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 『環境問題のウソ』(池田清彦、ちくまプリマー新書)

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 地球温暖化問題については二酸化炭素など削減しても効果はないといい、ダイオキシン問題についてはダイオキシン法を廃棄しようと訴え、外来種問題については駆除は税金の無駄遣いと切り捨て、自然保護問題については倫理学者をあざ笑うという過激な書物。先入観や既成概念をぶっ壊されるメウロコ本。

●京都議定書なんかバカらしい

 東京の気温はここ100年で3℃上昇しているが、同じ東京でも三宅島などでは変化がない。地球温暖化、温暖化と騒ぐけれども、それは観測地点が都市部にかたよっているからで、むしろ再び下降に転じるだろうというのが池田の見通し。1960年代から70年ごろまで気温は前後にくらべてかなり低く、科学者たちは「地球寒冷化」を警告した。根本順吉という気象学者は(いたなあそういうひと)1974年には『冷えていく地球』という本を出し、1989年には『熱くなる地球』という本を出している。《昔、まだ真面目な(バカな)学生だった時に、地球寒冷化論にさんざんだまされた私は、今日び流行っている地球温暖化論も、とてもにわかに信じるわけにはいかない。》グローバル・ウォーミングではなく、ローカル・ウォーミングなのだ。気象衛星ノアで地球全体の温度を測るとそれほど上昇していない。

 過去にさかのぼって地球の温度をたどってみると――。縄文時代の三内丸山では栗の栽培がおこなわれていた。これは青森がいまの東京と同じぐらい暖かかった証拠。

 10世紀から12世紀にはかなり暖かく、《たとえば、グリーンランドは一〇世紀にノルマン人が発見したが、当時は草や木が生えて緑におおわれており、そこからグリーンランドの名前が付いたという。》逆に16世紀から18世紀は小氷期と呼ばれるほど寒かったので、グリーンランドにあった農場は16世紀には絶滅した。

 高尾山には寒地にしか生えないブナの大木がある。元禄ブナと呼ばれるこのブナは小氷期の17世紀に生えたもので、元禄時代の江戸はいまの青森なみに寒かったということになる(赤穂浪士の討入りの夜は大雪として描かれる。翌朝吉良の首を槍の上にかかげた赤穂浪士たちは、雪を踏みしめながら江戸市中を行進する。12月の東京はまだそれほど寒くないから、温暖化が進んだのかと思っていたが、あのころは特に寒かったのだ)。

 20世紀にはいってからは温暖化しているが、二酸化炭素の排出量の増加といった人為的なものによるかどうかはまったく不明。1940年には10億トンだった年間炭素排出量は、70年には40億トンに増えている。にもかかわらずその時期には気温が0.3度下がっている。

 それでは温度変化の原因は何なのか。《地球の温度は、地球に入ってくるエネルギーと、地球から出ていくエネルギーのバランスで決まる。》アメリカのライドは1987年に太陽の黒点数と北半球の平均気温が相関すると発表し、日本の気象庁も「地球全域の平均海面水温の長期変動は、太陽黒点数の長期変化とよく対応している」と1989年に発表している。要するに黒点がふえれば水温は上がり、へれば下がるのだ。なのに、なぜか大新聞やテレビはこれを報じず、二酸化炭素元凶説ばかりを流している。

 《COの削減こそ正義という話は、それで金儲けをしたい人たちの陰謀じゃないのか、と疑り深い私は思ってしまう。》わたしも「排出権ビジネス」の話を初めて聞いた時は、月面の土地を取引するようないかがわしさを感じたものだ。

 かりに温暖化が人為的要因によるものだとしても、京都議定書の内容を実現したところで、温暖化を数年遅らせるだけの効果しかない。《京都議定書なんかに費やす資金があったなら、その資金を直接、途上国の様々なインフラ整備に使った方がずっと効率よく温暖化対策を実現できる。》という。池田の本音はこうだ。《あと十数年か数十年かしたら下降するに違いないと思う。そうなったら政府もマスコミも地球温暖化論などはすっかり忘れて、氷河期が来る、といって騒ぐんだろうな。》根本順吉に対する怨みは深い。

 いや、ほっとする。地球温暖化論は、キリスト教の終末論に似ている。仏教にも末法思想というものがある。ともに民衆を支配するための方便だ。「不都合な真実」で民衆をふるえあがらせたゴア元副大統領は、自宅の莫大な電気使用量を暴露されたとき、家が大きいんだからしょうがないと開き直った。タブーは下層階級を抑圧するためにあるという歴史の法則を思い出す。

●ダイオキシン恐るるに足らず

 ダイオキシンと聞けばふるえあがったものだ。わたしなどは大汚鬼神という文字を連想した。低温でゴミを燃やすとダイオキシンが発生するというので、日本中から家庭用焼却炉が消えた。学校からもなくなった。テレビ朝日の「ニュースステーション」で久米宏が「所沢のホウレンソウはダイオキシンが多い」といったものだから大騒ぎになったことは記憶にあたらしい。所沢のゴミ焼却場の煙突からモクモクと煙が吐き出される映像が流され、所沢の農産物は売れなくなった。結局ガセネタだったことがわかってテレ朝は1000万円の和解金を支払ったそうだ。のちの久米宏の番組降板もこれが引き金になったような気がする。ところがこの報道をきっかけとして5ヶ月後にはダイオキシン法が成立してしまった。「ニュースステーション」に数字を提供したのは誰なのだろう。大がかりな情報操作の臭いがする。

 ダイオキシンといっても222種類あり、その中でもっとも毒性の強いTCDDですら、ほかの毒物(たとえば酒)よりはるかに弱く、その毒性はたとえようがないほど低いのだそうだ。べつに塩化ビニールを燃やさなくても山火事が起きるだけでダイオキシンは発生する。大昔からダイオキシンは存在するのだ。ゴミ焼却施設周辺のダイオキシン濃度は、それ以外の対照地区とほとんど変わらない。超高級なハイテク焼却炉を使っても、われわれが吸うダイオキシンは1%も減らない。要するにダイオキシンと焼却炉は無関係なのだ。

 《そういう主張をすると、ダイオキシンは毒なのだから少なければ少ないほどよいに決まっているという反論をする人が必ずいる。私だってもちろんその通りだと思う。問題はそれにかかるコストがどのくらいかということだ。たとえばプールに入っている細菌の数は少ない方がよいに決まっているが、少々の細菌を飲んでも病気になる人はいない。これならばまず絶対に安全な基準というのがあるとして、その基準をクリアーしていれば、細菌の数をその基準の一〇分の1や一〇〇分の一にしてもしなくとも安全という点では変わりはない。ましてやそのために莫大なコストがかかるのであれば、無理にコストをかけるのは愚かであろう。》ハイテク焼却炉導入に関してはあとでイヤな話が出てくる。

 家庭用焼却炉を廃止したものだからゴミがふえてしょうがないとのこと。そうだろうなあ。莫大な量だろう。話は少しそれるが、この世から消し去りたい書類というものがある。火にくべた紙が燃えて灰になりユラユラゆれるのを見てけりをつけた経験はだれにでもあるはずだ。燃やしてしまえば安心するのに、いまや焚き火もできない。家庭にシュレッダーを置けば子どもが手をつっこんで指を落とすし、紙ゴミがかさんでしかたがない。稲刈りの終わった秋の野面に煙がたなびくのは美しいものだが、いまはそれもできない。異常だ。

●国際結婚は遺伝子汚染かよ

 ブラックバスやブルーギルなどの外来種のせいで琵琶湖の在来種であるニゴロブナが獲れなくなり名物のフナ寿司ができなくて弱っているというニュースはたびたび耳にしたものだが、そして自分も「けしからん、生態系の敵ブラックバスをセンメツせよ」と憤ったものだが、どうもその話はウソらしい。まずニゴロブナがへったのは、「琵琶湖総合開発」で人間が生息環境を破壊したからであって外来種のせいではない。ブラックバスによって滅ぼされた在来種など1種もないそうだ。

 《しかし、なんと言っても、外来種悪玉論の最大の害悪は、生物を善玉(在来種)と悪玉(外来種)の二つに分け、悪玉は殺さなければならないという差別思想をまき散らすことだ。自然のなかでともに懸命に生きている生物を、生物多様性を守れというあやしげな理念のために、お前は生きていてよいが、お前は死ねという。》

 遺伝子汚染という言葉は、ナチによるユダヤ人狩りを連想させる。和歌山県がタイワンザルおよびタイワンザルとニホンザルとの交雑種も殺していることについて、「タイワンザルとニホンザルの交雑がとことん進行すれば、確実に日本固有の歴史を背負ったニホンザルという種は消失するわけだから、種の数はひとつ減ることになる」といういかにも一般人を納得させてしまいそうな意見には、《この人の言っていることは「アメリカ人と日本人の交雑がとことん進行すれば、確実に日本固有の歴史を背負った日本人という種は消失する」と言っているのと論理のレベルでは同じである。》《日本人とアメリカ人のカップルに「君たちのやろうとしていることは遺伝子汚染だ」と言ったら、さすがに怒ると思うな。現在の日本人はどう考えても、縄文人と弥生人がとことん混血した遺伝子汚染の産物である。》と反駁し、《それにそもそもこの人の使っている種という定義は、まっとうな生物学者から見ればデタラメで、交雑がとことん進行するようなものは元来同じ種なのだ。》と痛いところを衝く。正しくは「同種内の地域個体群の混血」だという(人類学会はだいぶ前に「人種」という概念を捨てた。「人類」がすでに種なのだ)。

 近親交配をくりかえすより、よその個体と混血して遺伝的多様性を増大させるほうが、生き残る確立は増大するに決まっている。トキも絶滅する前に中国のトキと交配させればよかったのだ。絶滅したあとで中国から同じ種の別亜種を導入している。《由緒正しい日本の純系の生物でなければダメだ、雑種になるくらいなら絶滅した方がマシだ、というのは、あまりにも自分勝手な考えではないか。》

 外来種を排除したら、日本の生物相は貧しくなる。《我々の生活はほとんど外来種で成り立っているのだ。たとえば、主要な穀物や野菜はほとんど外来種である。》イネ・ダイズ・ソバ・ダイコン等々、すべて外来種。外来種でないものを挙げるのはむつかしい。

 在来種を壊滅させる外来種は「侵入種」と呼べるかもしれないが、《残念なことだけれども、長い歴史の中ではそういうこともあるだろうし、地球にとっても、人類にとっても大した問題ではないと思うしかない。》

 《自然は複雑系である。新しい生物を導入したら何が起こるかわからない。だからなるべく入れない方がよい。私もそう思う。逆に外来種が生態系の中で定着していたとして、これを駆除すると、やっぱり何が起こるかわからないわけだから、この外来種が病原菌をまきちらしているといった特別な事情でもない限り、駆除しない方が安全なのだ。これは原理的な話だ。》この一節を読んで歌舞伎町のヤクザを連想した。暴力団新法で歌舞伎町のヤクザを排除したら、法律の適用されない中国マフィアがはびこってしまったという。これが仁義もヘッタクレもない。そのせいかどうか従来の日本では考えられないような荒っぽい犯罪がふえてきた。……これも外来種に対する偏見か。

●もしライオンが100億頭いたら

 この本を読みたいと思ったきっかけは、『三人寄れば虫の知恵』(養老孟司・奥本大三郎・池田清彦、新潮文庫)のなかで池田が「地史的にいうと七回ぐらい大絶滅があったわけで、最大の二畳紀末の大絶滅では八〇パーセントから九〇パーセント以上の種が絶滅してるわけですから。人間が環境を変えて自分を含めて生物種を絶滅させているということは、次の新しい生物の進化のための舞台を用意してるわけでしょう?」と言っているのを読んで興味を引かれたからだ。本書でも同趣旨の発言をしている。《地球にやさしくしなくとも、自然を大切にしなくとも、地球や自然は別に何も困らない。》なぜなら《人間が生態系を人間が生存できないほどに改変してしまえば、人類は絶滅してしまい、後に残った生物たちがそれなりの生態系を構成し、進化していくことになる。地球の中に人間抜きの新しい自然ができるわけで、別に地球が壊れるわけではない。》

 自然を保護せよ、動物を保護せよと言われても、われわれは毎日命あるブタやウシを殺して食べ、命あるホウレンソウを焼き殺したりしているではないかと、わたしはいつもそこがひっかかる。自然物にも生存権を与えよと言う時代の旗手はどう考えているのだろう。「人間は遊びや贅沢をするために動物を殺害している。たんなる好奇心や、趣味のために生命のある自然物を破壊して利用することは自然に対する犯罪である。人間が生存に必要である以上に自然破壊をする権利は正当化できない」と哲学者の加藤尚武が『環境倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)で述べているのに対し、池田は「生存と遊びの区別などつかない」と反論する。ウシなど食ったことのない最貧民から見れば、われわれは趣味か贅沢でウシを食っているのだ。さらに《一万数千年前の狩猟採集生活をしていた先祖に比べれば、ほとんどすべての現代人は贅沢三昧の暮らしをしているに決まっている。そしてその贅沢三昧の暮らしを生存のための必要最小限の条件だと考えているに違いない。》両者の意見を比べると加藤はたしかにヌルイ。

 「ウシやブタは人間が食べるために飼育している家畜だから、殺して食べても自然保護に反しないが、クジラは野生動物だから、殺すのは自然保護に反する」という意見も、アホなことを言うなと切り捨てる。われわれは牧場を作るために自然の生態系を改変し、たくさんの野生動物を回復不可能なほど殺戮している。これに対しクジラを捕るのは、クジラの生息環境を破壊するわけではない。《回復可能な範囲内で捕って食べるのは別に何の問題もない。》わたしはここに至って食うことの後ろめたさから少し解放される。

 ある生物種を絶滅させてならないのは、《この生物を利用できるかもしれない現在および未来の人の権利を侵害することになる》からなのだが、それも程度問題で、目立たない昆虫種を絶滅から救うために1兆円必要だとしたら、大方の賛同を得ることはできない。《すべての行為にはメリットとデメリットがある。メリットよりデメリットの方が大きい時は、目をつぶらざるを得ない時もあるのだ。自然保護とて例外ではない。》

 アボリジニやアメリカインディアンといえば、自然と共に生きる平和的なひとびとだと思われているが、ともに1万数千年前、オーストラリアに侵入したアボリジニはそこに住んでいた奇妙な動物たちを絶滅に追いやり、南北アメリカに侵入したインディアンたちはそこに住んでいた多くの野生動物を滅ぼした。《今から考えれば、ずいぶんもったいないことをしたと思う》と生物学者の池田は悔しがるが、《当時の人々はそんなことを考える余裕は全くなかったであろう。》と付け加える。野生動物の保護などと言いだしたのは、人類が地上の覇者になったからであって、もしライオンが100億頭もいて人間と同じぐらい賢くて毎日何十万もの人間を餌にしていたら、人類の最重要課題は地球温暖化でも自然保護でもなく、ただひたすらライオンの絶滅策になっていただろうことはまちがいないという。そういわれてみればたしかにエイズウイルスや破傷風菌にも生きる権利があるなどと主張するひとはいない。

 農耕の発明は自然生態系の破壊をおそろしいほど加速した。しかしそれによって人類は飢えの恐怖から解放された。野生動物の絶滅は当時のひとびとの福祉に貢献し、自然生態系の破壊もまた人類の福祉に貢献したという一面を持っているのだ、と池田は指摘する。《もし、アマゾンの原生林が人類にとって保存すべき貴重な財産というのであれば、そこに住む人々が林を切り拓いて牧場や畑にするよりも、原生林のまま保存しておく方が経済的利益が上がるような方途を考えるより仕方がない。》池田は常に経済的なメリット、デメリットを念頭においてものを考えている。里山の自然を保護するときも、莫大な税金を注ぎ込むのだけはやめたほうがよく、《里山の保全も含め、自然保護を市場に組み込むことを考えようではないか。》と提案する。いい提案だ。ひとは金が儲からなくても行動するが、儲かればもっと行動する。

●学者のオマンマ、省庁の利権

 池田はいつも経済のことを考えている。政策決定のさいは必ずメリットとデメリットを考慮に入れなければならないと強調するのは上に見たとおりだ。さらに、論敵の背景にオマンマのつごうや利権があるのではないかと疑う。

 たとえば温暖化に関しては――IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)は今後100年間に地球の温度は1.4〜5.8℃上昇し、海面は9〜88p上昇すると予測している。ずいぶん幅があるのは、コンピューターにどういう数理モデルを入れるかによってきまるからだ。《人為的温暖化説を唱える学者の多くは、その研究で食っているわけだから、どちらかというと危機的な予測データが出た方がありがたい。COを少々排出しても問題ないということになれば、オマンマの食い上げになってしまうかもしれない。というわけで、危機的なデータが出易い数理モデルを好むんじゃなかろうかと私は秘かに疑っている。》

 それはちょっとうがちすぎじゃないかという気がしないでもないが、ダイオキシン法制定の過程を聞くとあながち邪推とも思えない。制定の前に「ガイドライン」がつくられたのだが、それを書いた執筆者18名のうち13名が焼却炉メーカー、1名が分析機器メーカーの者だったという(政治家や官僚が審議会のメンバーを選ぶときは、はじめから賛成派で固めておいて中にアリバイ用の反対派を少し入れるというのが常套手段だ)。ハイテク焼却炉にかかった費用は94年から98年だけで1兆346億円、これが大手5社だけの数字だ(98年に公正取引委員会が談合容疑で大手5社に排除勧告を出している)。ハイテク焼却炉を発注するのは役所だから、当然のことながらこれらの企業は役人の天下り先だ。