18(2004.11 掲載)

 『誰か「戦前」を知らないか――夏彦迷惑問答――(山本夏彦、文春新書)

   senzen.jpg
 雑誌「室内」連載。山本と部下の若い女性の戦前問答。インタビューの形をとっているが、テープ起こしをもとにほとんど書きなおしたにちがいない。「戦前戦中まっ暗史観」をただしたいというのがそもそもの企画意図。副題の意味が不明。部下の無知ぶりが迷惑ということか。とんちんかんな反応がひとつの呼び物になっている。

 「まっ暗史観」は社会主義者が言いふらした。なぜなら戦争中は牢屋に入れられ、転向しても特高に監視されていたから。戦後、転向しなかった者の天下になり、「古いものは悪い、新しいものはいい」と唱えて成功した。

 《山本 大正デモクラシーは正式には大正二年の新帰朝者東大教授吉野作造の「民本主義」から始まります。明治四十四年の大逆事件で社会主義は頓挫して地下にもぐりました。》民主主義では過激なので《窮して陛下を一番上に乗っけたまま人民に主権があることにしたのが民本主義です。》民本主義って民主主義の言い換えだったのか。こういう事情を知らないから本を読んでいてもよく分からないんだ。

 挨拶の喪失も大正デモクラシーの特色のひとつ。森鴎外のうちではお早うひとつ言わなかった。《我々が祝儀不祝儀の挨拶ができなくなったのは大正以来です。》喪失したといっても大人になれば挨拶しなければならない場面はどうしても出てくる。その定型がないのは落ち着かない。

 《西洋では「個人」が単位だから孝という言葉はない。わが国だって「孝」には音オンだけがあって訓がない。(シナからの)外来思想です。》訓のないものは、漢字渡来以前は日本にはなかったものと言っていいだろう。恋はあっても愛はない、罪はあっても罰はない。

 税金の話もおもしろい。《山本 戦前は不動産(土地家屋)を持たない人は税金を納めなくてよかった。地主、財閥、富豪からとって、百円二百円の月給取は土地を持っていなければ税金は一銭も払わなくてよかった。/――夢のようですね。/山本 浅はかなことを言うな。その代り健康保険も失業保険も厚生年金も何もない。ために家族主義があったのだ。老人の世話は長男がした。》

 《――手形ってよく分からないんです。/山本 経理で見せてもらうがいい。手形はフィクションです。例えば、トーハン(東販)から五千万円の手形をもらったとする、三ヶ月先付サキヅケです。それをあてにして三ヶ月さきの千万円の手形五枚振出したとします。トーハンが無事ならいいが、万一不渡りになったら、自分の振出した手形も不渡りになる。》なるほどそういうことだったのか。これで連鎖倒産の意味も分かった。しかしどうしてトーハンのような大企業が手形で払わなければいけないのだろう。3ヶ月銀行に預けたって利息も付かない。むかしは付いたんだなきっと。

 《――山本さんは寿司は何がお好きですか。/山本 好きなものはありません。死ぬまでのひまつぶしに食べているんです。/――またそういうやけくそを仰有る。正直に白状なさってはどうですか。うわさではトロがお好きだとか(笑)。》死ぬまでのひまつぶしというせりふは山本を読んでいるとちょくちょく出くわすもので、読者はつい本気にしてしまうが、ひごろ接している部下の女性は「また言ってるわ」てなもんだ。おそらく真実は中間にあるのだろう。そういえば欣一じいさんの『比島投降記』(中公文庫)を読んだときのことを思い出す。冷静で穏和なジャーナリストの目でとらえた捕虜生活がとてもおもしろかったので、まだ健在だったエイおばあちゃんに電話して感動を伝えると、90近いおばあちゃんは「ああ、あれね。あの本は戦争で負けてしょげてるころ書いたものだからああいう感じになったのよ。自分をずいぶんいいひとのように書いてるけど、そんなにいいひとじゃなかったわよ」と少しかれた声で言った。おかしさがこみあげてきた。ひとみなかざっていう。作者の身近にいるひとの見かたは読者のものとはちがうのだ。

 《最後まで東京で食うに困らなかったのは隣組の組長たちです。お上は配給を隣組にまかせた。月に何度か集ってまず自分たちが物々交換したあとを配給しました。公定価格の交換ですから俯仰フギョウ天地に愧ハじません。もう一つ隣組の常会は中年男女の交際の場です。酒屋や米屋の主人や主婦に美男美女がいるはずがないと思うのはインテリの思いあがりです。むろんいるでしょう。だから常会というと主婦はいそいそと出かけたのです。》これにはいろいろなことを考えさせられた。世の中表面の現象だけ見ていても分からない、どういう気持ちでそれをしているのかを見なければならぬ。イギリスの上流夫人たちのあいだでボランティア活動が始まったときも、それは家の奥に閉じこめられていた夫人たちが外へ出る口実でもあったという説を読んだことがある。男女交際が目的でボランティアをはじめるという単純な動機ではなかろうが、それも少しまじっているということだろう。

 《西鶴は好色一代男一作なんです。あとはぜんぶ弟子が書いたって、森銑三さんが何度も書いて、黙殺されました。なぜかっていうと西鶴を研究して博士になった人がいる、教えてる人がいる、そういう人が飯の食い上げになる、だから一理あっても認めることはできない。》ほかの作品には西鶴が絶対使わない字が出てくるから贋作代作と分かる。たとえば山本はタキシーと書いてタクシーとは書かない。

 新聞配達の少年にお年玉を与える風習があったという。いいなあこれ。早起きはできないからポストに「新聞配達さんへ」と「郵便配達さんへ」と書いたお年玉袋を張っておこう。中身は500円玉。

 

 『ひらがなでよめばわかる日本語のふしぎ』(中西進、小学館)

   nihongo.jpg
 目次の組が変わっている。自由闊達なやわらかい組み方。担当編集者は女だなと思いながら目次の裏をめくると、装幀者とならんで本文デザイン佐の佳子とある。大手の出版社は本文の組み方まで外部に依頼するのか。嘆かわしい。30年前集英社でアルバイトしていたとき、オビのコピーを外注するのを見て驚いた。その本のことをいちばんよく知っているのは担当編集者ではないか。この本と著者をなんとしても世に出したい、より多くのひとに読んでもらいたいという思い入れがもっとも強いのが担当編集者であるはずだ。それがコピーは書かねえ、レイアウトはしねえで、じゃあいったい何をやるんだ。

 朝日の書評欄でこのタイトルと著者を見たとき、これだと思った。やっと巡り会えたという気がした。やまとことばの分析をとおして古代日本人の精神構造を探ろうとするこころみ。白川静が漢字の成立ちに古代中国人のそれを探ろうとしたのと似ている。ひとは淵源を求めてさかのぼりたくなるものなのだろう。中西と白川の対談が読みたい。

 ドッグイヤーだらけで引用するのが大変。エッセンスを一言でいえば、「似ていることには意味がある」。

 鼻、花、端はみな「はな」と発音する。鼻は顔のトップにあるもの、花は枝のトップにあるもの、端は岬や物事のトップにあるもの。トップにあるものを古代日本人は「はな」といった。《漢字では「鼻」「花」「端」と、さまざまに書き分けますが、まずどう発音するのかを考えることが大切です。私たちはつい、どういう漢字を書くのかを気にしがちです。民俗学者の柳田国男(一八七五−一九六二)は、「どんな字を書くの」と尋ねることを“どんな字病”と名づけ、警告しました。》《機能・作用・働きによってことばを与えるのが、本来の日本語の性質です。》

 《一般的に、春は芽が張るから「はる」なのだとされていますが、私は、「張る」「晴る」「墾る」を区別してはいけないと思います。冬が去って春がくると、空が明るく晴れ、心は昂揚し、草木は芽ぐみ、身体活動は盛んになる。そういう時期を「はる」と名付けた、と考えるほうが自然ではないでしょうか。》

 漢字をあてたために日本語のもとの意味がわかりにくくなってしまうことがある。「あきらめる」はもともと物事の状態を明らかにするよう努力し、もうこれ以上はできないというところでやめること。明の字をあてるべきことば。それに諦という漢字をあてたため、物事を投げ出すようなイメージになってしまった(似ているのが英語のギブ・アップ。あることを成しとげるため八方手を尽くし、もうこれ以上ギブできないところまでまできてアップすること)。それにしても、いくつかの不適切な例があるとはいえ、やまとことばに対する漢字のあてかたはほとんど適切といえる。どういうひとびとが符合作業にたずさわったのだろうか。このあたりの苦労話を王仁と千字文伝来をテーマにして誰かが小説に書いてくれないものだろうか。王仁と千字文では取っつきにくいというのであれば、あるいは太安万侶が古事記を編纂するさいの苦労話のエピソードとして、ああ、今でさえこんなに大変なのに王仁さんのころはいかばかりであったであろうと昔をしのぶのだ。もしこれを児童書にできたらそれこそ文学賞ものだ。

 「を」と「お」のあいだにはおもしろい関係がある。老いたもの、下向きのものは「お」=おきな、おうな、おゆ、置く、落つ、劣る。若いもの、うわむきのものは「を」=をとこ、をんな、をとめ、をさない。

《「おもふ」の「おも」は「おもい(重い)」の「おも」と同じで、心の中に重いものを感じることが「おもふ」です。「あの人を想う」といえば、ずしりと心に抱いた重みが下がってくる、何となく、晴れやかでない気持ちをいいます。》

 「け」はぼんやりと漂うものという意味。《「けはい」ということばがあります。古語は「けはひ」ですが、後ろについている「はひ」は「延ふ」で、長く続くという意味です。ですから「けはひ」とは、何となく漂っている「け」がだんだんと延びて、こちらに近づいてくる、そういう状態だとわかります。漢字では「気配」と書きますが、「配」はあて字です。》もとの意味が分かるような表記をしたい。こずえは梢と書くが、キのスエだからコズエと呼ぶのだとすれば、木末と表記すべきではないのか。配の字に意味がないなら「気延い」とすべきだ。

 《ちなみに延縄ハエナワ漁業の「延」も、この「はひ」と同じで、網を長くのばし広げるから、延縄といいます。》この一節は中西の勘違い。延縄漁業では縄は延ばしても網は延ばさない。先生に延縄の絵を描かせたら、おそらく刺し網の絵を描くだろう。

 もう一つ異議を唱えたい箇所がある。万葉集の「春日野に しぐれ降る見ゆ 明日よりは 黄葉モミジかざさむ 高円タカマドの山」の解釈を「春日野に時雨が降るのが見える。明日からは黄葉を挿頭カザシにして遊ぼう、高円の山よ」としているが、それでは歌の意味が分からない。かざさむは呼びかけではなく推定ではないか。時雨が降るほど寒いから高円の山もかんざしを挿したように部分的に黄葉するにちがいないというふうにおれにはとれる。万葉学者相手にいい度胸だけどな。

 万葉集では「わがやどの」のあとにはかならず植物名が来る。「わがやどの梅」「わがやどの花橘」など梅や橘を庭に植えるのは位の高いひと。庶民は「わがやどの尾花」。身分によって着るものがちがうということは知っていたが、庭の植物までとは。

 今と昔でニュアンスの異なることばがある。《「かしこ」は、威力や霊力のある偉大な人やものを畏オソれ敬うことで、……「かしこい」男だというと、恐れおののく気持ちと、あがめ敬う気持ちが同居します。》万葉集の「おほきみの みことかしこみ」を戦時中は右翼が「天皇のご命令が尊いので」と訳し、戦後は左翼が「天皇の命令が怖かったので」と訳したが、本来分けて考えることはできない。似たような事情が「やさしい」ということばにもある。元になったのは「痩す」。《相手に対して、自分が痩せるような思いをすること、それを「やさしい」というのです。……人格がすぐれていたり、地位が高くて裕福な人を相手にした時、何だか肩身が狭く、恥ずかしくなったり気が引けたりして、身の細る思いをするでしょう。そういう気持ちを表わすのが「やさし」でした。》「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」が例証。現在の用法とは主客が転倒している。外骨が陛下という単語の用法をみんなまちがえていると指摘したのも、主客の転倒だった(陛下とは陛キザハシの下にいる己を指す語なのに、その自称を他称に変えて尊敬語としているのは可笑しいと「字義から言う屁理屈集」で述べている。社会は痴呆タワケの寄合いとまで言うから、そりゃ言いすぎじゃないかと思ったが、時代を経るうちに主客が転倒する事実があるとすれば、やはり外骨の意見が正しいということになるか。

 応神天皇のころ(4世紀)百済の王仁ワニが論語と千字文を伝えたのが漢字渡来のはじめ。伝来した漢字すべてに対応するやまとことば(すなわち事物)があったわけではない。現在麦は音がバクで訓がムギだからといって、麦が日本にあったと思うのはまちがい。ムギはバクの変化形なのだから。もっとびっくりするのは、カミ(紙)は簡の変化形という話。紙の渡来以前に使われていた木簡・竹簡をカミと呼んでいた。簡の発音は kam だが日本人はこれが発音できずカミと発音していた。紙(シ)が入ってきたとき、それまでの文房具カミにならって紙をカミと呼んだ。文もまた bum もしくは fum だったが発音できず「ふみ」と発音していたとのこと。

 最終章の「ことばは国境を越える」という短文を読むと、やっぱりなあという感慨をいだく。ハ行はゆらゆらと揺れる語感を持つ。はね、はらはら、ふる……。蝶は古代日本ではピピル、パペルと呼んでいた。これはもともとサンスクリットの pil にはじまる。英語にはいってフライ、フランス語にはいってパピヨンになった。ギリシャ語のプシュケーは蝶でもあり魂でもあるように、日本でも蝶は魂の化身であった。《これほどに共通した精神をもち、ことばを生んでいくことに、私は人間の普遍性を見る思いがします。人間の普遍性と、文化の固有性を見きわめることが大切でしょう。》ということばで本書をしめくくっている。

(以上2003年30冊)