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 『阿佐ヶ谷文士村』(村上護、春陽堂書店、1993)

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 近所に有名人が住んでいると何となくうれしい。うちから1キロのところに車椅子の花嫁鈴木ひとみさん、500メートルに将棋の米長邦雄永世棋聖が住んでいる。米永宅のすぐそばには長らく壺井栄の家があった。至近100メートルに博物学の荒俣宏邸。荒俣さんが離婚していなければ杉浦日向子もいたのだろうに残念。

 阿佐ヶ谷文士村といってもそういう村があったわけではない。戦前戦後どういうわけか高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪にたくさんの文士が住んだため、阿佐ヶ谷界隈をそう呼んだ。なぜこのあたりに集まったか。大正11年、中央線に高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪の駅ができ、さらに翌年の関東大震災で家を失ったひとびとが移り住んだのがはじまり。

 《何か伝える用事のあるときは、同人たちのところを歩いて回れる便利さがあった。とにかく、ほとんどの同人が貧乏で、電車賃も自由に工面できない境遇にある。彼らが阿佐ヶ谷界隈に住んでいることが、大いに意味を持つのであった。》昔は歩くしかなかったのだ。

 阿佐ヶ谷駅を誘致したのは、成田東4丁目に住んでいた衆議院議員古谷久綱。住民が礼金を持っていったところ受け取らないので、それでは先生のお宅から駅までまっすぐ人力車が通れる道を造りましょうといってできたのが現在のパールセンター(河口屋の親爺が、ここは公道だからアーケードの柱から外に商品を置いちゃいけないのに新しく入ってきた商店はおかまいなしに物を置くから困るとこぼしていたっけ)。

 当時は家を借りるのに敷金礼金もなく、貧乏文士は家賃が払えなければ踏み倒して引っ越したという。檀一雄は尾崎一雄と上落合2丁目の真新しい貸家に住む。首つりのあった家で借り手がなかった(家主としても空き家にしておくより体裁がいいだろうし、ワンクッション置けばまた何も知らないお客に貸しやすくなるのではないだろうか。阿佐ヶ谷北保育園の横に5、6軒の建売が建ったが、買ったひとは空き地のころに首つりがあった場所だとは知らないんだろうな)。

 井伏鱒二(s2,清水町)、太宰治(s8,天沼3丁目)、青柳瑞穂(s2,阿佐ヶ谷南)、三好達治(s4,和田堀)、小林多喜二(s6,馬橋3丁目)、石川達三(s12,馬橋)、木山捷平(s7,阿佐ヶ谷)、火野葦平(s28,阿佐ヶ谷)、藤原審爾(s23,阿佐ヶ谷)、伊藤整(s3,和田堀)、谷川徹三(s3,阿佐ヶ谷)、林房雄(s4,高円寺)、亀井勝一郎(s7,阿佐ヶ谷)、伊馬春部(s7,阿佐ヶ谷)、外村繁(s8,阿佐ヶ谷)、河盛好蔵・中野好夫(s9,井荻)、上林暁(s11,天沼)、北原白秋(s16,阿佐ヶ谷)、その他横光利一、川端康成、大宅壮一。

 昭和19年11月24日、荻窪の中島飛行機工場をねらってかB29の大編隊が来襲。文士たちつぎつぎに疎開。残ったのは青柳・外村・上林・亀井。

 昭和22年から約2年間、飲食営業緊急措置令により、外食券食堂・旅館・喫茶店以外では酒が飲めなくなった。《それまでも自由に酒が飲めたわけではない。が阿佐ヶ谷周辺には、かなりの屋台が出来ていた。一軒の店で飲めるのは銚子一本が制限量だったが、なじみの店を梯子すれば、酔っぱらうほど飲むことも可能であった。》これで初めてはしご酒の本来の意味が分かった。

 文士村を語るさいに見逃せないのは、ピノチオと阿佐ヶ谷会。ピノチオは阿佐ヶ谷駅北口にあったシナそば屋。いまのバスターミナルのあたりか。阿佐ヶ谷会ははじめピノチオ、のちに青柳瑞穂邸でおこなわれた。戦前は将棋会、戦後は飲み会。昭和47年、青柳の1周忌で幕を閉じる。青柳はモーパッサンの翻訳家として学生時代から知っていたが、本領は骨董家とのこと。

 高円寺にはマルクス・ボーイが集まった(安サラリーマンが多かったので住民ともめることはなかった)。昭和初期にはプロレタリア文学が文壇を席巻していた。唯一の文芸雑誌「新潮」は3000部刷っても売れるのはせいぜい2000部。対して「戦旗」はs3年小林多喜二の「1928年3月15日」の掲載号が8000部売れた。新宿紀伊国屋では「戦旗」が1日に100部、「文芸戦線」が1週間に80部。対して紀伊国屋発行の芸術派「文芸都市」は1ヶ月に70部、1年でつぶれる。商業雑誌も売れゆきのために左翼作家を起用。昭和9年作家同盟が解体されると商業ジャーナリズムは困って谷崎・荷風らの大家やモダニズム文学の作家を起用した。文学史の教科書に出てくる芸術運動のはやりすたりというのは、作品の売れゆきのことのようだ。

 文士は大衆ものを書いてはいけない。純文芸でも多作は自慢にならない。《ジャーナリズムに迎合して売文を書けば、文士は文壇内で凋落する。ということになれば、滅多なことで稿料の入る原稿など書けない。互いに牽制し合うのが常だった。彼らは食えないことを覚悟のうえで、同人雑誌に集まっていたのである。》最近はとんと聞かない話。

 

 『山口瞳「男性自身」傑作選 熟年篇』(嵐山光三郎編、新潮文庫)

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 読み始めて少しがっかり。随想集だからこれといってメモするようなことはない。国立の桜がどうしたとか最近ものわすれが激しいとか、そろばんができないだのガスが点けられないだのと言われても、まあそういうこともあるだろうなとしか思わない。のんびりしたものだ。

 ところが太平洋戦争の話になると、俄然山口の目の色が変わる。「卑怯者の弁」「私の根本思想」がいい。国家イコール軍事力、アメリカに押しつけられた第9条を廃止せよ、主役は戦後生まれであって戦中派ではないという清水幾太郎の「節操と無節操」に反論する。根拠はみずからの軍隊経験。《日教組の講師団の一人であった清水先生が「全国○○万人の教員を収容できる刑務所は日本にはない」というアジ演説をぶったことをかすかに記憶している。》と変節ぶりを指摘することも忘れない。

 戦争も軍隊も嫌いではなかったが、《どうにも我慢がならないのは、内務班のことであり、そのおそるべき瑣末主義にあった。そのことを考えると、いまでも体が慄えてくる。》軍隊にはいれば戦況などもよく分かると思っていたのに戦争に関する話は御法度で、そのくせ軍靴の鋲の数を即答しなければならないというばからしさ。《およそ戦争とは無関係な場所である。》今の自衛隊でも盗みは日常茶飯事であるという。連合赤軍の凄惨なリンチを引き、日本人が軍隊を持つとああなってしまうと警告する。

 甲府の部隊に入隊してすぐに甲府が空襲を受ける。2、3日して7、8人の民間人が血だらけになって駆け込んでくる。不発弾をのぞき込んでいてやられたのだ。それ以来爆発物恐怖症になってしまった。ガスが点火できない理由がここであかされる。このあたりは編者嵐山の手腕。

 戦争は「母の嘆き」であるといって、大岡昇平の『俘虜記』を引く。米兵と遭遇したものの引き金を引かなかったというくだり。大岡もまたアメリカ兵の母を思ったというのだ。《撃つより撃たれる側に廻ろう、命をかけるとすればそこのところだと思うようになったのは事実である。具体的に言えば、徴兵制度に反対するという立場である。》

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)

 《この歌には我等戦中派の無念が集約され結晶しているように思われる。》

 《専守防衛であるという。(中略)いったい、どの国が、どうやって攻めてくるというのか。それを具体的に教えてもらいたい。攻めてくるのはソ連軍なのか、中国軍なのか。/いわゆるタカ派の金科玉条とするものは、相手が殴りかかってきたときに、お前は、じっと無抵抗でいるのか、というあたりにある。然り。オー・イエス。私一個は無抵抗で殴られているだろう。あるいは、逃げられるかぎりは逃げるだろう。/「○○軍が攻めこんできたら、家は焼かれ、男はキンタマを抜かれ、女たちは凌辱されるんだぞ」/いいえ、そんなことはありません。私の経験で言えば、そんなことはなかった。人類は、それほど馬鹿じゃない。/かりに、○○軍の兵士たちが、妻子を殺すために戸口まで来たとしよう。そうしたら、私は戦うだろう。書斎の隅に棒術の棒が置いてある。むこうは銃を持っているから、私は一発で殺されるだろう。それでいいじゃないか。(中略)人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。その通り。私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。》(私の根本思想)

 あっぱれな覚悟と言うべきだろう。ここまで断言できる大人は少ない。しかしだ。ソ連や中国が攻めてこなくても北朝鮮はどうするのか。北朝鮮が具体的に侵略を試みていることを知ってしまったわれわれは、それを知らなかった山口とおなじ見方はできないだろう。

 京子がこの春八丈島へ行ったときのこと。空港へ向かうタクシーの運転手、70過ぎと思しきひとの話によれば、戦時中八丈の港を朝鮮人に作らせ、完成したところでみんな浜に集めて銃殺したという。終戦時はたち前後で軍の仕事をしていた彼は、アメリカ軍に捕まったとき、てっきり殺されると思っていたところ、大量のチョコレートをわたされ、村に帰ってみんなに殺さないから安心するように伝えてくれと解放されたそうだ。

 戸口まで来た○○軍に自分が殺されるのはいいとして、妻子はどうするのか。母の嘆きはどうなるのか。論理的に行き詰まったことを自覚したが故に《その通り。私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。》と開き直ったようにも見える。曰く言い難い苦しい思いを抱えているのは容易に想像できるのだが。

 

 『笑死小辞典』(PETIT DICTIONNAIRE A MOURIR DE RIRE、フィリップ・エラクレス、リオネル・シュルザノスキー共編、河盛好蔵訳、立風書房)

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 阿佐ヶ谷図書館の文士村コーナーにあったもの。河盛好蔵は昭和9年から井荻に住んでいた。

 墓碑銘や老年・死に関する名言集。

 ラブレーの遺言。《わしは一文もない。借金は山ほどある。残ったものは貧乏人にくれてやる。》

 モンテーニュ。《死はわれわれが死んだときも生きているときもわれわれにかかわりがない。なぜなら、生きているというのは、おまえたちがこの世にいるからであり、死んだというのは、もはやこの世にいないからそういうのだから。》

 シェイクスピア。《今年死ぬ者は来年は死なずに済む。》

 パトリス・ド・マク=マオン元帥。《腸チフスは恐ろしい病気だ。それで死ぬか、生き残って白痴になるかどちらかだ。わしはこの病気については詳しいんだ。わしも罹ったことがあるから。》

 イヨネスコ。《猫はすべて死ぬ。ソクラテスも死ぬ。それゆえソクラテスは猫である。》

 死刑囚。《独房を出るとき、彼はまだ読み終わらない本のページの隅カドを折った。》《銃殺される前に、死刑囚は最後の煙草を、悪い習慣になってはと云って断った。》

 

 『太宰治 お伽草紙』(あるちざん出版、フクイン製作)

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 太宰の『お伽草子』に絵をつけたもの。阿佐ヶ谷図書館の文士村コーナーにあった。カッパブックスの初代編集長だったしおはまやすみというひとが、むかし太宰と絵本にすることを約束し、いまようやくそれを果たしたという。美しい話だけど、ウーン、出さないほうがよかった。読みはじめていきなり宇治拾遺物語に「うじじゅういものがたり」というルビが振ってある。ありゃりゃとイヤな予感がしたが、そのあとも誤植の連続。読む気をそがれる。

 出版者の名前を見ると塩浜玉恵とある。娘か。高齢のお父さんのために最後の親孝行という気持ちで出したのだろう。製作会社選びに失敗したのだ。できあがった本を見て地団駄踏んでいるにちがいない。願わくばお父さんの目の悪からんことを。

 著作権は作者の死後50年で切れる。そのあとは誰に断ることもなく出版自由だ。しかし、仕上がりは誰がチェックするのか。誤植の防止にもっとも役立つ著者校正を抜きにしてちゃんとした本を作るには、よほどしっかりしたベテランの編集者をそろえた出版社でなくては不可能だ。もう活字になっているものに絵を付けるだけだからと甘く考えたのだろう。何を底本にしたかという記載もない。

 それにしても太宰はいつ読んでも舌を巻くほど文章がうまい。手がうごけば筆写模倣して文章力を鍛え、このしまりのない文章に喝を入れたいところだ。……とかいってうごけばうごいたでやらない言いわけを考えるのだろうが。