64(2008.9 掲載) 『憲法九条を世界遺産に』(太田光・中沢新一、集英社新書)
9条はけしてアメリカの押しつけなどではなくマッカーサーと幣原喜重郎の合作で、幣原には戦後の深い読みがあったことを『昭和の三傑――憲法九条は「救国のトリック」だった――』(堤堯、集英社インターナショナル)で知った自分は、まずいことになったと思った。そこにこのタイトルが出現した。いかなる論拠で世界遺産にするのか知りたくなった。 ●9条は人類共通の財産 太田と中沢の対談集だが、太田のアイデアを中沢が理論づけていくという進行。太田がこのテーマを思いついたのは、『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダワー、岩波書店)を読んで。《戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかという次元を超えたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だなと感じたんです。(中略)あの奇跡的な瞬間を、僕ら人類の歴史が通り過ぎてきたのだとすれば、大事にしなければいけないんだと思う。エジプトのピラミッドも、人類の英知を超えた建築物であるがゆえに、世界遺産に指定されているわけですね。日本国憲法、とくに九条は、まさにそういう存在だと思います。》なるほど人類共通の財産というわけだ。視野が広い。 合作だからこそ素晴らしいと仏教学者の中沢がつづける。日本の仏教も、もとはヒマラヤの麓で生まれたものが《チベットへ、中国へ、東南アジアへ、そして日本へと伝わって、多様な国々で合作されてきたんですね。(中略)合作がつくりだしたその珍品ぶりゆえに、日本仏教は価値があるといえる。その仏教を日本人は大事に守ってきた。今さら、あれはインドからきたものだからダメだとか、中国人が途中で漢文のお経を入れたからダメだなんて、誰も考えないでしょう。》おれは考えたけどな。インド生まれだからダメだというのではなく、読んだことはないけれどももし読むならよけいな夾雑物のないブッダの言葉そのものを読みたいと思ってきた。ブッダの教えが仏教ではないか。中国人の三蔵法師がインドに向かったのも同じ動機ではなかろうか。という姿勢は変えないけれども、9条は合作だからこそ価値が高いという意見は新鮮に映った。「日本人独自の憲法を」という改憲派を牽制する意図があっての発言だろう。「交雑が種を強くする」という池田清彦の言説(『環境問題のウソ』筑摩書房)を連想した。 ●9条=修道院説 「おもしろいかつまらないか」を判断基準にする太田は、憲法9条をもっている日本はおもしろい、《そんな世界は成立しない、現実的じゃないといわれようと、あきらめずに無茶に挑戦していくほうが、生きてて面白いじゃんって思う。(中略)いまこの時点では絵空事かもしれないけれど、世界中が、この平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。》という。 それを聞いてチベットの僧院を思い出した中沢は、9条は修道院みたいなものだという。ここが本書のキモだ。《修道院というのは、けっこう無茶なことをしているでしょう。普通の人間が暮らせない厳しい条件の中で、人間の理想を考えている。(中略)普通に考えたらありえないものが、村はずれの丘に建ってるというだけで、人の心は堕落しないでいられる。そういうものがあったほうが、人間の世界は間違いに陥らないでいられるんでしょう。(中略)現実はともあれ、とにかく立派な生き方をしようとしている人たちがいて、理想や夢が地上に自分の居場所を見いだしている場所がある。ふと見上げた丘に、そういうことをしている人たちがいるというだけで、世界の姿は変わるんですよ。》ひるがえって日本のお寺やお坊さんの世俗化を嘆くのだがそれはともかく、9条を道徳の指標と捉えているわけだ。 しかし、日本国憲法第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。/A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」のA「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」が、日本の現状と乖離していることは明らかだ。ここはどうするのか。《日本国憲法の文言をそのまま守っていると、現実の国際政治はとてもやっていけないよ、ということはほんとうです。北朝鮮が日本人を拉致した。こんな国家的暴力にどう対処するんだと憲法に問いかけても、憲法は沈黙するばかりです。》ドン・キホーテのような9条だから、「ミサイル撃ち込まれたらどうするんですか旦那」といいつづけるサンチョ・パンサも必要だという。《ただただ平和憲法を守れと言っている人たちは、日本がなかなか賢いサンチョ・パンサと一緒に歩んできたのだという事実を忘れてはいけないと思います。》中沢の結論は、いままでどおり志は高く掲げながらも他国からなめられない程度の軍備は整えておこうというオトナの妥協路線だ。 太田のいう「一歩進んだ人間」に期待するしかないだろう。9条が幸島(コウジマ)の猿の芋洗い行動だといいのだが。
元衆議院議員の山本は、栃木県の黒羽刑務所に服役し、精神障害者・認知症老人・聴覚障害者・視覚障害者・肢体不自由者などの世話をした。刑務所ではなく福祉施設に入るべきひとたちだった。おのれが国会で論じていた福祉などじつに皮相なものでしかなかったことをそこで痛感する。刑務所に入ってひとまわり大きくなったようだ。ぜひもう一度立候補してほしい。真に有為の政治家になるだろう。 ●福祉の外に置かれたひとびと 介護疲れによる家族殺しのニュースを聞くたび「なぜ福祉制度を利用しないのか」と憤ろしい気分になる。2005年には夫が痴呆の妻を古い火葬場で殺して自分も死ぬという事件があった。後始末など手際が良かったのでワイドショーのコメンテーターたちは口をそろえて夫をほめたたえていたが、もし自分がコメントを求められたら「このじいさんは人殺しです」といいはなっていただろう。「妻も同意した」とじいさんの遺書にあったそうだが、痴呆の妻だ。 なぜ助けを求めないのか。テレビが介護保険の欠点ばかりをあげつらうものだから、福祉制度をよく知らない田舎の年寄りは利用をためらう。高い高いといったって、もし介護保険がなかったばあいを考えてみるがいい。10倍払わなければならない。日本の福祉制度は、心中を選ばなければならぬほどの情況であれば、必ず救いの手をさしのべる(もっともこのところ介護保険の改悪が進行しているのは確かだが)。他人がうちにはいればプライバシーはなくなるが、死を前にして個人情報などどれほどのものだろう。 それより問題なのは「福祉の外に置かれた」知的障害者のほうだと、本書を読んで痛切に思った。レッサーパンダ帽の男が女子大生を刺し殺すという事件があった。数日前からそのあたりをうろついていたという。そんな目立ついでたちでひとを殺して逃げおおせると思っているのか、何を考えてるんだこいつは、わけわからんとイラついたのをおぼえている。しばらくして逮捕されたというニュースは流れたが、その後のことも事件のいきさつもほとんど報道されなかった。事件報道の末尾に「なお容疑者には通院歴があり、警察は慎重に捜査を進めている」とつづいたら、それは精神障害者のしたことだから続報はしないという意味だ。知的障害者のばあいは通院歴というキーワードがないから黙って報道をやめるのだろう。この事件の犯人山口も軽度の知的障害者だった。 どんな種類の障害者であろうとひとを殺して許されるものではないが、事件の背景を知ると単純に怒ってばかりもいられない。打つ手はなかったものかと考え込んでしまう。父親も知的障害者だった。母親が死んでからは妹が働きづめで一家を支えていたが体をこわし身体障害者になってしまう。重度障害者になれば障害年金がもらえ医療費はただになる。よほどの金持ちでない限りこの恩典がなければ暮らしていけない。それなのにこの一家は息子が大罪を犯して世間の注目を浴びるまで福祉とのかかわりはいっさいなかった。《近隣住民、父親や妹が勤めた職場の人間、妹が通院していた病院の関係者、地域の民生委員などなど、この間、誰一人として一家の窮状を察しなかったわけではないだろう。山口被告に、そしてこの一家に、早い段階で適切な支援が差し向けられていれば、レッサーパンダ事件という悲劇は起こらなかったのではないか。そう考えると、残念極まりない。》といまは障害者施設で働く山本は悔しがる。 親子ともども知的障害者では福祉制度の利用はむつかしいだろう。日本の福祉制度は「申請主義」といって、本人が求めない限り手がさしのべられることはない。役所のほうから「何か困っていることはありませんか」といってくることなどありえない。軽度ではまわりのひとも援助の必要性に気づきにくいのかもしれない。 《障害者による犯罪が報道されてこなかったこともあって、多くの触法障害者が、「この社会にはいない者」として捉えられている。/日本のマスコミは、努力する障害者については、美談として頻繁に取り上げる。障害にも負けず仕事に頑張る障害者、パラリンピックを目指してスポーツに汗する障害者、芸術活動に才能を発揮する障害者などなど。確かに、それも障害者の一つの姿かもしれない。だが一方で、健常者と同じように、問題行動を起こす障害者もいる。》 ●意外に多い知的障害者 《「おいお前、ちゃんとみんなの言うことをきかないと、そのうち、刑務所にぶち込まれるぞ」そういわれた障害者が、真剣な表情で答える。「俺、刑務所なんて絶対に嫌だ。この施設に置いといてくれ」》刑務所での会話だ。取調べも裁判も刑務所もなんのことやらわからない。障害者施設にいるべきひとたちなのだ。 受刑者の3割は知的障害者だと『矯正統計年報』(法務省)はいう。知的障害者は、最重度・重度・中度・軽度の4段階に分けられている。等級はADL(日常生活動作)で決められるというから無茶な話だ。《私の経験からすると、軽度の知的障害者というのは、人から言われれば身の回りのことはある程度こなせる。しかし、自分で考え、自らすすんで取りかかるということは、なかなかできない。ものごとの善し悪しも、どれほど理解しているか分からない。》重度のひとはまだいい、一目で重度と分かるからそれなりの手もさしのべられている。しかし軽度のひとは福祉制度との接点がない、居場所がない、これが大問題を引き起こす(軽度といっても善悪の区別も付かないのだ)。《寝たきりに近い重度の障害者より、刃物やライターを持ったりする軽度の障害者のほうが、よほどケアや支援に困難が伴うものである。しかし彼ら彼女らには、ほとんど予算は付かない。》 『障害者白書』によれば現在のわが国の障害者数は、656万人。そのうち知的障害者は46万人だというのだが、山本はこの数を疑う。《人類における知的障害者の出生率は、全体の二%から三%といわれている。》46万では0.36%にしかならない。46万は障害者手帳所有者の数だと聞くと、謎が解ける。じつは300万人前後いるらしい。その8割は軽度のひとだから障害者手帳を持ってもあまりプラスにはならず、かえってレッテル貼りになってしまうから取得しないのが現状だという。 《ここで誤解のないように記しておくが、知的障害者がその特質として犯罪を惹起しやすいのかというと、決してそうではない。(中略)ほとんどの知的障害者は規則や習慣に極めて従順であり、他人との争いごとを好まないのが特徴だ。》それでも不幸な生い立ちの知的障害者は娑婆にいるより刑務所の中のほうが居心地が良く、刑務所に戻るために軽微な犯罪をくりかえす。
◆S氏(50代男性)
累犯障害者、いや、これも哀れだな。悲惨。 |