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 『新潮社の戦争責任』(高崎隆治、第三文明社)

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 まさか自分が創価学会の本を買おうとはゆめにもおもわなかったが、新潮社の仇敵が出したものなら忌憚がないだろうとふんだ。

 著者は1925年横浜生、法政文学部卒、戦時下のジャーナリズムを研究。戦時中にさんざん大衆を扇動しておいて、戦後素知らぬ顔で出版をつづける新潮社の危険な体質を批判。

 たしかにひどい。「日の出」は巻頭言で「幾多の試練と難関は、来らん年と共にいよいよ加重されるであらうが、国民の決意と覚悟は既に出来てゐる」、「日本男子の生命を軽んずるのは、死ぬことすなはち生きる事であるからである。大君のために死ぬことは、永遠に生きる事だ。この自覚を持ち得ると否とが、日本国民であると否との相違でなければならぬ」といった調子の扇動を毎号くりかえしている。どうやら軍部から金をもらっていたようだ。

 前者に対し著者は、国民の決意と覚悟は既に出来てゐるとは誰が言ったのか、《雑誌の編集者が全国民の代表であるかのような意識は、どこに生じたものなのか。傲慢無礼とは、こういう人間のことを指すのである。》と批判し、後者に対しては《娯楽雑誌や青少年雑誌の読者が、編集者から命令されなければならない理由はなんであるのか。中略。ようするに、編集者たちは読者を馬鹿にしているのである。読者を劣等者として見下しているのである。》と鋭い。

 そんなくだらぬ雑誌など読まなければいいではないかと思うのだが、ほかにたのしみがなかったという。《気に入らなければ読むことはない。だが、ほかに手軽な娯楽をもたない人々は、唯一の慰安を娯楽雑誌に求める以外にないのである。大衆の弱点はそこにあった。娯楽雑誌の編集者は、その弱みにつけ込んだのである。》娯楽だらけマスコミだらけの現代とはずいぶん様子が異なる。

 あらためて思い知らされるのは、階級による情報量の違いだ。《一般の国民が、「八紘一宇」や「聖戦」思想を信じ込まされたのは事実である。しかし、はっきり言わせてもらえば、学問・教養のある知識人までが「だまされた」というのは嘘である。》

 戦後――。20年11月の復刊第1号の編集後記「宿命的ともいふべき国家機能の枠内にあつて、我らは相共に必勝を信じ、雑誌奉公の一念に邁進して来たのであつたが、」をとりあげ、《『日の出』の「編集後記」は、戦時中から、しばしば「我ら」という表現を用いる。だが「我ら」とは、いったいだれだれのことなのか、「新潮社」とか「編集部」とかといった意味なのか、きわめて曖昧である。》これは「我ら」と記して国民を仲間に引きずり込む危険な手法であると指摘する(こういう分析の方法は大学の国文科での師片岡良一に教えられたものだと告白している)。第2号の編集後記で「印刷製本を完了しながらも発行の運びに至らなかつたことは、読者諸賢にただただ衷心よりお詫び申上げる次第である」は、「日の出」が読者にわびた唯一の例であり、《この文章は、謝罪すべき問題をすりかえ、どうでもいい問題について謝罪してみせる姑息で卑劣な小細工である。》とゴマカシの分析に腕をふるっている。

 著者は、現代の文学が衰退した原因は戦争にあると考えている。「日の出」のかわりに創刊された「小説新潮」の創刊の言葉にある「今日ほど小説の盛んな時代はなく、また今日ほど小説の貧困をなげかれてゐる時代はない」を取り上げ、その状況は《日中全面戦争をふくむあの戦争下に始まったことで、戦後、忽然として現れた特異な現象ではない。》つまり戦時下にこそ文学は死滅したのであって、《終戦直後の文学評論や文学史研究は、その「死滅」した文学について語ることを徹底して避け、文学の「貧困」は戦後状況の思想的な混乱に原因があると述べたてたのである。》とみている。戦時中生きるために死滅した文学のチョーチンを持ったことを、戦後はまたしても生きるためにみんな何食わぬ顔で「なかったこと」にしたわけだ。

 戦後生まれには戦中・戦後のことがわからない。特にひとびとがどういう気持ちでいたのかという点が。2003年春イラクを占領したアメリカ軍はゲリラの抵抗で秋には100人以上の死者を出している(追記、2004年秋には1000人)。占領下の日本で抵抗運動があったなんて聞いたことがない。みんなどういう気持ちだったのだろう。

 この本はそういう疑問に答えてくれる貴重な本なのだが、如何せん作りがザツ。たとえば「日の出」創刊は上海事変の停戦協定が成立した直後だというのだが、日付の記載がない。いつ創刊されたのかはっきりしない。またたとえば《そのあたりの時局に対する国民感情や、心理の動きなどを理解してもらうためには、おそらく百万言を必要とするほど困難なことであろう。》なんていう文章で引っかかってしまって先へ進めない。ここは「……などを理解してもらうのは、おそらく百万言を必要とするほど困難なことであろう」とか「……などを理解してもらうためには、おそらく百万言を必要とするであろう」としなければ気持ちが悪い。

 「日の出」の表紙写真が数葉収録されている。国民奉公雑誌というサブタイトルが、19年8月号から国民大衆雑誌に変わっている。何か興味深い事情がありそうなのに、なんの言及もない。編集者はなにをしとるんだと言いたい。

 

 『FUTON』(中島京子、講談社)

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 1964年生まれだからいま39か。東京女子大文理学部史学科卒。インターネットで検索すると直木賞候補になっている。出版社勤務ののち渡米して日本語教師をしていたようだ。その体験が作品に活かされている。

 《「カタイの『蒲団』のことは話したことあったっけ?」「あの、変態の先生が、弟子の寝てたフトンに顔を埋めて泣く話でしょう?」》

 『蒲団』といえば名前ぐらいは知っているけれども読んだことのない明治時代の作品。中年の小説家が去っていった女弟子の蒲団にもぐりこみ顔をうずめて泣く話なのだそうだ。

 中島がこれを書いたいきさつはおそらくこうだ。『蒲団』は田山花袋の私小説だが、これを妻の立場から見たらどうなるか、パロディとして書いてみた。おもしろいけれども今日的ではない、誰も読んではくれないだろう。ここでアメリカで見聞きしたことが生きてくる。  『蒲団』の主人公時雄と弟子芳子に対比して、アメリカ人の花袋研究家デイブ・マッコーリーと日本人学生エミ・クラカワを配する。明治と現代が交互に描かれる。妻の目で書いたパロディはデイブの作品『蒲団の打ち直し』として出てくる(この部分、書体に古めかしい教科書体を使用したのは編集者の手柄)。蒲団の打ち直しというタイトルがうまい。

 時雄は芳子とのあいだに性関係はないのだが、芳子が若い恋人と一泊旅行をしたというので煩悶し、国元の父親を呼びつけて連れ返させる。性関係があろうとなかろうと嫉妬するのは同じことで、デイブは性関係のあるエミに若い恋人ができたのがくやしくて、「Just because the younger lasts longer !」若い男は耐久時間が長いからねとひがむ(どこでこんな言葉をおぼえてきたのかな京子ちゃんは)。

 『蒲団』の評価は総じて低い。中村光夫は、この主人公が滑稽であり、作者がその滑稽さを認識していない稚拙な小説といい、福田恒存は《独創性も才能もなく、痴呆といっていいほどに外国に向かって気持ちを開いていただけの文学青年》と批判しているのに対し、中島はデイブの口を借りて《花袋が若き日に耽読した近世文学の江戸諧謔の伝統と、ドン・キホーテを祖に持つ小説を融合させて日本に近代文学をもたらした小説として、新しく日本文学史上に銘記される作品である》と擁護する。「恋をして、おたおたしている男って、ちょっとキュートじゃない?」とも言わせている。原作は読んでないが、中島に賛成。明治の作家はみんな江戸時代人であることを肝に銘じておくべきだろう。2001年に『英語襲来と日本人』(斎藤兆史、講談社選書メチエ)の中に「うつくしスピーキ(speak)もうやめさんせ恋にハイロウ(high low)あるじやなし」という都々逸を見つけたときも、これが与謝野晶子の「やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」に似ていると感じ、晶子の歌は女性の近代的自我の目覚めの現れのように言われるが、案外江戸情緒を下敷きにしているのではあるまいかとメモした。当たっているかどうかはわからない。

 

 『こっそり読みたい禁断の日本語』(朝倉喬司、洋泉社)

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 『五体不満足』は読む気しないけど、『笑え!五体不満足』(ホーキング青山、星雲社)は読みたくなる。『声に出して読みたい日本語』は読んでないけど、このタイトルを見たらすぐにでも読みたくなった。

 朝倉も齋藤を意識していて『声に出して……』を《「衰弱」をかこち、効能書き付きで売り出された「健康ドリンク」にみんなで群がっているような、ちょっと情けない光景である。/チイチイパッパじゃあるまいし、今さら「先生」の指示にしたがって口をパクパクやって、何が面白いんだという気もする。》と批判。《ときに「反社会的」とみなされて禁圧の憂き目にあってきたような日本語ばかりを、なるべく広い目配りで取り揃えたのがこの本である。》ええぞ! 大いに期待して読みはじめた。

 冒頭のソーラン節にビックリ。ソーラン節なら学校でも習うぐらいの文部省推薦だと思っていたらとんでもない、「沖のカモメと淋病のマラは、ウミをながめて涙ぐむ」「チンポチンポと威張るなチンポ、チンポオソソのつまようじ」そんなのばっかり。酷寒の海上で夜っぴて網を上げる作業は死と隣り合わせだ。ときとしてタナトスに引きずり込まれそうになる労働者たちを無事浜に返すためにはことさらエロスを強調して奮い立たせる必要があるにちがいない。即興で作られた無数の歌詞のうち340種が残り、その7〜8割はバレ歌とのこと。それを知らないとなかにし礼の石狩挽歌《ソーラン節に 頬染めながら/わたしゃ大漁の網を曳く》はわからない。

 だがあとに続く文章はさほど禁断とも思えない。

 かい人21面相の挑戦状《けいさつの あほども え おまえらあほか 人数 たくさんおって なにしてるねん》をとりあげるなら、酒鬼薔薇聖斗の《さあゲームの始まりです/愚鈍な警察諸君/ボクを止めてみたまえ》と対比してほしかった。前者のいかにこなれているか、後者のいかに稚拙であるかなどを分析してほしかった。

 荷風の「四畳半襖の下張」を評して、陰茎とか膣といった漢語を避けて「居茶臼」「気をやらせて」といった和語で統一させていることもこの作品のつややかな肌ざわりの源泉であると述べている。卓見だ。

 泉鏡花の「貧民倶楽部」という作品が面白そう。四谷の鮫ヶ橋といえば明治の東京では名うてのスラム街だったとのこと。実名かどうかはわからない。

 バナナのたたき売り。《四角四面の豆腐屋の娘、色は白いが水くさいってね、色が黒くて惚れ手がなけりゃ、山のカラスは後家さんばっか》これはつかえそう。

 

 『放送禁止歌』(森達也、光文社知恵の森文庫)

 フリーのテレビディレクター森達也が「放送禁止歌」という番組を製作、放送するまでのいきさつと、放送後の反響、特に部落解放同盟との関わりを書いたもの。《要するにテレビ業界においては、解放同盟は簡単には取材ができないタブーなのだ。「特別なコネでもあったのか?」とよく訊ねられる。何もない。同盟本部に電話をかけてアポイントして、一度出向いて番組の趣旨を説明して取材を要請しただけだ。即座にOKが出た。条件は一切なかった。》ひとりひとりが自分の頭でものを考えようとせずに横並び思考で判断してしまう現在のマスコミの状況を批判。青臭いほどひたむきな本で、言っていることもいちいちもっともなのだが、解同の抗議がこわくてみんなが臭い物にふたをするように自主規制してしまうけれどもじつは解同は話の分かるひとびとだったという内容であるだけに、単行本の発行元が解放出版社だというのがチト引っかかる。

  皇太子殿下がトイレにいるとき/美智子妃殿下がこう言った/「あなた早く コウタイシテンカ」
  天皇さまが散歩してて オナラをしたら/びっくらこえた皇后さまは「ヘイカ」
                            (岡林信康「ヘライデ」)

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 まあ、こんなのが放送禁止になるのは分からなくもないが、たいていはこの歌のどこが悪いのかと首を傾げざるを得ないようなものばかり。同じ岡林でも「チューリップのアップリケ」(うちが何ぼ早よ起きても/お父ちゃんはもう 靴とんとんたたいてはる……みんな貧乏が みんな貧乏が悪いんや/そやでお母ちゃんが 家を出ていかはった/お母ちゃん ちっとも悪うない)など名曲だと思うのだが。それにこの曲はラジオで何度も聞いたことがある。

 赤い鳥の「竹田の子守歌」(守りも嫌がる 盆から先にゃ/雪もちらつくし 子も泣くし)は、歌詞に在所という文字が含まれているため放送禁止になったという。在所が被差別部落の意味だからだというのだが、そうだろうか。名古屋にいたころ近所の年寄りはゼヤーショを実家の意味で使っていたように思う。

 60年代後半から70年代前半のフォークソング全盛期には、メッセージを歌詞全体の文脈から捉えたうえで放送禁止の枠をはめた(山平和彦「放送禁止歌」は「職業軍人 時節到来」とうたい、フォークルの「イムジン河」は「誰が祖国を 分けてしまったの」とうたったため)。しかし70年代後半以降は放送禁止用語の含まれている歌を不許可とするようになる(丸山明宏「ヨイトマケの唄」は土方という語を含んでいたため)。

 《民放連が一九五九年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」なるシステムが、放送禁止歌が存在する制度的根拠であり、規制の実体だ。ところがこのシステムの趣旨は、あくまでもそれぞれの放送局が、独自に放送するかしないかを判断する際のガイドラインでしかない。》しかもこの制度は1988年には完全になくなっている。《ところがテレビの制作現場の人間ですら、この経緯やシステムの意味を理解している者はほとんどいない。……誰もが「放送を規制するシステム」がどこかにあるものと思いこんでいた。》

 ディズニーのアニメ「ノートルダムの鐘」は添えられた英語もThe Bells of Notre Dameなので、アメリカでもセムシは放送禁止用語なのかと思ったら、なんとアメリカでは「The Hunchback of Notre Dame」のままだったという話が出てくる。配給会社のしわざ。

 「金太の大冒険」は、つボイノリオというひとの歌であることを知った。あれを20年ほどまえ初めて池袋のショウパブで聞いたときはひっくり返るほどおもしろかった。あとにもさきにも聞いたのはそのときだけ。でもそれまで給仕だった青年たちがいきなりバンドに早変わりして「金太待つ神田、金太待つ神田」と連呼するアングラの愉快さはいまでも忘れられない。