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 『摘録 断腸亭日乗(下)』(永井荷風著、磯田光一編、ワイド版岩波文庫)

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 (承前)

●街談録

 戦時体制になって新聞各紙は権力側につごうの悪いことは書かなくなった。しかしひとの口に戸は立てられない。荷風は毎日盛り場に出てはウラ情報を集め記録している。たとえば《芝公園女中殺しの噂とりどりなり。拘留せられし嫌疑者政府の役人なりとて新聞紙は挙(コゾ)ってその姓名を掲げず。官尊民卑の風遂に改むる事能はざるものと見えたり。》(昭和15年4月)といったぐあいに。ただし単なる噂ではなく、取材源を秘匿しているだけでしかるべきひとに取材しているようだ。

 昭和12年(1937)、このころから急に町のうわさ話を記録することが多くなる。新聞があてにならなくなった証拠だろう。《或人のはなしに、戦地において出征の兵卒中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語(センゴ)を発するものも尠(スクナ)からず。それらの者は秘密に銃殺し表向は急病にかかり死亡せしものとなすなり。(以下六行抹消)》戦後60年出征を知らないわれわれには、わずかにサマーワで自衛隊員が数名自殺したといううわさ話が聞こえてくるのみだが、これがデマでもなんでもないことは、ベトナムやイラクの米兵・帰還兵になにが起こったかを見れば明白だ。

 昭和15年11月、《熱海温泉宿より帰り来りし人のはなしに、二二六民間側犯人の中、過日大赦出獄せしものの一人某》が熱海のスターホテルに2週間泊まったが、毎晩10人以上の芸者はあげるは高額のチップをばらまくは、その他たいへんなお大尽遊びをしたが、警察は見て見ぬふりだという。《叛乱罪にて投獄せられし凶徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非ずや。二月及五月の叛乱は今日に至りてこれを見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼らは凶徒にあらずして義士なりしなり。》最後の2行はもちろんヒニク。この一節でわたしは2.26事件の実相というものを初めて知った。それは当時のひとにとっても意外なことだったことがうかがわれる日記だ。
 どうも叛乱軍のその後がくさいと勘づいた荷風は、その後もアンテナを張った。そして昭和17年ついに証拠をつかむのだが、それは17年のところで述べよう。

 昭和16年4月、「噂のきき書」《出征軍人の妻また戦死軍人の未亡人に関する醜聞は一切新聞雑誌に記載することを禁ぜらるるを以てかへつてこれをよい事にして淫行をなすもの近頃は甚多くなりしといふ。》
 同年5月、頃日(ケイジツ)耳にしたる市中の風聞左の如し。相撲取りの家にはたくさん米があるとか、築地あたりの待合い料理店は軍人のお客で繁盛ひとかたならずなどとしるしたあと、尾上菊五郎はせがれ菊之助の徴兵検査が不合格になるようひいき筋に頼み、そのかいあって入営の翌日除隊した。《菊五郎はもう大丈夫と見て取るや否や、倅の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出来ぬと言ひて誠しやかに声を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず忠誠なる男なりと、これまた嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしといふ。》
 同年6月の「町の噂」は数ある噂のなかで最もすさまじい。完成度も高くまるで1篇の小説を読むようだ。ある米屋の男が召集されて漢口にありしとき数人の兵士とともに医師の家に乱入、美人姉妹を親の前で輪姦したのち親子をしばって井戸に投げ込んだ。兵士のひとりが帰還して母親と妻を預けておいた埼玉県某市の家にいたったが、なんとなく出征前と様子がちがう。3ヶ月ほどたってようやく2人がある夜強盗に強姦されたことを聞き出す。《かの兵士は漢口にて支那の良民を凌辱せし後井戸に投込みしその場の事を回想せしにや、ほどなく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところなく語りつづくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送らるるに至りしといふ。市川の病院には目下三、四万人の狂人収容せられゐる由。》いくら箝口令を敷いても、帰還兵の口から戦地の様子は漏れてしまう。「町の噂」とはいうもののそれは万一のことを考えてのことで、荷風は帰還兵などの確度の高い情報を採録している。
 『日本帝国陸軍と精神障害兵士』(清水寛、不二出版)によれば、この精神病院は国府台(コウノダイ)陸軍病院のことで、総計1万人を超える精神障害患者が収容され、国立精神・神経センター国府台病院と改名したいまなお2005年時点で元精神障害兵士が84人入院中だとか。イラクから帰還した米兵の2割がPTSDで、わが陸上自衛隊でも帰国後3人が自殺しているそうだ。現地で非道なことをしたわけでもないだろうし、あんなに政府が「非戦闘地域だ」と言い張ったサマーワにしてこれなのだ。
 同年8月、「或人のはなし」に《麻布青山辺のアパートには軍人の妾または軍人相手の売春婦多く間借りをなしをれり。警察署にても遠慮して手入をなさず知らぬ顔をしてゐる由なり。》今でもあの辺りはそういう地域だと思われる。土地柄というものは不思議に変わらない。
 同年10月、「慰問袋のはなし」去年あたりから各家に慰問袋の献上が義務づけられるようになった。女学校では住所氏名入りの慰問状を書かせているが、良家の父兄は娘の将来を案じているものが少なくない。親の知らぬ間に兵士と手紙や写真の交換をする娘がいるし、除隊後住所を訪ね銀座で会合する兵士もいる。また待合いの女中銘酒屋の女カフェーの女給らは帰還後の兵士を客にせむとて、それとなく慰問状を利用して誘惑する者もありといふ。ぬけめがない。

 昭和17年3月、「風聞緑」《去年十二月八日戦功ありし海軍士官及水兵四、五百名その一部は九州別府温泉一部は熱海の温泉宿に保養休暇を与へられたり。海軍省にては旅館組合の者を呼出し戸障子畳などを破るものありとも制止する事無用なり。損害は海軍省へ申出れば即金にて弁償してやるべしと申渡したり、といふ。熱海にては土地の芸者もし無理やりになぐさみものにされる者は組合にて後日祝儀を与ふるにつき処を問はず言ひなり次第になるやう内談せしといふ。以上熱海居住の人より聞きたるままを識すなり。》12月8日の戦功とは真珠湾攻撃のことだろう。真珠湾に向かう勇壮な戦闘機や爆撃される米戦艦の映像しか知らなかった。この一文ほど生身の戦争を教えてくれるものはない。戦闘のストレスを発散するためにはらんちき騒ぎと強姦が必要なのだ。
 さらに同年4月の「巷の噂」、2.26事件の反乱軍兵士のその後の動静を探っていた荷風は、ついに意外な事実をつかむ。《昭和十一年二月廿六日朝麻布聯隊叛乱軍の士官に引率せられ政府の重臣を殺したる兵卒はその後戦地に送られ大半は戦死せしやの噂ありしが事実は然らず。戦地にても優遇せられ今は皆家にありといふ。余の知りたる人はもと慶應義塾の卒業生にて叛軍士官に従ひたる者。過日偶然銀座街上にて邂逅し重臣虐殺の顛末及び出征中のはなしを聞きたり。南京攻撃の軍に従ひ二年半彼地にありしといふ。(中略)この人は高橋是清の機関銃に打たれて斃るるさまを目のあたりに見、また中華人の数知れず殺さるるを目撃しながら今日に及びては戦争の何たるかについては一向に考ふるところなきが如し。戦争の話も競馬のはなしも更に差別をなさぬらしく見ゆ。》3月、4月とたてつづけに真相をつかんだのは偶然ではないだろう。しかるべきニュースソースがいたのではないか。

 もっとも昭和18年1月の「街談録」には、2.26で議事堂に立てこもったある兵士が帰順したのち蒙古の名も知れぬ要塞に6年間も配属され、上等兵になっただけだったという噂も書き留めている。ただその書き出しが《昭和十一年二月軍人暴動の際その犠牲となりし兵卒の事につきては風説紛々その真相を知ること容易ならず。》であることをみると、なにが基準なのかわからないが、その後の待遇に大きな差別があるようだ。
 同年2月の「流言録」、山梨県では知事以下の役人どもが多年精米を食って県民には馬に与える麦を配給していたことが露見したのに、南洋や満州に左遷されただけで罰せられることはなかった。同2月「噂のききがき」、馬込あたりでは良家の妻女に、落下傘で降りてきた米兵に対する竹槍の訓練をおこなった。《良家の妻女に槍でつく稽古をさせるとは滑稽至極。何やら猥褻なる小咄をきくやうなり。》うまいねどうも悪口が。つづいて3月「流言録」、3月1日は芸者買いに20割の税がかかる最初の日だったというのに、築地の河庄という待合いでは軍幹部の宴会あり。《東条大将は軍服のままにて公然自働車を寄せたりとこれを目撃したるものの話をここにしるす。》幹部どもは攀柳折花(ハンリュウセッカ)の戯れだという。ときどきめずらしい言葉を教えてくれるのも荷風を読む楽しみのひとつ。広辞苑を引いても出てこなかったが、柳によじのぼったり花を折ったりという狼藉のことだろう。
 同年10月「街談録」、《この度突然実施せられし徴用令》で犠牲になったひとびとは地獄のような悲惨な目に遭っている。40近くなった大卒の銀行員が突然徴用令で軍需工場の職工になりさがり、苦役に堪えきれず病死したり、そうでなくても給料は4分の1ぐらいになってしまった。《この度の戦争は奴隷制度を復活せしむるに至りしなり。》国民徴用令は昭和14年に公布されているが、18年の徴用が最も多かった。徴兵が「赤紙召集」と呼ばれたのに対し、徴用は「白紙召集」と呼ばれた。徴兵の悲劇はいまでもテレビドラマなどで取り上げられるが徴用もずいぶん国民を疲弊させたことがわかる。

 昭和20年5月「近日見聞録」、川崎のある町で焼け跡に小屋を建て雨露をしのごうとしたところ巡査憲兵が来て取り払おうとしたため衝突が起こり、近隣のひとが集まって憲兵に傷を負わせた。当時焼け跡は軍隊に使用権があったにもかかわらず、憲兵でも抑えが効かなくなってきたのだ。庶民の疲弊がきわまったためだろう。
 同年9月(終戦後だ)、熱海に住む荷風のところへ東京の知人から送られてきた手紙を書き写している。東京は御維新当時のように錦切(キンギレ、官軍兵士)がわがもの顔に横行しているが、ただ舶来の錦切だけあって芋や夏みかんの錦切より上品に見えそうろう。薩長よりはましだというから江戸っ子の薩長嫌いは根が深い。
 同年10月「街談録」、米兵チョコレートを30円から70円ぐらいで売り、熱海で蝦蟇屋と呼ばれる素人屋へいきちょんの間100円で女を買う。吉原では黒人兵を歓迎し毎夜繁盛する由なり。
 同年12月「亡国見聞録」、南洋諸島から帰還した兵隊のなかには、すでに3、4年前に戦死したものとみなされ遺骨まで届けられているものが少なくない。《熱海天神町に住みし一商人あり。四年前戦死し靖国神社に合葬せられしかば、親族合議の上その妻を戦死者の実弟に嫁せしめ遺産の相続をもなしたり。弟は兄嫂と兄の財産をゆづり受けしなり。子供二人出来幸福に暮らしゐたりし処、このほど突然死んだと思つた兄かへり来りしかば、一家兄弟大騒ぎとなりごたごたの最中なりといふ。》このての話は欧米にも多く、なんとかというジャンル名が付いているのだが忘れてしまった。以上。

 これほどドッグイアの多い本はこれまでになく、書き写すのに時間がかかり、ほとほと疲れた。本とパソコンを見比べるため、この本1冊でだいぶ目が悪くなったような気がする。しかしなんとしてもこの読書日記だけは完成させようと思った。それほど興味深い本だ。
 「世相観察」の【歴史的事実】は、『昭和史』(半藤一利、平凡社)を参考にした。『昭和史』もそうだったが、戦後はあまりおもしろくない。戦争はドラマを産むからだろう。

 

 『永井荷風ひとり暮らしの贅沢』(永井永光・水野恵美子・坂本真典、新潮社とんぼの本)

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 永井永光は、荷風の従兄弟大島一雄(芸名杵屋五叟)の次男。1944年荷風の養子になり、いまも荷風の八幡の家と遺品を守りつづけているとのこと。永光の名が筆頭にあるが、「序」に《遺族・永井永光氏に許しを請い、生前、愛用していた数々の品をカメラに収めていった。》とあるから本文の大半を書いたのは水野だろう。坂本は写真家。
 本書の最大の手柄は、市川から上野あたりまでの地図、浅草・銀座・向島の位置関係と浅草から千葉へ向かう電車の路線がしめされていることだろう。この地図をそばにおいて『日乗』を読めばさらに理解が深まる。

●他人から見た荷風

 本書によって『摘録 断腸亭日乗』だけでは分からない荷風のひととなりがいくつか分かった。

 その1――再婚相手の芸妓八重次は1年も経たぬうちに家を出たのだが、そのときこんな置き手紙をしていった。《あなた様にはまるで私を二束三文にふみくだしどこのかぼちや娘か大根女郎でもひろつて来たやうに御飯さえ食べさせておけばよい……〈中略〉女房は下女と同じでよい「どれい」である〈中略〉つまりきらはれたがうんのつき見下されて長居は却而御邪魔》ちょっと八重次もひがみがきついんじゃないのとは思うが、しかしこんなおもしろいネタを『日乗』に書きのこさないのはおかしい。おもいあたるふしがあったのだろう。

 その2――戦後、五叟の一家とともに市川の家でくらすのだが、一家の側から見るとずいぶんわがままなやりかたをしている。疥癬治療のため一番風呂にくさい薬をドボドボ入れてはいったり、畳の部屋に下駄や靴で上がり、七輪をおいて煮炊きをする。その様子を撮した写真が1枚掲載されている。七輪のまわりには調味料を入れているとおぼしきビン缶のたぐいが並んでいる。横文字のラベルが付いているところが荷風らしい。荷風にしてみれば五叟のうちはラジオがうるさくてかなわんから、自分を敬愛するフランス文学者小西茂也のうちに移るのだが、小西も傍若無人にあきれはて立ち退きを申し出ている。

●「濡ズロ草紙」の全文公開を

 巻末に永井永光が、「ぬれずろ草紙」を抜粋している。昭和23年(70歳)1月、《春本『濡ズロ草紙』を草す。また老後の一興なり。》と記したエロ小説だ。そこに目をとめた新潮社のT氏が永光に見せろと迫った。おそらく新潮社としては「濡ズロ草紙」を世に出したかったのだろうが永光がウンと言わず、しょうがない、荷風ゆかりの写真を集めて「とんぼの本」シリーズに加え、そのなかに抜粋を掲載するという条件で折り合った……本書上梓のいきさつはおそらくそんなところだ。さまざまな花柳界を描いた荷風が最後に挑んだパンパン小説だ。400字詰め換算で70枚ほどの中編であるという。『日乗』の昭和27年から30年にかけてしきりに有楽町のフジアイスに出かけたことがしるされているが、そこは「洋パン」のたむろする店だったという。取材をかさねていたわけだ。

 戦争未亡人の「わたし」が桜田門のあたりでアメリカ兵に声をかけられ、《見附の中へ入り松の木の立つてゐる土手に登り草の上に腰をおろしわたしが蹲踞(シャガ)むのを遅しとスカートの下からヅロースの間へ指先を入れました。わたしは何しろ二年ぶり男にさはられるのは其日が初てでしたから触られただけでもたまらない気がして男の胸の上に顔を押付け息をはづませ奥の方へ指が入るやうにぐつと両方の足をひろげる始末です。》読んでいて、ええぞええぞそれからどしたと興がのってくると永光の解説文に切り替わってしまう。はなはだ興ざめ。

 永光は文の最後を《この公開には私なりの考えがあっての一回切りの体験だった。これよりのちは一切これを公けにするつもりはない。》としめくくっているが、そんな偉そうなことを言う資格があるのか。芸術作品は人類の共有財産ではないか。パンパンの生態がよくわかり、半壊した新橋演舞場の楽屋が米兵たちが女を引きずり込む場所になっていたなどという興味深い事実も描かれ、戦後裏面史になっているというのに。そしてなにより荷風自身が河盛好蔵にむかって「あらゆる種類の娼婦を書いてきましたがねえ、残すところはパンパンだけなんです」と語っているように最後のエネルギーをふりしぼって書いたものだというのに。「四畳半襖の下張り」ほど完成度が高くないというだけで(それとても永光の感想にすぎない)死蔵していいものだろうか。元妻八重次が永光にもらしたこんな言葉「性的には、女性が満足できる男じゃないですよ」まで公開しておいてだ。父親の性行為をヘタクソだったとバラしておきながらその作品を隠すとは。バランスを欠いているのではないか。

(コノ項トメ)