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 『世界屠畜紀行』(内澤旬子、解放出版社)

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 (承前)
 わたしの関心は、屠殺のうしろめたさ、その一点にある。たとえ屠畜の経験がなくても、食うということは殺すということだ。うしろめたさの解決法は二つ。うしろめたいなんてバッカじゃないのという態度(著者の態度がこれだが、日本では少数派)。もう一つは合理化だ。合理化は主に宗教の役割だ。宗教は屠畜を合理化できるだろうか。

●仏教の殺生戒にしばられる韓国と日本

 韓国では14世紀に李氏が高麗にとってかわって以来、牛の解体をする被差別民を「白丁(パクチョン)」と呼んだ。李氏朝鮮は支配層・常民層・賤民層とわかれており、白丁はさらにその下にいた。キーセンが賤民層にはいっているのはまあ理解できるが、僧侶がふくまれているのはどうしたことだろうと思ったら、それは李氏が儒教を国教とし、それまでの仏教を禁じたためだという。僧侶は賤民階級に落とされたうえ、さらにいやがらせのため屠畜場の管理をさせられた。孔子様は牛肉が好きだったので儒教の祭礼には牛肉が欠かせない。ということは、孔子様も食うのは好きだが屠畜は嫌いだったということか。

 小説『神の杖』で連綿とつづく白丁差別を描いた鄭棟柱は、こう描く。朝鮮時代、牛刀は僧侶が研いだ。刃物は聖なる牛を天国に導く「神の杖」だと鄭は謳う。白丁が刃物をうごかすたびに、一つの罪深い命が罪を捨て昇天するというのだ。なるほどなあ、かくて白丁も僧侶も救われるのだと感心していたら、内澤はこうつづける。《殺生戒と屠畜の板ばさみの中で生まれる数々の屁理屈、いえいえ、歌や儀式は、切なくもひどく美しい。》わらいとばすのだ。

 日本で水平社が創立されたのは1922年。韓国ではその翌年衡平社を創立したが、いまなお屠畜を最低の職業ととらえるひとは多い。結婚差別もある。内澤の通訳になるようなひとはすべてインテリだからあからさまな差別意識は持たず、いちおう「職業差別は良くない」という。ブタの屠畜を見学したあと、「私が本当に知りたいのは、食べるために動物を殺す行為自体をどうしてみんなが嫌なことだと『感じている』のかなんです。韓国人にとっても食うために殺すことは、いまわしいことですか」と女性の通訳に尋ねると、気持ち悪いという答えが返ってくる。

 韓国人の意識は日本人に似通っている。ともに仏教の殺生戒と屠畜のあいだで揺れうごいているのだろうか。と思いつつも、よく考えてみれば韓国人も日本人も焼き肉大好き、バリバリ食うし、魚介類を食べることにはほとんど抵抗がない。逆にオーストラリアはロブスターの名産国だが、ピクピク動く活け作りなんかしたら動物虐待法で逮捕されてしまう。ひとおもいに殺さなければいけないという理屈だ。食を宗教の戒律だけで分析することには無理がありそうだ。

●同じヒンドゥー教でも……

 【お供えのために切るバリ】
 バリ島では人口の9割がヒンドゥー教徒。各家庭にはお寺があり、しょっちゅうお祭りをする。バリの会社では1年間100日お祭りのための公休日が認められているという。祭りのときはブタを神に捧げるので、成人男性なら解体は朝飯前(できない者はひとにたのむというから、全員ができるというものでもなさそう)。

 バリのヒンドゥー教徒にわざと「ウシが殺されるところを見ても大丈夫か」と質問を投げかける。すると、ひとを殺すのは悪いことだから「殺す」ということばを使うが、動物のばあいはひとが食べたり神に捧げるためなので「切る」と言うとの答え。

 流暢な日本語を話すあるツアーガイドはこう語る。「お供え物には5種類あります。神様、聖者、人間、ご先祖、悪霊のそれぞれへお供えするのです。私たちのふだんの食事も、人間へのお供えのひとつなのです。ヒンドゥーでは生まれ変わりを信じます。植物や動物は、もしそのまま死ねば、天国へ行けないかもしれない。お供え物のために殺されれば、位が上がる。神様へのお供えが一番良い。人間になれるかもしれない。もちろん、殺す前にはお祈りしなければならない。普通に食べるばあいでもお祈りは欠かせません。市場に肉を出すために切るときも心の中でお祈りします」理路整然としている。まるで高僧のようだ。

 信仰心のない自分でも、なるほど宗教というものはこういうときに力を発揮するのだと感心する。輪廻転生という思想には無理がある。何千年もむかしの宗教発生時のひとびとならいざ知らず、今日の義務教育を経た者にとっては明らかに非科学的な話だ。しかしヒンドゥー教徒は輪廻転生を信じなければものを食うことができない。ヒンドゥー教徒でないわれわれは、輪廻転生以外の論理を構築しなければ食うことができないのではなかろうか。

 だがしかし、輪廻転生といえば日本人が頭に浮かべるのは仏教だ。仏教では肉食を禁じている。ならば肉を食う食わぬは、輪廻転生思想とは関係がないということにもなるか。

 【屠畜を忌み嫌うインド】
 インドは9割がヒンドゥー教、1割がイスラム教。バリのヒンドゥー教徒とちがってインドのヒンドゥー教徒は屠畜を忌み嫌う。《皮革鞣し、屠畜業は、ヒンドゥー教では不浄となり、「不可触民」のインド人が請け負う仕事だ。》特に牛は神聖な存在。動物愛護運動も盛んで、内澤が「屠畜はかわいそうだ」と言う在日インド人に《「かわいそうってんなら魚だって米だって豆だってかわいそうなんじゃないの」と言い返したら、もう大変。/「動物と植物はちがう。植物に赤い血が流れてるかっ!! 涙を流して泣くか!!」/と、カンカンに怒りだした。》内澤の意見に賛成だ。米や豆が血や涙を流さないからといって、悲しんでないという証拠にはならない。米や豆の悲鳴を人間が知覚できないだけなのかもしれないではないか。

   インド国内の食肉流通はイスラム教徒が牛耳っている。同じヒンドゥー教でもバリでは肯定され、インドでは否定される。じゃあ肉食は宗教とは関係ないということかね。

 たしか動物行動学の竹内久美子だったと思うが、インド人が牛を神聖な存在にしたのはマラリア対策のためだという説を唱えていた。体表の大きい牛を身近にたくさん置いておけば蚊は人間より牛をねらうだろうという理屈のようだ。

●同じイスラム教でも……

 【屠畜して貧者に施すエジプト】
 一般家庭で羊や鶏を飼っていて、イスラムの犠牲祭には屠畜したあとその6割を貧者に施す。羊の首を落としたあと、床に流れ出した血を手に付け、壁に手形を付けるのは、豊かさのあかしでもある。「私たちは動物を犠牲にして生きているということを忘れがちなので、屠畜場面を子どもにも見せる」はじめは泣くが、6歳にもなればごちそうを楽しみにするようになるとのこと。

 【宗教より経済のトルコ】
 同じイスラム圏でもトルコでは犠牲祭の肉も公式の屠畜場で買うことが義務づけられ、家で屠ることは禁止された。EUに加盟するためヨーロッパ諸国と妥協しているのだ。

 【金満のサウジでは】
 イスラム教の本場メッカでは、犠牲祭に《お金だけを業者に渡して屠畜してもらい、業者も肉を配るのが面倒だから、そのまま捨てている》という報道がある。金満国では1年ぶりに肉を食ううれしい日ではなくなってきているようだ。

●キリスト教は無敵の食肉思想

 アメリカとチェコを除いて本書にはキリスト教圏の話がほとんど出てこない。著者の観察によれば屠畜関係者に対する差別が存在するのは日本・韓国・インド・ネパールのみだというから、屠畜業差別のないキリスト教圏にはあまり関心がないのかもしれない。なぜ差別がないのだろう。ひとは神のもとにみな平等だから? そんなわけはない。人種差別はひどいし、神の御名において大量殺戮をいとわないのもキリスト教徒だ。

 キリスト教の動物観が原因だろうとわたしは考えている。神に似せて造られたのは人間だけ、すなわち意識・心といったものを持つのは人間だけで、あとはすべて神が人間に与えたもうた食料なのだ。それなら気は楽だ。「主、願わくはわれらを祝し、また、主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給え」と神に感謝するだけでいい。あれこれ悩む必要はない。

 ひとだけが神に似せて造られたという教義は、動物を主食とする食習慣から生まれたものかもしれない(植物栽培に適さない土地だ)。自分たちがふだんつぶして食べているものに感情や意識があるのはぐあいの悪いことだ。おのれの食習慣を正当化する教義でなければ受け入れられないだろう。

●肉はハレの日にのみ食べるべし

 食うべきか、食わざるべきか、重いテーマでくたびれる。再びおおらかに肉食を楽しむひとびとに目を転じよう。

 【屠畜人が尊敬されるモンゴル】
 モンゴルには13世紀にチベットから仏教が伝わった。《日本の部落差別、屠畜労働への差別について調べていくと、必ず仏教の殺生戒に突きあたる。(中略)殺すなかれと説く仏教を信仰しながら、肉をおおらかに食べてきたモンゴル人は、その矛盾をどう解決してきたんだろうか。》

 チベットやモンゴルでは、人間はもちろんのこと蚊を殺すことも残酷なこととされるが、ひとびとに利益をもたらすための殺生は罪ではなく悟りだと説く『摂大乗論(ショウダイジョウロン)』が重んぜられている。《羊を殺すことによって人々に食物を提供すれば、それは活命(カツミョウ)といって、殺すことは菩薩行となると。だから屠畜を行う技術を持っている人は、むしろ敬意を持って遇される。屠畜を行った人、食べた人、すべての人が羊の苦しみを負って、自分の命が他者の命によって生かされていることに感謝、懺悔、供養してはじめて救われるというのだ。》ただ、これは僧侶の論理であって、一般人は「羊は天からの贈り物だから殺して食べる」と気楽に考えている。モンゴル遊牧民の世界観は「命をもらって分かち合いながら生きる」というものだ。

 【戦前の沖縄では特別だった肉食】
 沖縄といえばむかしから豚をふんだんに食べていたような印象があり、長寿なのは豚を食っているからだと誤解する者までいる。じつは日常的に食べるようになったのは戦後のことだ。20数年前食品の栄養について調べていたとき、沖縄は昆布の個人消費量が日本一だった。長寿の理由は栄養だけではないが、栄養面ではこれが長寿の元だろうと推測した。はたせるかな昆布の消費量が減り豚の消費量が増えた今日、沖縄の男性は長寿日本一の座からずるずると下がりつづけている。女性もいずれ同じ道をたどるだろう。いまや糖尿病による死亡率は男女とも全国平均を超えている。戦後生まれの沖縄県民はそれほど長寿ではないのではなかろうか。

 《戦前までの沖縄での肉食は、正月や田植え、そして豊穣を祈願する祭祀などの特別の日の大イベントだったのだ。特に祭祀とのかかわりが深く、神様に家畜を捧げたあとで屠り、村中の人たち全員で、神の前で分け合いながら食べることが重視される。》神様に捧げたあとで人間がご相伴にあずかるという風習は、肉食におけるもっとも普遍的なスタイルだろう。家畜を屠ることは常ならぬことであり、畜肉は野菜・根菜・穀物のどれにもましてとびきりうまく、また元気が出る。ここはやはり神様抜きで食べるわけにはいかないのだ。

 『沖縄の豚と山羊 生活の中から』(島袋正敏、ひるぎ社)が紹介されている。正月に家でつぶす豚の鳴き声は、「もう正月だよう」と聞こえ、子どもたちにとって正月は豚を食べる日だったという。《血を取る時のガヮエー、ガヮエーと鳴き叫ぶその声は食欲をそそり、久しぶりの豚の屠殺解体を手伝いながら豚肉料理が目の前にちらつき、落ち着かない》ということばは、たまに食べるから体にも心にも栄養になるが、しょっちゅう食っていたのでは太るばかりだということをしめしているのではないか。

 沖縄では豚・山羊はもちろんのこと犬や猫・兎も食べた。「ぼくらは子どもの頃に仔犬をかわいがって一生懸命育てます。で、ある日突然、夜の鍋になって。それは当たり前のことなんです。ぼくは泣かなかったですね。いろいろですよ。となりの子はウサギをつぶしたときに泣いていましたね。でも、あれはウサギが鳴いたから泣いたんじゃないかな」と語る島袋は、いまでも犬をつぶすようだ。「犬はね、赤がおいしいと言われてますが、黒もおいしいんですよ(とニヤリ)。犬を食べる文化は東アジア全般にあるんだよ」子どもたちは1ヶ月も泣くさと笑う。

●豊かになって生じた迷い

 動物に殺される恐怖心はあるのだろうか。動物愛護団体は、屠畜のさい仲間が殺される場面を見せてはいけないと主張しているのだが、内澤はたとえばバリ島の例を挙げて反論する。《豚小屋は、解体作業が全部見えるところにあり、解体風景を目の前にしながら豚はスヤスヤと安らかに熟睡している。よく豚は殺されるのを嫌がってキイキイ啼くと言う人がいるけれど、あれは引っ張られたり、縛られたりしたことに対しての「啼き」なんだとあらためて実感する。》死に対する恐怖感はないようだ。

 動物福祉を研究する京大霊長類研究所の上野吉一助教授は語る。「ひとは、どうしても動物に感情移入してしまう。動物ばかりか機械に対してまでも自分を投影して感情移入することができる。でも動物には、人間が想定するような苦しみだとか、喜びだとか、そういった感情はほとんどありません。ただ〈感情〉ということばをもう少し単純な快・不快、喜び、怒りといった〈情動〉と置き換えれば、それはネズミだってきちんと持っています」

 狭いかごにたくさん押し込めて飼えば効率は良くなるが、動物の情動は衰える。コストは高くなっても広くて刺激のある環境で育てるべしというのが動物福祉の考えかたのようだ。それを聞いて内澤は《刺激に富んだ環境で飼育された動物は、感情、いえ〈情動〉も豊かになる。人間のアクションに応えているかのような反応までする。そういう「かわいくなっちゃった」牛や豚をつぶすんなら、これまでの多少ボーッとしたヤツをいただいた方が気が楽なんじゃないでしょうか……と、つぶやくと》上野教授は「いえ、むしろ、そういう刺激に富んだ環境で情動が発達した(本来の姿である)動物を殺してでも食べるという覚悟が、私たちには必要なんだと思います」キッパリと答える。

 神に頼らず輪廻転生も信じない者には覚悟が必要になるのだ。《動物をつぶして食べること――殺してその命をいただく行為――それじたいの価値をとらえ直していかなければいけないんじゃないか》と内澤はいう。

 《イスラムでは、動物は必ず生きた状態で屠らなければならない。動物をなるべく苦しませないために、4本の頸動脈をすばやく切って、腹を踏んだりしてどんどん血を出す。》それのどこが残酷だというのだろうかと内澤は抗議する。二酸化炭素や電気で気絶させてからなら残酷ではないと誰が決めたのか。それらの設備を買えない地域もある。《私には金持ちの傲慢な発言にしか聞こえない。》椎名誠も極北の民の狩猟生活を取材したとき、同じような感想を漏らしていた。クジラを食うなとか何を食うなというのは、ほかに食べ物のある豊かな地域のひとの意見だと。

 羊を屠って食べることになんの嫌悪も感じないモンゴル人も、来日してフグの調理現場を見ると顔をそむける。巨大マグロを釣り上げた大間の漁師は、船べりに寄せたマグロのひれに包丁を入れて血抜きをする。心臓の動きを利用して放血する方法は屠畜の際と同じなのだが、おそらくモンゴル人がこれを見たら不快に感じるだろう。屠畜を忌み嫌いこれにたずさわるひとを差別する日本人も、魚なら自分で捌くし、漁師を差別することもない。

 身近に豊富にあるものを食う。食いなれないものは気味が悪い。要するに慣れなのだ。