20(2005.1 掲載) Yさん、あなたが好きだといってeメールで送ってくれたワーズワースの「水仙」、翻訳してみました。読んでください。 Daffodils
I wandered lonely as a cloud
Continuous as the stars that shine
The waves beside them danced; but they
For oft, when on my couch I lie
「水 仙」
銀河のうえで絶え間なく
岸辺の波も踊れり、されど
臥し処に我が身を横たえて William Wordsworth(1770〜1850、イギリスの湖畔詩人)。翻訳後これで正しいのかどうか気になり、図書館で訳書を探しました。『ワーズワース詩集』(前川俊一訳、弥生書房)にはこうあります。
「水 仙」
銀河にひしめいて
まわりの波もおどっていた。しかし彼等の歓〈ヨロコ〉びようは
というのは、茫然と、また思いに沈んで ほとんど同じですが最後が異なる。「彼等は、孤独のよろこびである/内心の眼にひらめくのだ。」これはどういう意味なのだろう。Which is the bliss of solitudeが inward eye にかかると解釈しているのでしょうね。しかし内心の眼は孤独の歓びたりうるでしょうか。それよりWhichは前3行を受けた関係代名詞ととらえたほうが自然ではないかと思います。ただ私はワーズワースをこの1篇しか読んでない。たくさん読めばほかの詩に内心の眼を孤独のヨロコビとする思想が表現されているのかもしれません。 前川訳はまったく原詩の脚韻を無視しています。原詩の各連は、a, b, a, b, c, c の脚韻を踏んでいますね。たとえば第1連は、「アウド、イルズ、アウド、イーズ、イーズ」というように。日本の詩に脚韻を踏む伝統はないから、それをうつすことは困難ですが、わが邦には七五調というものがある。いささか古めかしいけれども私が七五調で訳したのはそのためです。ワーズワースは江戸時代のひとですしね。それではまたメールください。
追記。後日図書館で『『パロール』抄』(北川冬彦訳、有信堂)という本を見つけた。北川は明治33年生、東大仏文科中退。北川と翻訳対決だ。 LA BELLE SAISON
A jeun perdue glacee
「美しい季節」 8月15日は聖マリア被昇天祭。女の子は死んでしまうのだろう。
「すばらしい季節」(北川訳) glacee 1語で「身をおとした 無表情な」と訳してしまうのがすごい。売春婦だとは思わなかった。8月だから「凍りつく」よりそのほうがふさわしいかもしれない。「少女」に6つも形容詞をくっつければ、一太郎なら即刻《修飾語の連続》と赤い字で警告してくるが、あえて日本語上の暴挙をおかしてまでも訴えたいやむにやまれぬ訳者の思いがつたわってくる。LA BELLE SAISONを単に「美しい季節」と訳すのでなく「すばらしい季節」と訳したところも、このような若い娘をむごい目にあわせていいのか、祭りだ祭りだと浮かれてるばあいじゃないだろうというプレヴェールの抗議や皮肉をよく表現し得ている。この詩は北川の勝ち。 ALICANTE
Une orange sur la table
「アリカンテ」 ALICANTE の意味不明。『クラウン仏和辞典』CD版には載ってない。主人公が女なのか男なのかに悩む。ALICANTEが女の名前なら主人公は男だろう。robeはドレスとすべきかガウンとすべきか。chaleurに雌のさかりという意味があるのをみつけ、女と解釈した。そのほうが刺激的。Doux present du presentがもっとも難物だった。韻を尊重した。食卓から絨毯、ベッドへとカメラがパンしていく、映画のような趣をねらった詩だろう。 オレンジ、ガウン、ベッドと、フランス語を翻訳するのに英語をもってするというのはわれながら滑稽。日本がフランスに占領されていれば逆の現象が起きただろう。 白水社の『仏和大辞典』をひいたら alicante が出ていた。アリカンテぶどう酒。辞書は大きいのに限る。『仏和大辞典』もCD化してほしい。紙の辞書は人手をたのまなければならないから大変。もっとも判明したところで男女の区別はつかなかったが。 アリカンテぶどう酒の宣伝のために作った詩だろうか。谷川俊太郎がネスカフェのために「朝のリレー」を書いたように。
「アリカンテ」(北川訳) 《アリカンテ=スペインの町》と注がある。北川もやはりテーブル、オレンジ、ベッドと英語を使っている。内心忸怩たるものがあっただろう。男性視点の詩とすることにためらいはなかったのだろうか。「いまのたのしい贈物」はわかりやすいが、原詩の遊びは生かされてない。「わたしのいのちのあつあつ」という子供めいた訳ははそれを補おうとする心理がはたらいたのだろう。しかしFraicheurとChaleurを対句にして官能のよろこびを表現しようとするプレヴェールの意図は訳しておきたい。この詩はおれの勝ち。
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