60(2008.5 掲載) 『摘録 断腸亭日乗(下)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)
●街談録 戦時体制になって新聞各紙は権力側につごうの悪いことは書かなくなった。しかしひとの口に戸は立てられない。荷風は毎日盛り場に出てはウラ情報を集め記録している。たとえば《芝公園女中殺しの噂とりどりなり。拘留せられし嫌疑者政府の役人なりとて新聞紙は挙(コゾ)ってその姓名を掲げず。官尊民卑の風遂に改むる事能はざるものと見えたり。》(昭和15年4月)といったぐあいに。ただし単なる噂ではなく、取材源を秘匿しているだけでしかるべきひとに取材しているようだ。 昭和12年(1937)、このころから急に町のうわさ話を記録することが多くなる。新聞があてにならなくなった証拠だろう。《或人のはなしに、戦地において出征の兵卒中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語(センゴ)を発するものも尠(スクナ)からず。それらの者は秘密に銃殺し表向は急病にかかり死亡せしものとなすなり。(以下六行抹消)》戦後60年出征を知らないわれわれには、わずかにサマーワで自衛隊員が数名自殺したといううわさ話が聞こえてくるのみだが、これがデマでもなんでもないことは、ベトナムやイラクの米兵・帰還兵になにが起こったかを見れば明白だ。
昭和15年11月、《熱海温泉宿より帰り来りし人のはなしに、二二六民間側犯人の中、過日大赦出獄せしものの一人某》が熱海のスターホテルに2週間泊まったが、毎晩10人以上の芸者はあげるは高額のチップをばらまくは、その他たいへんなお大尽遊びをしたが、警察は見て見ぬふりだという。《叛乱罪にて投獄せられし凶徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非ずや。二月及五月の叛乱は今日に至りてこれを見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼らは凶徒にあらずして義士なりしなり。》最後の2行はもちろんヒニク。この一節でわたしは2.26事件の実相というものを初めて知った。それは当時のひとにとっても意外なことだったことがうかがわれる日記だ。
昭和16年4月、「噂のきき書」《出征軍人の妻また戦死軍人の未亡人に関する醜聞は一切新聞雑誌に記載することを禁ぜらるるを以てかへつてこれをよい事にして淫行をなすもの近頃は甚多くなりしといふ。》
昭和17年3月、「風聞緑」《去年十二月八日戦功ありし海軍士官及水兵四、五百名その一部は九州別府温泉一部は熱海の温泉宿に保養休暇を与へられたり。海軍省にては旅館組合の者を呼出し戸障子畳などを破るものありとも制止する事無用なり。損害は海軍省へ申出れば即金にて弁償してやるべしと申渡したり、といふ。熱海にては土地の芸者もし無理やりになぐさみものにされる者は組合にて後日祝儀を与ふるにつき処を問はず言ひなり次第になるやう内談せしといふ。以上熱海居住の人より聞きたるままを識すなり。》12月8日の戦功とは真珠湾攻撃のことだろう。真珠湾に向かう勇壮な戦闘機や爆撃される米戦艦の映像しか知らなかった。この一文ほど生身の戦争を教えてくれるものはない。戦闘のストレスを発散するためにはらんちき騒ぎと強姦が必要なのだ。
もっとも昭和18年1月の「街談録」には、2.26で議事堂に立てこもったある兵士が帰順したのち蒙古の名も知れぬ要塞に6年間も配属され、上等兵になっただけだったという噂も書き留めている。ただその書き出しが《昭和十一年二月軍人暴動の際その犠牲となりし兵卒の事につきては風説紛々その真相を知ること容易ならず。》であることをみると、なにが基準なのかわからないが、その後の待遇に大きな差別があるようだ。
昭和20年5月「近日見聞録」、川崎のある町で焼け跡に小屋を建て雨露をしのごうとしたところ巡査憲兵が来て取り払おうとしたため衝突が起こり、近隣のひとが集まって憲兵に傷を負わせた。当時焼け跡は軍隊に使用権があったにもかかわらず、憲兵でも抑えが効かなくなってきたのだ。庶民の疲弊がきわまったためだろう。
これほどドッグイアの多い本はこれまでになく、書き写すのに時間がかかり、ほとほと疲れた。本とパソコンを見比べるため、この本1冊でだいぶ目が悪くなったような気がする。しかしなんとしてもこの読書日記だけは完成させようと思った。それほど興味深い本だ。
●他人から見た荷風 本書によって『摘録 断腸亭日乗』だけでは分からない荷風のひととなりがいくつか分かった。 その1――再婚相手の芸妓八重次は1年も経たぬうちに家を出たのだが、そのときこんな置き手紙をしていった。《あなた様にはまるで私を二束三文にふみくだしどこのかぼちや娘か大根女郎でもひろつて来たやうに御飯さえ食べさせておけばよい……〈中略〉女房は下女と同じでよい「どれい」である〈中略〉つまりきらはれたがうんのつき見下されて長居は却而御邪魔》ちょっと八重次もひがみがきついんじゃないのとは思うが、しかしこんなおもしろいネタを『日乗』に書きのこさないのはおかしい。おもいあたるふしがあったのだろう。 その2――戦後、五叟の一家とともに市川の家でくらすのだが、一家の側から見るとずいぶんわがままなやりかたをしている。疥癬治療のため一番風呂にくさい薬をドボドボ入れてはいったり、畳の部屋に下駄や靴で上がり、七輪をおいて煮炊きをする。その様子を撮した写真が1枚掲載されている。七輪のまわりには調味料を入れているとおぼしきビン缶のたぐいが並んでいる。横文字のラベルが付いているところが荷風らしい。荷風にしてみれば五叟のうちはラジオがうるさくてかなわんから、自分を敬愛するフランス文学者小西茂也のうちに移るのだが、小西も傍若無人にあきれはて立ち退きを申し出ている。 ●「濡ズロ草紙」の全文公開を 巻末に永井永光が、「ぬれずろ草紙」を抜粋している。昭和23年(70歳)1月、《春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。》と記したエロ小説だ。そこに目をとめた新潮社のT氏が永光に見せろと迫った。おそらく新潮社としては「濡ズロ草紙」を世に出したかったのだろうが永光がウンと言わず、しょうがない、荷風ゆかりの写真を集めて「とんぼの本」シリーズに加え、そのなかに抜粋を掲載するという条件で折り合った……本書上梓のいきさつはおそらくそんなところだ。さまざまな花柳界を描いた荷風が最後に挑んだパンパン小説だ。400字詰め換算で70枚ほどの中編であるという。『日乗』の昭和27年から30年にかけてしきりに有楽町のフジアイスに出かけたことがしるされているが、そこは「洋パン」のたむろする店だったという。取材をかさねていたわけだ。 戦争未亡人の「わたし」が桜田門のあたりでアメリカ兵に声をかけられ、《見附の中へ入り松の木の立つてゐる土手に登り草の上に腰をおろしわたしが蹲踞(シャガ)むのを遅しとスカートの下からヅロースの間へ指先を入れました。わたしは何しろ二年ぶり男にさはられるのは其日が初てでしたから触られただけでもたまらない気がして男の胸の上に顔を押付け息をはづませ奥の方へ指が入るやうにぐつと両方の足をひろげる始末です。》読んでいて、ええぞええぞそれからどしたと興がのってくると永光の解説文に切り替わってしまう。はなはだ興ざめ。 永光は文の最後を《この公開には私なりの考えがあっての一回切りの体験だった。これよりのちは一切これを公けにするつもりはない。》としめくくっているが、そんな偉そうなことを言う資格があるのか。芸術作品は人類の共有財産ではないか。パンパンの生態がよくわかり、半壊した新橋演舞場の楽屋が米兵たちが女を引きずり込む場所になっていたなどという興味深い事実も描かれ、戦後裏面史になっているというのに。そしてなにより荷風自身が河盛好蔵にむかって「あらゆる種類の娼婦を書いてきましたがねえ、残すところはパンパンだけなんです」と語っているように最後のエネルギーをふりしぼって書いたものだというのに。「四畳半襖の下張り」ほど完成度が高くないというだけで(それとても永光の感想にすぎない)死蔵していいものだろうか。元妻八重次が永光にもらしたこんな言葉「性的には、女性が満足できる男じゃないですよ」まで公開しておいてだ。父親の性行為をヘタクソだったとバラしておきながらその作品を隠すとは。バランスを欠いているのではないか。 (コノ項トメ)
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