなくなっている。大島は五叟のこと。五叟の長女よし子が盗んで古本屋に売った。《実に意外の珍事といふべし。》同年7月、盗難のことにつき五叟と激論。五叟は弁償しないから交際は自然断絶すべしと書いている。同9月、15歳の長女香衣(よし子ではなかったのか?)のしわざとは思いにくい、長男成友がやらせたのだろうと五叟に言うと、五叟は断固として否定する。
 同年8月、露伴先生告別式。《小西小滝の二氏と共に行く。但し余は礼服なきを以て式場に入らず門外に佇立してあたりの光景を看るのみ。》

 昭和23年(70歳)1月、《春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。》
 同年2月、新宿帝都座の額縁ショウはつまらないらしいとか、浅草六区の劇場はみなはだか踊りの看板を掲げているとか、吉原の娼家は喫茶店の札を掲げ、《風俗良家の婦女の如くなかに容貌好きものもあり。年齢概して若し。》などその方面の観察70にしてなお衰えず。
 同年5月、《『東京朝日新聞』に余の旧作『襖の下張』を秘密に印行せしもの警視庁に拘留せられし記事出づ。》「襖の下張り」は誰の作であろうか、優れた文章力から荷風説が有力である、なんていう文を何度見たことか。余の旧作って本人が書いているではないか。

 昭和24年(71歳)6月、浅草でフランス映画をみた帰り、地下鉄入り口で電車を待つあいだ(駅の構造がわからない。入り口から電車が見えるのか、入り口とはあるいはホームのことか)タバコに火をつけようとしたが風でつかない。そばにいた街娼が「わたしがつけてあげましょう。あなた永井先生でしょう」という。「どうして知っているのだ」「新聞やなにかに写真が出ているじゃないの。『鳩の町』も昨夜読んだわ」などと問答するうち電車が来たので《煙草の空箱に百円札参枚入れたるを与へて別れたり。》3日後やはり地下鉄の入り口で同じ街娼に会ったので、その経歴を聞こうと吾妻橋の上につれ行き暗い川面を眺めつつしばらく問答。《今宵も参百円ほど与へしに何もしないのにそんなに貰つちやわるいわよと辞退するを無理に強ひて受取らせ今度早い時ゆつくり遊ばうと言ひて別れぬ。年は廿一、二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそぞろに惻隠の情を催さしむ。不幸なる女の身上を探聞し小説の種にして稿料を貪らむとするわが心底こそ売春の行為よりもかへつて浅間しき限りと言うべきなれ。》敗戦後には売春しか生きる道のない女性がたくさんいた。さぞかし可憐な女だったのだろうと甘酸っぱい気分になる。荷風の自省もまた胸を打つ。

 昭和26年(73歳)7月、《午後高梨氏『断腸亭日乗』(第一)持参。新小岩に?(ハン)す。》第1巻が中央公論社から出たということか。

 昭和27年(74歳)4月、ロック座の踊り子たちと《某亭二階に秘戯映画を看る。》
 同年10月、文化勲章決定。同10月、宮中に着ていく服がないので《島中氏洋服モーニングを持ち来たりて貸さる。》島中は露伴の告別式の様子を見て気を利かしたのだろう。同年11月、島中は授与式のために買った新車で迎えに来る。《吉田首相箱入の勲章及び辞令を手渡しせらる。》など当日の様子をくわしく書きとどめている。これが長い日記の最後の山場。こののち日記は昭和34年(81歳)4月29日、死の前日まで書きつづけられるが、晩年は1日1行、ほとんど見るべきものはない。盛んだった大樹がしだいに衰え、ついに枯死するさまを見届けるようだ。

●月愛づるひと

 荷風は月の好きなひとだ。月に関する記述が多い。風流をゆるさなくなった戦時の世相のなかであえて世間に背を向け、風流の道を突き進む覚悟がうかがわれる。
 昭和13年8月、浅草オペラ館の踊り子たちと一杯飲めば《時既に夜半三更(午後11時〜午前1時)を過ぐ。街上ネオンサインの光なきを以て月光の青く冴えわたりて高き建物の半面を照すさま、また街路樹の茂りのその影を路上に横ふさま頗趣あり。》夜間外出のむつかしい身としてはまことにうらやましい。ただしおのれがその場にいあわせて同じ感興を得られるかどうか。空襲のくだりと同じことだろう。
 昭和15年9月、やはりオペラ館の帰り、《帰途夜半の空を仰ぐに星斗森然銀河の影いとあざやかなり。市中ネオンサインの光なく街上の燈火も今年に入りてより俄にその数を減じたるがためなるべし。》ネオンと街灯が消えれば危機感や窮乏感が強まるはずなのに、荷風は銀河を楽しんでいる。いま都心で同じ状態になっても銀河は現れないだろう。戦争中より危険かもしれない。
 昭和16年10月、日米開戦の噂しきりのころ、《中秋の月を観むとて浅草に徃く。夕方六時過月は吾妻橋の真上にあり。》
 昭和19年8月、疎開で取り壊された民家を見に行く。《電車にてまづ浅草雷門に至るに、暮方の空なほ明ければ六月十五夜とも思はるる円き月薄赤き色をなし対岸沈橋の上に登らんとせり。》
 そして極限状況における観月は昭和20年3月9日、《夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。》というから東京大空襲だろうか。隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き、日誌と草稿を入れた手鞄を提げて逃げ出す。《火星(ヒノコ)は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ。》逃げまどうさなかにも《下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る。》どうしてそれほど月にこだわるのか。花鳥風月を叙するのは文人の当然のつとめという意識もあるだろう。観月の習慣には、いかなる危機にあっても平常心をとりもどすという効用もあるのではないだろうか。さすがに繊月は凄然と映るのだが。
 敗戦の翌月には疎開先の熱海で十五夜を見て「月見るも老のつとめとなる身かな」と詠んでいる。食べるのに必死で誰も月を見る余裕などなくなった世相のなかで、せめて老いた自分ぐらいは見ておこうという気分なのだろう。
 (つづく)