59(2008.4 掲載)

 『摘録 断腸亭日乗(下)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)

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 (承前)

●世相観察

 【昭和11年、2.26事件、日独防共協定。昭和12年、廬溝橋事件、南京陥落】
 昭和12年(59歳)7月、《街頭には男女の学生白布を持ち行人に請ふて赤糸にて日の丸を縫はしむ。いづこの国の風習を学ぶにや滑稽といふべし。》
 同年9月、しばらく前からカメラにこっていてよく散歩に携帯するのだが(現像も自宅でする)、芝の台徳院門前を過ぎようとするとき僧侶に呼び止められ、増上寺に兵士が宿泊しており山内一円写真撮影を禁じられている、憲兵にカメラを没収されぬよう用心したまえと忠告される。
 荷風はしばしば女性の髪型服装を自筆のイラストまで入れて記録している。同年11月、女子事務員の通勤するさまを見るに、新調の衣服を身につけるものが多い。《東京の生活はいまだ甚しく窮迫するに至らざるものと思はるるなり。戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものの如し。》ヒニクをとばしている。
 同年12月、明春ダンシングホール閉止の令出る。つぎはカフェー禁止、そのまたつぎは小説禁止令が出るだろうと恐れている。

 【昭和13年、国家総動員法成立】
 昭和13年(60歳)4月、《今春丸善書店に注文したる洋書悉く輸入不許可の趣丸善より通知あり。戦禍憂ふべきなり。》フランス語の原書を読むのを楽しみにしていたから腹立たしかったろう。
 同年8月、水天宮の待合い叶家の「主婦」がいうには、今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりで売春婦を30〜40名募集したが妙齢の女が来ない。北京で陸軍将校の遊び場をつくるにはひとり2万円かかる。軍部は1万融通してやるからぜひとも若い士官を相手にする女を募集せよというが、北支の季候はあまりに悪いので辞退したと。《主婦はなほ売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他の事を語りぬ。〔以下三行弱抹消〕世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛んに娼婦を送り出さんとす。軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし〔以上行間補〕。》慰安所の設置には政府も軍部も関与していなかった、業者が勝手にやったことだというのが日本政府の立場だ。じつは陸軍が折半でやろうと持ちかけたのに、寒いからイヤだと日本人女性には断られたのだ。それで外人女性を使わざるをえなくなったのだろう。任意か拉致かは知らないが。
 同年10月、《虎の門その他の辻々に愛国心煽動の貼札また更に二、三種加はりたり。》自分の文学的態度に対する攻撃が強くなってきたのを感じ《筆禍の来るも遠きに非ざるべし。》と覚悟している。

 【昭和14年(1939)、ノモンハン事件、独ソ不可侵条約、天津事件をきっかけに反英運動たかまる、アメリカが日米通商航海条約を廃棄、ドイツのポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる、創氏改名】
 昭和14年(61歳)2月、浅草オペラ館の演劇「花と戦争」が憲兵隊の臨検で上場禁止になる。荷風の作品ではないのにわざわざ記すのは、軍部の圧力をわがこととして捉えているからだ。
 同年5月、町の辻々に日独伊軍事同盟や政党解散のビラが張り出される。
 同年6月、パーマ禁止、男子学生は五分刈りの法令。《純金強制買上のため掛りの役人二、三日前より戸別調査に取りかかりし由。(中略)一寸八分純金の観音様は如何するにや。名古屋城の金の鯱も如何と言ふものありとぞ。》荷風のところにも市兵衛町町会の男が来て金品申告書を置いていく。ほとんどなかったが、煙管などの金製品を《むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲(エ)んよりはむしろ捨去るに若(シ)かず。》と吾妻橋の上から浅草川の水中に投棄する。
 同年7月、町のいたるところに「排英演説会」の立て札を見る。ところが8月、《町の辻々に立てられし英国排撃の札いつの間にやら取除けられたり。(中略)東京市役所の門に下げられたる反英市民同盟本部とかきし木の札も既に見えずといふ。》なぜなのだろう。4月に起こった天津事件で反英感情が国中に蔓延したとき、昭和天皇は平沼首相を呼んで「反英運動を取り締まることはできないのか、反対意見の議論も国民に聞かせるように」と言ったそうだが(『昭和史』半藤一利、平凡社)、それと関係がありそうだ。
 同年9月、《この日新聞紙独波両国開戦の記事を掲ぐ。ショーパンとシェンキイッツの祖国に勝利の光栄あれかし。》とポーランドの応援をしている。いまではドイツ軍の侵攻とされる事件も当時は開戦と報じられたのだとわかる。シェンキイッツとは誰のことか。

 【昭和15年(1940)、「生めよ殖やせよ」と叫ばれる、ドイツ大勝利、パリ占領、日本軍北部仏印に武力進駐、日独伊三国同盟、紀元2600年の大式典】
 昭和15年(62歳)3月、若い男女の身だしなみが悪くなった。こぎれい、こざっぱりという東京の美風は紀元2600年にいたりまったく滅び失せたり。独軍デンマークノルウェー両国を占領す。
 同年11月、西銀座の商店主が言うには、銀座西側だけで今年は170人徴兵された、ほどなく南京あたりへ送られるのだろう、《丁年者の体格今年は著しく悪しくなりたりとて検査の軍人ども眉をひそめゐたりと。》また出入りの米屋は麻布区内の米屋がわずか5軒になってしまったと嘆く。戦争になると働き手もいなくなり兵隊の体格も悪くなっていくということがよくわかる。
 同年12月、「世上の噂」を聞くに、《発句をつくるものども寄り合ひて日本俳家協会とやら称する組合をつくり、反社会的また廃頽的傾向を有する発句を禁止する規約をつくりし由。》このひとびとは発句の根本に反社会的要素、隠遁すなわちさびのあることを知らず、《もしこれを除かば発句の妙味の大半は失はれ終るべし。》と批判している。桑原武夫が戦後「世界」に発表した「第二芸術」で俳句を攻撃した理由の一つは、この俳人たちの体制迎合だった。
 これと同じ現象が翌年3月に詩の分野でも起こっている。日本詩人協会とか称するところが会費3円払って参加せよといってきた。《趣意書の文中には肇国(チョウコク)の精神だの国語の浄化だのいふ文字多く散見せり。そもそもこの会は詩人協会と称しながら和歌俳諧及漢詩朗詠等の作者に対しては交渉せざるが如く、唯新体詩口語詩等の作者だけの集合を旨となせるが如し。今日彼らの詩と称するものは近代韻文体の和訳もしくはその模倣にあらずや。近代西洋の詩歌なければ生れ出でざりしものならずや。その発生よりして直接に肇国の精神とは関係なきもの、またかへつて国語を濁化するに力ありしものならずや。》矛盾の指摘が的確で小気味いい。《佐藤春夫の詩が国語を浄化する力ありとは滑稽至極といふべし。》御大にかかっては佐藤春夫も形無し。

 【昭和16年(1941)、日ソ中立条約調印、ドイツがソ連に侵攻、日本軍が南部仏印進駐、アメリカが対日石油輸出全面禁止、真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦】
 昭和16年(63歳)1月、米もパンもうどんも入手しにくくなってきた。政府はこの窮状にもかかわらずドイツの手先となり米国と砲火を交えむとす。《笑ふべくまた憂ふべきなり。》3月から白米は切符制になる。労働者は1日2合9勺、普通のひとは2合半、女は2合。《むかし捨扶持(ステブチ)二合半と言ひしことも思ひ合はされて哀れなり。》捨て扶持は、江戸時代役に立たなくなった者を救う名目で与えられた扶持米。
 同年4月、《新橋橋上のビラにもう一押だ我慢しろ南進だ南進だとあり。車夫の喧嘩の如し。日本語の下賤今は矯正するに道なし。》悪口がうまいねどうも。
 同年5月、日本酒の配給、1家族1ヶ月につき1合。
 同年7月、日本軍、仏領インドと蘭領インドに侵入、《日軍の為す所は欧洲の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。》こんな無慈悲な行動を取っていると、いずれそのうち各個人の性行に影響を及ぼすだろう。《暗に強盗をよしと教るが如きものなればなり。》まことにエスタブリッシュメントの身勝手は必ず一般庶民におよぶ。毒されることなく志操を守るには批判精神が必要なことを荷風は教えてくれる。
 同年7月、税金暴騰、野菜果実・豆腐・牛肉などが市中から姿を消す。
 同年9月、日米開戦の噂しきりなり。《街頭の集会広告にこの頃は新に殉国精神なる一文字を用出したり。愛国だの御奉公だの御国のためなぞでは一向きき目なかりし故ならん歟。人民悉く殉死せば残るものは老人と女のみとなるべし。呵々。》荷風の予言どおり、戦後の日本は有能な人材の払底に苦しむことになる。
 同年10月、それでも日曜日の浅草は大にぎわいでオペラ館は大入り袋を出している。
 同年12月8日、日米開戦の号外出づ。《余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり。》

 【昭和17年(1942)、マニラ占領、シンガポール攻略、東京初空襲、ミッドウェー海戦で大敗】
 昭和17年(64歳)4月、敵国の飛行機来たり弾丸を投下、早稲田などに火災発生、新聞号外は出ず。
 同年6月、銀座の松屋、三越の黄銅の手すりがすべて取り外される。
 同年10月、浅草仲店の菓子屋はおおかた玩具屋になり、紅梅焼きの店も戸を半分閉めている。
 同年11月、野菜不足のため販売は切符制になる。《蔬菜は凍固して南洋占領地に送るなりといふ。東京市民の饑餓も遠きにあらざるべし。》当時の冷凍技術ではさぞかしまずかっただろうが、それでもそうとうな高級品だったにちがいない。

 【昭和18年(1943)、ガダルカナル島陥落、アッツ島玉砕、山本五十六戦死、イタリア無条件降伏、「撃ちてしやまん」の決戦標語ができる、学徒出陣はじまる】
 昭和18年(65歳)1月、坊間(市中)流言あり、侵ロのドイツ軍はなはだ振るわず、また北ア遠征の米軍地中海よりイ国をおびやかしつつありと。《願くばこの流言真実ならんことを。》イタリアの無条件降伏は9月のことなのに1月時点ですでに噂になっている。町の噂は侮れない。
 同年8月、土洲橋医院の院長が言うには、流産するものが年々増加している。栄養の不足に加えて労働過度なるがその原因なるべし。
 同年8月、物不足で外食店がどんどんつぶれていく。行きつけの飯屋金兵衛は、宮内省や皇族に配給する魚問屋のコネで、闇相場で仕入れている。
 同年9月、《上野動物園の猛獣はこのほど毒殺せられたり。帝都修羅の巷となるべきことを予期せしためなりといふ。夕刊紙に伊太利亜政府無条件にて英米軍に降伏せし事を載す。秘密にしてはをられぬためなるべし。》わが家の娘息子がまだ幼いころ、『かわいそうなぞう』という絵本を読んでやるたびこちらの涙が流れた。あれは名作だ。動物園の猛獣だけでなくペットの犬猫も1箇所に集めてぶち殺したという話をラジオで聞いたことがある。一面血の海だったという。
 同年9月、兵役法施行規則の改正で17〜45歳までのすべての男子を「第2国民兵」として動員できるようになった。この法律がどういう事態をもたらしたか、同年12月に記している。《今秋国民兵召集以来軍人専制政府の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は四十四、五才にて祖先伝来の家業を失ひて職工となり、その子は十六、七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪へざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終了をまつのみなり。然れども余窃(ヒソカ)に思ふに戦争終局を告ぐるに至るときは政治は今よりなほ甚しく横暴残忍となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝の政治に似たり。》
 同年10月、民家のガス風呂禁止。
 同年12月、《疎開トイフ新語流行ス。民家取払ノコトナリ。》学童疎開ではなく建物疎開のこと。徳川夢声の日記には、地方へ逃げたひとの家を空襲にそなえて取り壊す場面が出てくる。

 【昭和19年(1944)、インパール作戦惨敗、サイパン島陥落、連合艦隊全滅、特攻隊初出撃】
 昭和19年(66歳)4月、《一昨年四月敵機襲来の後市外へ転居するものを見れば卑怯と言ひ非国民などと罵りしに十八年冬頃より俄に疎開の語をつくり出し民家離散取払を迫る。朝令暮改笑ふべきなり。》
 同年7月、「改造」「中央公論」廃刊。郵便の検閲もいっそう厳しくなる。北朝鮮のことは笑えない。どこの国でも戦時になれば同じこと。

 【昭和20年(1945)、ヤルタ会談、硫黄島で敗退、東京大空襲、日ソ中立条約廃棄の通告、ドイツ降伏、原爆投下、マッカーサー来日】
 昭和20年(67歳)1月、《巷説によればマニラの陥落も遠きにはあらざるべく戦争も本年八月ごろまでには終局となるべしといふ。》なんという正確さ。巷説といってもしかるべき筋から仕入れた見通しだろう。
 同年2月、朝からサイレンが鳴って日暮れまで砲声轟々。高射砲だろうか。あたりまえのことは書かないから後の世の読者は困る。同2月、隣人が午後1時半に米国飛行機何台襲来するはずだから用心するようにと知らせに来る。《もしもの場合にもこの世に思残すことなからしめむとて》秘蔵の珈琲をわかし砂糖をおしげなく入れ秘蔵の西洋タバコをパイプに詰める。同2月神田から上野にかけて空襲。惨状を人づてに聞けば、読書もできず、《屋根の雪のすべり落る響に驚き起つこと再三なり。》東京大空襲はまだだ。空襲は日本中の都市に対しておこなわれた。直接の被害を受けなくてもひとびとはみなおびえて神経が衰弱していったことだろう。
 同年5月、新聞、ヒトラー、ムッソリーニの死を報道。
 同年8月10日、岡山に滞在中、《広嶋市焼かれたりとて岡山の人々昨今再び戦々兢々たり。》
 敗戦――。
 同年9月、熱海に滞在中、米兵が日本婦女を弄ぶと新聞が報じているが、日本軍が支那占領地でしたことの仕返しなり。《己に出でておのれにかへるものまた如何ともすべからず。》同9月、東京から熱海に最終列車で帰ってきたひとの話によれば、途中で米兵40〜50人が乗り込むため降ろされてしまった。《これかつて満洲にて常に日本人の支那人に対して為せし処。因果応報、是非もなき次第なりといふ。》荷風だけでなく一般人にも因果応報の意識があったわけだ。
 同年9月、配給の白米1日1合7〜8勺、《全国を通じて国民饑餓に陥るべき日は刻刻に迫りをれりといふ。(中略)敗戦後の世情聞くもの見るもの一ツとして悲愁の種ならぬはなし。》きのうまで日本軍部の圧迫に呻吟していた国民が、豹変して敵国に阿諛を呈している状況を見ては、《義士に非らざるも誰か眉を顰めざるものあらむ。》占領軍にへつらう姿にはたしかに眉を顰めざるをえないだろうが、まあしかしどんな時代でもわれわれはいつも強者にへつらいながら生きているのだ。
 同年9月、天皇陛下が米軍の本営に赴きマッカーサー元帥に会見したという。《我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を乞ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知らざりしなり。》徳川慶喜だってもっと名誉を尊重された。それは今の軍人官吏のなかに勝海舟のような智勇兼備の良臣がいないのが理由だろうと薩長嫌いらしい分析をしている。

 【昭和21年(1946)、天皇の人間宣言、公職追放、財閥解体、冷戦幕開け】
 昭和21年(68歳)3月、新円切換え。銀行郵便局前群衆列をなすこと2、3丁。駅前の露店は雑貨ばかりで食い物を売る店はない。汁粉を売る店が1軒だけあったので1杯食った。帰ると五叟の妻が新聞を読んで、甘味に毒薬を用いているため汁粉で死んだひとがいると話している。《余覚えず戦慄す。惜しからぬ命もいざとなれば惜しくなるも可笑し。》東京では米の配給がなくなったとの噂。この当時は五叟の家族とともに市川に住んでいる。
 同年4月、米兵暴行略奪の噂しきりなり。日本人の追いはぎまた少なからずという。配給のタバコますます粗悪となる。

 【昭和22年(1947)、日本国憲法施行、改正民法公布、戦後初のヌードショウ】
 昭和22年(69歳)2月、どこの魚屋にもマグロ、サメの切り身が並んでいる。市中の銭湯は燃料不足で休業が多い。
 同年2月、小岩の私娼窟を訪う。12〜13人が社交ダンスを習っている。娼婦たちには白米のどんぶり飯に野菜、漬け物という食事が午後3時と夕方7時に出される。《この私娼窟は女工と娼妓と女学生との生活を混淆したるが如きもの。奇観といふべし。》終戦直後の匂いがよく伝わってくる。帰途、漬物屋で栗きんとんと芝エビの佃煮を買っている。少し食糧事情が良くなってきたようだ。
 同年5月3日、《米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし。》
 同年5月、《米人向私娼の検挙この両三日頗手きびしき由。女たちは大抵東京より米客を案内し来りて市川真間(ママ)辺に散在する日本の連込宿に泊る。毎夜十時ごろより十二時頃まで一列車に少くとも四、五人ヅツは乗込みをれりといふ。》
 同年10月、三田浜の遊郭の前を通る。娼楼はみな飲食店また旅館の名を仮りて営業せり。店口に近き広間を板敷きにして舞踏場となせるところもあり。短きスカートに毛糸のスエータ着たる女7、8人おのおの制服の男と蓄音機鳴らして舞いいたれば……、東京の私立大学の学生が娼婦にダンスを教えている。《当今の世相は到底余の如き老人の想像しがたきものといふべし。》こののち世相観察に見るべき記述はない。学生が娼婦にダンスを教えるぐらいのことで驚くようなひとではもともとない。私生活では「濡れズロ草紙」を書いたり、踊り子たちと秘技映画を観たりしているくらいだ。世相に関する記述が少なくなったのは、世の中が平和になり、戦時中のように命をかけてでも書き残さなければならないという思いを起こさせるようなことがなくなったからだろう。

 (つづく)