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 『漢字伝来』(大島正二、岩波新書)

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 「犬」という中国語を「イヌ」と読むのは、フランス語の「chien」を「イヌ」と読むのと同じことだ。「シアン」と発音すべきところをいきなり和語で発音してしまうのだから、そうとう強引なことと言っていい。漢字の伝来当時、この漢字は日本の何に当たるのかと、一字一字すべてに関して同定作業を進めていったにちがいない。文字を持たなかったわれらの祖先がどのような苦労を重ねて日本語の表記法を確立していったのか、そこんところを知りたい、大いに知りたいと思いつづけてきたから、新聞広告で本書を目にしたときはすぐに飛び付いた。

●鼻っ柱の強かった古代日本人

 漢字は西暦1世紀ごろ日本列島に伝えられたという。有名な「漢委奴国王(カンノワノナノコクオウ)」という金印、あるいは弥生遺跡から出土した中国製銅銭の製作年代が根拠だ。ずいぶん古くからの付き合いなのだが、最初は《ただの権威の象徴、あるいは呪力をもつもの、装飾的な模様》だと思われていたと大島はいう。しかし、まったくわけのわからん意味のないものととらえられていたとは思えない。山中を行くとき木の枝の折りかたで後続の者におのれの行方をしらせたり、あるいは縄の結びかたで眼前にいない者と情報のやりとりをすることなどは無文字社会で広くおこなわれていたはずだ。無意味なデザインがはびこる現代とちがい、無文字社会には無意味な模様は少なかったと思う。「この模様には何か意味がある」と、それに接するほどの上流階級にはそうひらめいた者もいたにちがいない。

 日本史に文書が登場するのはずっとのちのことだ。応神天皇(5世紀)のころ、百済の和邇(王仁)が『論語』と『千字文』を伝えた。そのいきさつを『古事記』(8世紀)はつぎのように伝える。百済の国王は、応神天皇に太刀と大鏡とを献上した。また、天皇は百済国に、「もし賢人がいるならば献上せよ」と仰せになった。そこで百済は和邇吉師(ワニキシ)に『論語』と『千字文』を持たせて献上したのだと。

 というのだが、『古事記』もずいぶん無理をしている。日本に賢人がいないから派遣してほしいのに、「献上」せよとは彼我の力関係を無視した表現だ。文部官僚の太安万侶としては、天皇に提出する自国史だからそういわざるをえないのかな……と思ったが、つぎのエピソードを読むとむかしの日本人はえらく鼻っ柱が強かったことがわかる。和邇に漢文を教わったウジノワキイラツコは、高麗王(コマオウ)が「朝貢」して「上表」した文章の中に「高麗王が教える」というという一節を発見し、「無礼である」とその上表文を破り捨ててしまったというのだ。聖徳太子が遣隋使小野妹子(7世紀)に持たせた例の手紙はずいぶんえらそうなものとして有名だが、それは聖徳太子の独創ではなくこういう下地があったのだ。

 5〜6世紀には漢字の使える日本人も現れるのだが、まだまだ史(フビト)と呼ばれる渡来人が漢字文化をになっていた。《一字一字が語(word)という特徴をそなえた漢字という文字は、ごく限られた数の文字でことたりるアルファベットのような表音文字とちがって、その体系はまことに複雑で習得は容易ではない。伝来しても長いあいだにわたって漢字は、〈音オン〉も〈意味〉も日本語とはまったく結びつかない、遠いかなたの外国語のようなものであり、閉ざされた世界のなかにある文字であった。》無文字社会に生きるひとびとにとっては「文字」という概念を理解するだけでもそうとう困難なことであったろう。暗闇の中から一つ一つ拾い上げて吟味するのに500年かかったわけだ。

●日本流「訓」の発明

 そしてついに6世紀ごろに万葉仮名が発明される。漢字の音に目を付け、ひとつの漢字にひとつの日本語音を表現させたのだ。意味は無視。a:阿、i:伊、u:宇、e:延、o:淤、ka:加、ki:伎、ku:久、ke:気、ko:許、というぐあいだ(ひとつの音には数種類の漢字が宛てられた)。たとえばyamatoは邪馬台と書く。これを「音仮名」というのだが、万葉仮名にはもうひとつ、「訓仮名」というものがある。「ナツカシ」は音仮名なら「那・都・加・斯」だが、訓仮名では「名・津・蚊・為」と表記する。名(メイ)は日本語の「ナ」にあたり、蚊(ブン)は日本語の「カ」にあたるという翻訳作業がすみ知識が広まったからこそ2種類の表記法が生まれたのだろう。

 もともと中国語の「訓」は「意味」という意味だ。《ところが日本で〈訓〉といえば、一つ一つの漢字がもっている中国語の意味を、日本語に翻訳した単語の社会的に固定した"読み"をさす。「山」に対する「やま」、「池」に対する「いけ」などである。(中略)中国語という外国語を書きあらわす漢字に〈訓〉があたえられたことは、まことに大きな事件で、日本における漢字が、文字としての性格をまったく変えたことを意味していた。漢字から中国語がきりはなされ、漢字は日本語を書きあらわす文字として生まれかわったのである。》

 1字1字の漢字に何十もの訓があったのが時代の経過とともに整理されていく。その過程の《詳細はまだよくわかっていない。》と大島はいう。しかし白川静は、たとえば人の立つかたちのしたに大きな足をくわえた「企」は、日本語の「くは」(かかと)を立てて遠くを望むという意味の「くはだつ」とピッタリだったのでその訓が定着したと説明している。何十もの訓のなかでもっとも漢字の意味に近いものが「正訓」になったのだ。

 以下私見。中国にあって日本にないものはどうしたか。たとえば机(キ)は日本にもあるから「つくえ」という訓ができるけれど、椅子(イス)はなかった。いやたぶん「こしかけ」はあったけれど、椅子を「こしかけ」とは読みたくなかった(そんなださいネーミングじゃ売れないぜというような意見があったりして)。そこでもうしょうがない外国語のままイスと読んでしまおうと決めたに相違ない。物だけではない。愛(アイ)も日本にはなく訓があたえられないのでそのまま使用することになった。だが、物ならともかく外国語で心を表現してもうまくいかない。われわれが「私はあなたを愛しています」と言うとき、なんだか上っ面な感じがするのはそのせいだ。

 逆に日本にあって中国にない物は、どうしたか。音仮名で書けばいいものを、先進文化ふうにしたかったのかあるいは仮名で書くと長くなってしまうからか、漢字っぽい字を作ってしまった。鰯や峠などがそれ。国字と呼ばれる。(中国にトウゲがないわけはない。なぜ漢字を採らなかったのだろう。)

●音訓交用を採用した『古事記』

 『古事記』の本文を読みだすと、こういうところで引っかかる。《次、国稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流之時、》この下に次のような割り注が入る。《流字以上十字以音。》現代語訳すれば「つぎに、国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲナスタダヨヘルときに、注:流の字以上10字は音で読む」となるだろう。ドウシテソウイウメンドウナコトヲスルノカネエと思っていたが、音訓交用を発明した太安万侶にしてみればそれなりの言い分がある。

 『古事記』の序文はわが国最古の「編者まえがき」と言っていい。この序文が、表記法にえらく苦心したことをしのばせて泣かせる。『古事記』は3種類の文体で書かれている。序文は格式をたもつために漢文体で、歌謡は古来の口承を忠実に再現するため万葉仮名で書かれているが、本文は音訓交用だ。当時としてはこれが最高の和文表記法だと安万呂は考えたのだ。彼は序文でこう語る。

 上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。即、辞理?見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下、謂玖沙訶、於名帯字、謂多羅斯、如此類、随本不改。
〈日本の〉上古においては、言葉も、またそれによって表される意味も飾り気がなく、漢字を用いてどのように文章化したらよいか、困難なことがある。すべて漢字の〈訓〉を用いて記述すると、文章が真意をじゅうぶんに表現できない場合があり、またすべて漢字の〈音〉だけを用いて記述すると長くなって意味が取りにくくなる。この際、ある場合は一句のなかに音と訓を交えて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて書くこととする。そして理解しにくい場合には注をつけて意味を明らかにし、事柄の意趣のわかりやすいのには注をつけない。また氏(ウジ)においては日下の字をクサカと読み、名について帯の字をタラシと読む類は、もとのままにして改めない。=訳は大島

 クラゲナスタダヨヘルだって漢文で書こうと思えば書けるが、クラゲを海月あるいは水母と書いたときに読者がそれを正しく読み取ってくれるかどうかを心配したのではないだろうか。ひょっとしたら稗田阿礼が口にする「クラゲナスタダヨヘル」という言い回しをおもしろく思い、そういう箇所はそのまま残そうという編集方針を採ったのかもしれない。たった4ヶ月で『古事記』を書き上げるというスピードもさることながら、そこまで配慮した太安万侶はただの官僚ではなかった。