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 『モンテーニュ エセー抄』(宮下志朗編訳、みすず書房大人の本棚)

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 《若い人たちが浪費してくれるから、商人は商売が繁盛するのだし、麦の価格があがれば農民が、建物がこわれれば建築家がもうかるのだ。そして、裁判官や検察官だって、訴訟やもめごとがあればこそ、商売が成り立つのである。聖職者の名誉とか仕事にしても、われわれの死や悪徳のおかげではないか。》(一方の得が、他方の損になる)

 《悲しみには、いくぶんか快楽がまじっている。》《憂鬱さの奥底にも、なにかしら心地よい甘さがあって、われわれに笑いかけ、まんざらでもない気分にさせる。》《なくした友の思い出は、古くなったワインの苦みのように心地よい》《いかなる不幸にも、かならずうめあわせがある。いかにも望ましい満足感につつまれている人間を思い描いてみよう。たとえば、全身がいつも、セックスの絶頂のような快楽にしびれているといったことを想像してもよろしい。この男は、快楽の重さにぐったりきてしまうのではないのか。》《精神のするどい切れのよさとか、自在に動きまわるあたまの回転のはやさなどは、むしろ交渉を混乱させてしまう。人間のすることなのだからして、もっとおおざっぱに表面で取り扱って、その大部分は運命にゆだねるべきなのだ。ことを深く、緻密に解明することは無用だ。》(われわれはなにも純粋には味わわない)

 どれも膝をたたきたくなるような名言。鋭い観察力、深い洞察力といった評言が思い浮かぶ。飲み込むまえに舌先でころがし、鼻に抜ける芳香を味わいたい。秋の夜長にじっくり読めば興味は尽きないのだろうが、だけどなあ……。半分で挫折。一篇一篇が長すぎる。原文には改行すらないという。自費出版で出した本はこれだから困る。

 ソクラテスやプラトンならともかく、知らない人名がいっぱい出てくるのも読む気をそぐ。ギリシャ・ラテンに通じていなければ真に楽しむことはできない。キリスト教のしみこんだ頭でなければ西洋の文物を真に理解することができないように。

 

 『ラッキーウーマン――マイナスこそプラスの種!――(竹中ナミ、飛鳥新社)

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 現在アメリカでは障害者のことを The challenged というそうだ。《「神から挑戦という使命や課題、あるいはチャンスを与えられた人々」という意味がこめられていて、一五年くらい前から使われはじめました。「すべての人間には、生まれながらに自分の課題に向き合う力が与えられている。しかも、その課題が大きければ大きいほど、向き合う力もたくさん与えられている」という哲学にもとづいて生まれたそうです。》

 虫の息で横たわっている受傷間もないおれに向かって、見舞いにきた親父は「神様は試練に耐えられる者にだけ試練をお与えになるのだ」とクリスチャンらしいことを言った。これだろう。その言葉があろうとなかろうと全身麻痺は変わらない。しかし17年たったいまでもおぼえているくらいだからその言葉は信仰のないおれにも効きめがあったと言っていい。クリスチャンならなおいっそうあなたはチャレンジドなのだという言葉に慰められ勇気づけられるだろう。また世の中全体もチャレンジドという思想に沿って運営されることになるだろう。

 中学生のころから不良で、バーでひとりアブサンを飲んでいると、やくざふうの男に声をかけられる。水商売がしたいからお店を紹介してと自分から申し込んだが、椿ねえさんというトップホステスのところに預けられる。ふたりともじつにいい人間で、道を踏み外さないように導いてくれる。運がいい。15歳で同棲が高校にばれて放校に。豊富な人生経験が著者を大きくしたようだ。

 54歳。今年30歳の娘は生まれつきの重度重複障害者。《子どものころからレールを踏みはずしっぱなしで生きてきた自分が麻紀を授かったことで、「これでやっと大手を振ってレールからはずれることができる」と、不遜にも束縛から解放されたような気がした。》という。プラス思考というのだろうか。ボランティア活動に関わるときも、これをおぼえておいたらのちのち役立つからと思ってしただけだと功利性を強調する。行動力の原点は「私が死んだ後も、社会がきちんと、この子の面倒をみてくれるようになってほしい」との一念だった。

 プロップ・ステーションを主宰。プロップは支え合いの意。「チャレンジドを納税者にできる日本!」がスローガン。パソコンを使った在宅就労をめざしているようだ。

 ボイター法。《これは主に脳性マヒの子どもの正常反射を引き出すための訓練で、マットの上に赤ちゃんを寝かせて、母親が赤ちゃんの手足をしっかりつかんで、ハイハイのパターンに動かす。》これは以前テレビで見た。腹をこすってハイハイすることが脳の発達を促すというアメリカ人の発明した方法だった。えらく感心したものだが、その後あそこの病院はなおりそうな軽い患者しか引き受けないというかんばしくない風評もたった。麻紀さんのばあいは効果がないどころか逆効果だった。重症心身障害の子どもには逆効果であることをあとになって知る。

 全盲のひとは停電になってもいっこうに困らない。「差別というのは、どっちが多いか、少ないか、比率の問題なんや。数の多い、比率の高い人たちが、比率の少ないひとへの想像力を欠いて制度を作るから差別が起きるんやな」と気づく。

 《本当の意味での自立というのは、介助なしで生活できるようになることではなく、だれにいつ、どうやって介助してもらうかということも含めて、何事も自分の意思と責任で決め、人生という駒を自分で進めていくことやないかと、チャレンジドの人たちを見ていて思う。》

 アメリカでは国防のために開発された最先端技術を障害者が働けるようにとパソコンおよび周辺機器の開発につかい、ペンタゴンは毎年300人の障害者を訓練し採用(あるいは就職斡旋)している。なぜそれほど障害者支援に熱心なのかと幹部に尋ねると、「すべての国民が誇りを持って生きられるようにするのが、国防の第一歩だからです」ときっぱり言われる。思想が政策を決定しているのだ。日本なら「かわいそうだから」、せいぜい「人権だから」といった理由になるだろう。だがしかしこのりっぱな思想は同時にイラク侵攻も決定している。世の中はうまくいかない。

 

 「貧民倶楽部」(鏡花全集巻2、岩波書店)

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 大家は老人という思いこみがある。老作家にしてはテンポがはやいと思ったら明治27年21歳のときの作品。

 《六六館に開かるゝ婦人慈善会に臨まむとして、在原伯の夫人貞子の方は、麻布市兵衛町の館を二頭立の馬車にて乗出せり。》原文総ルビ。書出しの10行先でもう事件が起きる。路上で苦悶する屑屋を馬丁がつきとばして走り去る。慈善会に参加しようというひとの所行とは思われないから、ははあ貧富を対比して上流階級の偽善を引っぱがすという内容だなと見当がつく。ピカレスク・ロマン。

 主人公は四谷鮫ヶ橋の貧民街の美人お丹。鮫ヶ橋が実在の地名かどうかは不明。凄惨なほど貧乏な町として描かれる。お茶の水・麻布は高級住宅街で、慈善会は芝。江戸時代の土地柄がいまも連綿と続いていることが分かる。

 華族の虚飾をはぐのはいいけれど、ずいぶんやりかたがえげつない。当時の下層階級、犬殺し、エタ非人がほんとうにこんなに下品だったのか、華族がこんなに高慢だったのか。若い作家の思いこみもあるのではないか。

 何がバックボーンにあるのか知らないが、語り口は紙芝居のよう。作者が不用意に顔を出しすぎる。お屋敷に潜入させた秀の名が2度めに出てきたところで《名を秀といふ、何処かで聞いたことのあるやうな。》とやるのはまだしも、忍び込んできた犬に向かって秀が「じやむこう」と呼びかけた次の地の文で、《うわつ。》なんて叫んでいる。なんとこの犬はあの「じやむこう」であったのだと言いたいわけ。紙芝居のおじさんのおどかしだ。《三吉が膝とほぼ直角をなして(はてむづかしい形容だ、)打臥したる》いまの編集者なら改変を求めるだろう。

 そうかと思うと、それまでの展開からは理解できない文章をいきなり出して、すぐそのあとで種明かしをしてみせるというテクニックには虚をつかれるおもしろさがある。

 それにしても明治時代の貧乏ときたら酸鼻を極める。世の中の不平等を憤る青年作家の客気が好もしい。プロレタリア文学名作選を編むさいには欠かせない一篇。白戸三平が劇画にしたらおもしろかろう。

 

 『幹細胞に賭ける――夢ふくらむ再生医療の最前線はいま――(佐伯洋子、中央公論事業出版)

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 脊髄再生はもはや人と金を投入すれば実現する段階まできているようだ。

 受精卵の発生初期の胚から培養されるヒトES細胞 (human Embryonic Stem Cells、胚性幹細胞) は、人体のどのような細胞や組織にでもなることができる全能性を秘めている。これがあれば脊髄神経でもインスリン分泌細胞でも作れる。うまくすればおれの頸髄損傷も糖尿病も治ってしまうわけだから読書にも熱が入った。

 5人の専門家にインタビュー。いずれもES細胞の研究推進派。

 ひとつだけ研究者たちが気にしていることがある。それはヒトの受精卵からES細胞を取り出す点。受精した瞬間からもう人間だという立場に立てば、受精卵の破壊は殺人だ。さあどう考えるか――。

 イギリス、スウェーデン、シンガポールは賛成。ローマカトリック教会では、精子が卵子に入った瞬間から命が始まるとみなしており、フランス、ドイツなどカトリック教徒の多い国ではヒトES細胞の樹立は法で禁止されている(ところが、全面禁止の不利益を無視できないので、ヒトES細胞株を外国から輸入している。原子力発電は禁止するが、よその国が原発で作った電力は輸入してもいいというのと似ている)。日本、カナダ、オーストラリアは中間。

 受精卵は、体外受精をする不妊カップルからもらう。人工授精のさいは受精卵を一度に何十個も作るのだそうだ。妊娠出産に成功したあと、残りの受精卵は捨てられる。捨てるくらいなら重度障害に苦しむひとの役に立てたほうがいい、というのが推進派の意見。

 ジェリー・ザッカー(「ゴースト」の映画監督、若年性糖尿病の娘を持つ)は言う。「幹細胞から内部細胞塊を取り出すのが殺人なら、受精卵の大半を捨ててしまう不妊治療病院にはなぜ抗議しないのか。自然妊娠でも子宮に着床しない受精卵はたくさんある。それを殺人というひとはいない」

 映画監督らしいおもしろい表現もしている。「幹細胞テクノロジーは現代最高の先端科学技術だが、先端科学技術というものはいつも鬼っ子扱いされる。かつては、街灯に反対する人もいたわけです。夜を昼にしてしまうのだから、これは神の意思に反しているとか言ってね」

 みんながいだいている胚のイメージは不正確だとも指摘する。「幹細胞を抽出するのは、受精後4〜7日の胚(分裂をはじめた受精卵)。14日までは臓器・血液・神経などを形成していない。一般人に胚の絵を描かせると小さい胎児を描くが、じつは句読点より小さなものなのだ」

 ロビン・S・シャピロ(法学博士、ウィスコンシン医科大学生命倫理研究センター所長)も、「14日めまでの胚は、実際には1つの物体ではなく、まだ分化していない細胞の緩やかな集結物。14日をこえると、のちに脊髄になる原子線条があらわれる。ごく早期の胚は人間性を認める基準を満たしていない」としながら、また別の問題点も指摘する。「この幹細胞テクノロジーで重度の身体障害を治すことも可能と目されていますが、障害を持つすべての人にそれだけの金銭的余裕がなかったら、障害を抱えたまま生きていかざるを得ない人も出てきます」

 技術上の問題点もまだすべて克服されたわけではないようだ。ヒトES細胞は、あらゆる細胞になれる全能性と増殖能が高いという長所を持つが、しかし移植時期や部位によっては奇形腫瘍という癌が発生したり、免疫拒絶を起こすという短所がある。

 トーマス・P・ズワッカは相同組換え技術専門家。「ES細胞は、本性のままにしておくと培養皿でランダムに分化し、じつに多くの組織になる。異なる細胞系が混じり合ってしまう。癌の元。そこで相同組換え(ES細胞の遺伝子組換え)で標識遺伝子(マーカー遺伝子)を作り、治療用の細胞に印を付ける」治療用の細胞だけを培養液のなかで大量培養するわけだ。

 幹細胞は、胚だけではなく、成人の組織にも存在することが最近明らかになってきた。MAP細胞 (Multipotent Adult Progenitor Cells、成人多能性幹細胞) だ。これなら自分の体からとるのだから倫理的な問題も免疫の問題もない。ただESにくらべると培養のさいの増殖力が弱い。

 キャサリン・M・バーファエル(ミネソタ大学幹細胞研究所所長)は、MAP細胞の発見者。「ヒトES細胞はあくまでも胎児になろうとするので、毛も少し、歯も多少、腸もちょっと、骨も少々、という具合にすべてが混じり合って1つの小さな腫瘍を作ってしまいます」MAPには筋肉に注入すれば筋肉になるという利点があるようだ。

 なぜトカゲのしっぽは切れてもまた生えてくるのかということも本書で知った。傷の部位の細胞の分化が後戻りして幹細胞になり、そこから皮膚、筋肉、骨などを生じさせる。分化の後戻りと再分化がおこっている。