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 「字訓の編集について」(『字訓』白川静、平凡社)

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 これを読もうと思って小さい判を買ったが、字が小さすぎて読めず、図書館で大判を四十数ページさらに拡大コピーしてもらった。確実に老いが近づいている。視力の衰えはいずれ読書意欲を低下させるだろう。パソコンをはじめてから悪化に拍車がかかった。といってやめるわけにもいかんしなあ。

 《漢字を国語の語義に合せてよむことを和訓といい、その訓を字訓という。》和訓と字訓がどうちがうのかいまひとつわかりにくいが、和訓は行為で字訓は結果なのだろう。本書『字訓』はある漢字がどのようにしてその読み方になったかをしめすもの。長年追い求めてきた本にやっと巡り会えたような気がする。

 「高」には上、大、遠などいろいろな意味があるが、『説文解字』に「臺観の高き形にかたどる」とあるように高い建物を意味した。一方国語の「たかし」は「岳(たけ)」と同根で、山の高いところを言う。「たかし」とよむ字は100以上あるが、《高の字義が「たかし」の語義に最も近い。それで「高」を「たかし」とよむ訓が定着した。その訓がその字義を代表しうる関係にあるものであるから、これを正訓といい、また常訓という。》漢字と国語両方の字源と語源にさかのぼり、語義領域の大部分が重なり合うものを厳選してゆく。

 たとえば「企」と「くはだつ」。「くは」はかかと、平鍬に似ているから。くはだつは、くはをたてること、かかとを立て遠くを望む姿勢をいう。一方「企」は人の立つ形の下に大きな「止(あし)」を加えた形。両者は完全に対応の関係を持つ。

 なぜこんなにも適合するのか。漢字は殷王朝が完成されようという時期に生まれた。当然その時代の意識・習俗・観念を反映している。そしてわが国が漢字を摂受した時代は同じく王朝の形成期・完成期であった。両者の時代意識は類同性を持っている。《それゆえにわが国の古語・古俗を以て文字の字形・字義の解釈を試みると、よく適合することが多いのである。》いやびっくり。わくわくする。

 白石は『東雅』で語源を論じ、《我国ほどその声音すくなきはあらず》漢字の音をそのまま表記することは難しく日本語ふうに訛って表記した。たとえば呉はグーだったがその音がなかったのでクレにせざるをえず、漢の音も表記できなかったのでやむなくアナといっていたのがアヤになった。韓地の方言が転じたものも多く、たとえば海は韓地ではボタイ・バタイというが、ボもバもこの国にはなかったのでワタとならざるを得なかった、と言っている。

 昭和54年に発見された太安麻呂の墓誌には「卒之」という表記が出てくるが、これは6世紀の朝鮮碑文に見える語法。古代の文献には渡来者が関与した。《東西の史(ふひと)がすべて渡来者であったという当時の文字事情をも、考えることが必要である。おそらく中国の文献に通じ、自国の文筆を能くし、さらにわが国のことばや生活にも通じた人たちによって、最初の記録が行なわれたであろうことは疑いないことである。》

 系列語とは何か。同じ語根を持つ語群。「目」を語根としてまたたく・まなこ・まへ・まもる・みる・めぐむ・めづらしなどの系列語が生まれ、「手」を語根としてたがひ・たすき・たすく・たたかふ・たつ・たどる・たのし・たより・つかむ・つくるなどが派生した。

 《国語では「なし」の「な」の音、漢字ではおそらくm音が、そのような造語意識の根底にある音感の世界にまで迫るべきものであるかも知れない。露伴学人が「音幻」と称するものが、おそらくそれであるように思われる。……音のうちに語の本質を求めようとする言語起源論である。》

 目次に露伴の「音幻論」の文字を発見したときは胸が躍った。こんなところで再会するとは。気ままな乱読も地下でつながっているのだ。

 鈴木あきらの『雅語音声考(がごおんじょうこう)』(1816)がおもしろそう。オノマトペを4種に分類し、1.鳥獣虫の声をうつせる言としてホトトギス・カラス・スズメ・ネコ・イヌなど、2.人の声をうつせる言としてフク・スフ・ハク・ササヤクなど、3.万物の声をうつせる言としてユスル・ソヨグ・トドロク・タタク・カネ・コトなど、4.万の形・有様・意・しわざをうつせる言としてアカ・ハル・クモ・クロシ・フクロ・ナメラカ・ワラ・ナヨナヨ・スクスク、カタシ・カロシ・サムシ・サビシなどをあげている。イ・チ・シは風なり、この三つ同韻にてみな早き意ありと述べているが、露伴も「音幻論」の冒頭に同様のことを述べている。これを下敷きにしたのだろうか。

 

 『語源でわかった!英単語記憶術』(山並陞一、文春新書)

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 英単語記憶術の本は多いがどれを読んでも身に付かない。そんなに簡単にいくわけないとは思いつつも今度こそは成功するかもしれないと淡い期待を抱いてしまう。ダイエット本に似ている。この本も同じ。ただ、印欧語にさかのぼって語感で把握せよと説くところがいままでのものと異なる。何でもさかのぼりたくなる遡及派にはうれしい1冊。

 《語源を探っていくと、たどりつくところは単音節の音声語である。……なせばなる、みがなる、なまえ、などの「な」という音オンは、自然に私たちの耳の深いところを刺激し、「うまれる」というもとの意味を思い出させる。こうした単音節の音が言葉の最小単位として発声され意味を伝え、しだいに複雑に組みあわされて高度な内容を伝えるようになり、やがて一つの言語ができあがる。》言語観には賛成だが、「な」を聞いて「うまれる」を思い出すにはそうとう日本語に通じていなければならない。まして英語や印欧語でそれが可能か。そこが本書の弱点。

 印欧語とは、英語・ギリシャ語・ラテン語などの祖語。《ヨーロッパからインド北西部に広がる言語に共通する祖語を、言語学では Proto Indo-European Language(印欧祖語)とよんでいる。》18世紀後半、カルカッタに赴任した英国の高級官僚ウイリアム・ジョーンズ卿は、サンスクリット語がヨーロッパの言語と同じ系列であることを発見した。印欧語族の発祥地はチェコの西部ボヘミアからウクライナにかけて。インドではないのだな。印欧語はサンスクリットのことだと思っていたがそうではなく、サンスクリットは印欧語の一部。

 南無阿弥陀仏は、サンスクリットの音を漢訳したもの。《南無は name(名前を挙げて尊ぶ、唱える)、阿弥陀は ameter(aは否定, meter は測る、つまり、無量、はかり知れぬ)、Buddha(仏)である。》

 日本語の「名前」も英語の「name」もサンスクリットから来ているのだろうか。name をネイムと発音するのは英語訛りであって、もともとはナメといっていたはずだ。

 meter はいまでも英・仏・ギリシャで測ること。「測るという意味の meter に否定のaをつけたアミーターは測り知れぬものということ。それが阿弥陀になった」と投稿すれば「トリビア」に採用されるだろうか。されねえな。

 印欧語の kwa(クヮ)は、ラテン語では qua、英語では wha になった。中国語では「何」になったのだろう。

 印欧語の ten(張る)は、太鼓の皮を張って音を調べること。だから英語でもten ton tun tin tain の語形を持つものは「音の調子、張る」という意味を持つ。tenor, tone, tune。entertain は、enter(あいだで)tain(たもつ)座持ちをするということ。entertainer は太鼓持ちが適訳ということになる。

 印欧語 bhreu(ブリュウ=煮える)は、英語で brew になった。煮えるとき、発酵するときの音。ブリュウしたものがブレッド。bride(パンを焼く)人が花嫁。そういえばウエディングケーキは、ケーキが焼ける女であることを示すためのものだと聞いた。ふくらんだ胸を breast、 呼吸を breath、 その動詞形が breathe と派生してゆく。

 焼くは印欧語で bhran。それが英語では burn になった。母音交代。牧場の牛に焼き鏝を当てることが brand。

 印欧語 pa は食べ物。そこからラテン語 pater(パーテル、父)がうまれた。patron, pattern などが派生。語頭のpは英語ではfになって father となる。グリムの法則。

 銀の名産地アテネは、Slav(スラブ)人を奴隷にして銀を掘らせた。スラブ人イコール奴隷(slave)となった。スラブってそういう意味だったのか。民族紛争が終わらないわけだ。スラブという地名をやめたらどうか。日本なんかリポビタンDの広告で宝田明が「ヨッ」といっただけで問題になった。それも極端だけど。

 印欧語 sker(切る)は、北欧では skert になり、英語で skirt や short になった。長いローブが農作業や戦闘に不便なので切ったところから。

 wa という音が水を意味する地域は多い、日本でも「わたのはら(海の原)」「わだつみ(海神)」というではないかと著者は言うのだが、新井白石は「海は韓地ではボタイ・バタイというが、ボもバもこの国にはなかったのでワタとならざるを得なかった」と言っている。どうもみんな自分に都合のいい例を引いてきているのではないか。何事も鵜呑みにしては危ない。

 心強い説を見つけた。印欧語 do(ド、くれてやる)はラテン語 donere(ドネーレ)、 dona(ドナ、あたえること)、サンスクリット語の dan(ダン)になったという。かつて『上の空』のなかでサンスクリット語のダンナが臓器提供者のドナーになったのではないかと書いた。冗談半分のつもりだったが、ほぼ当たっていたのだ。これがいちばんの収穫。