20(2005.1 掲載)

 Yさん、あなたが好きだといってeメールで送ってくれたワーズワースの「水仙」、翻訳してみました。読んでください。

   Daffodils

 I wandered lonely as a cloud
 That floats on high o'er vales and hills,
 When all at once I saw a crowd,
 A host, of golden daffodils;
 Beside the lake, beneath the trees,
 Fluttering and dancing in the breeze.

 Continuous as the stars that shine
 And twinkle on the milky way,
 They stretched in never-ending line
 Along the margin of a bay:
 Ten thousand saw I at a glance,
 Tossing their heads in sprightly dance.

 The waves beside them danced; but they
 Out-did the sparkling waves in glee:
 A poet could not but be gay,
 In such a jocund company:
 I gazed--and gazed--but little thought
 What wealth the show to me had brought:

 For oft, when on my couch I lie
 In vacant or in pensive mood,
 They flash upon that inward eye
 Which is the bliss of solitude;
 And then my heart with pleasure fills,
 And dances with the daffodils.

  「水 仙」
 谷間や丘の空高く
 ひっそり浮かぶ雲のごと
 独りさまよい湖畔に出れば
 木々のもとなる金色の
 水仙ふいにわが目に入れり
 そはそよ風に揺れて踊りぬ

 銀河のうえで絶え間なく
 瞬き輝く星のごと
 岸辺に沿いて果てしなく
 水仙はるかに延びつづく
 無慮1万の花々が
 陽気に頭を振り立てる

 岸辺の波も踊れり、されど
 水仙歓喜で波をもしのぐ
 かくも愉快な仲間とともに
 あれば詩人の憂いも晴れぬ
 ひたすら見つめて思わざり
 この演し物のもたらす富を

 臥し処に我が身を横たえて
 うつろな愁いに沈むとき
 水仙まぶたに甦る
 そは独り居の至福なり
 こころは歓喜に満ちあふれ
 水仙とともに踊るなり

 William Wordsworth(1770〜1850、イギリスの湖畔詩人)。翻訳後これで正しいのかどうか気になり、図書館で訳書を探しました。『ワーズワース詩集』(前川俊一訳、弥生書房)にはこうあります。

  「水 仙」
 谷や丘の上たかく浮ぶ雲のように
 私はひとりさまよいあるいていた。
 そのときふと目にしたのは
 金色の水仙の大群が
 湖〈ミズウミ〉のほとり、木立の下で
 そよ風にひるがえりおどるさま。

 銀河にひしめいて
 ひかりまたたく星屑〈ホシクズ〉のよう
 彼等は入り江のふちにそって
 目路〈メジ〉のかぎりつらなっていた。
 一目見てざっと一万の花が
 頭をふり立て陽気におどっているのだ。

 まわりの波もおどっていた。しかし彼等の歓〈ヨロコ〉びようは
 きらめく波を上まわっていた。
 このようにたのしげな連中に出逢っては
 詩人もこころうかれざるを得ない。
 私はただ見とれていたが、その眺めが
 どのような富を私にもたらしたか、気付かなかった。

 というのは、茫然と、また思いに沈んで
 臥しどに身をよこたえるとき
 彼等は、孤独のよろこびである
 内心の眼にひらめくのだ。
 すると私の心は歓びにあふれ
 水仙とともにおどるのだ。

 ほとんど同じですが最後が異なる。「彼等は、孤独のよろこびである/内心の眼にひらめくのだ。」これはどういう意味なのだろう。Which is the bliss of solitudeが inward eye にかかると解釈しているのでしょうね。しかし内心の眼は孤独の歓びたりうるでしょうか。それよりWhichは前3行を受けた関係代名詞ととらえたほうが自然ではないかと思います。ただ私はワーズワースをこの1篇しか読んでない。たくさん読めばほかの詩に内心の眼を孤独のヨロコビとする思想が表現されているのかもしれません。

 前川訳はまったく原詩の脚韻を無視しています。原詩の各連は、a, b, a, b, c, c の脚韻を踏んでいますね。たとえば第1連は、「アウド、イルズ、アウド、イーズ、イーズ」というように。日本の詩に脚韻を踏む伝統はないから、それをうつすことは困難ですが、わが邦には七五調というものがある。いささか古めかしいけれども私が七五調で訳したのはそのためです。ワーズワースは江戸時代のひとですしね。それではまたメールください。

 

 『Paroles』(Jacque Prevert, Gallimard)

   paroles.jpg
 ジャック・プレヴェールの『パロール』を辞書を引き引き読みはじめる。parole は parler の名詞形だろう。話しことば、あるいは歌詞、あるいは口語詩、いずれがふさわしいのかまだ分からない。長いのはホネだから短いものだけ訳してみようと思う。

 追記。後日図書館で『『パロール』抄』(北川冬彦訳、有信堂)という本を見つけた。北川は明治33年生、東大仏文科中退。北川と翻訳対決だ。

   LA BELLE SAISON

  A jeun perdue glacee
 Toute seule sans un sou
  Une fille de seize ans
   Immobile debout
 Place de la Concorde
  A midi de Quinze Aout

  「美しい季節」
  空腹のみなしごひとり
 文なしで凍りつく
  16歳の女の子
   コンコルド広場に
  立ちつくす
  8月15日、真昼

 8月15日は聖マリア被昇天祭。女の子は死んでしまうのだろう。

  「すばらしい季節」(北川訳)
 朝からなにもたべてない 身をおとした 無表情な
 まったく寄るべのない 一銭も持ってない
 十六歳の少女が
 じっと立っている
 コンコルド広場で
 八月十五日の正午のこと。

 glacee 1語で「身をおとした 無表情な」と訳してしまうのがすごい。売春婦だとは思わなかった。8月だから「凍りつく」よりそのほうがふさわしいかもしれない。「少女」に6つも形容詞をくっつければ、一太郎なら即刻《修飾語の連続》と赤い字で警告してくるが、あえて日本語上の暴挙をおかしてまでも訴えたいやむにやまれぬ訳者の思いがつたわってくる。LA BELLE SAISONを単に「美しい季節」と訳すのでなく「すばらしい季節」と訳したところも、このような若い娘をむごい目にあわせていいのか、祭りだ祭りだと浮かれてるばあいじゃないだろうというプレヴェールの抗議や皮肉をよく表現し得ている。この詩は北川の勝ち。

   ALICANTE

 Une orange sur la table
  Ta robe sur le tapis
   Et toi dans mon lit
 Doux present du present
  Fraicheur de la nuit
   Chaleur de ma vie.

  「アリカンテ」
 食卓にオレンジひとつ
  絨毯にあなたのガウン
   ベッドにはあなたとわたし
 いまこのときのあまいときめき
  夜の涼しさ
   いのちのほてり

 ALICANTE の意味不明。『クラウン仏和辞典』CD版には載ってない。主人公が女なのか男なのかに悩む。ALICANTEが女の名前なら主人公は男だろう。robeはドレスとすべきかガウンとすべきか。chaleurに雌のさかりという意味があるのをみつけ、女と解釈した。そのほうが刺激的。Doux present du presentがもっとも難物だった。韻を尊重した。食卓から絨毯、ベッドへとカメラがパンしていく、映画のような趣をねらった詩だろう。

 オレンジ、ガウン、ベッドと、フランス語を翻訳するのに英語をもってするというのはわれながら滑稽。日本がフランスに占領されていれば逆の現象が起きただろう。

 白水社の『仏和大辞典』をひいたら alicante が出ていた。アリカンテぶどう酒。辞書は大きいのに限る。『仏和大辞典』もCD化してほしい。紙の辞書は人手をたのまなければならないから大変。もっとも判明したところで男女の区別はつかなかったが。

 アリカンテぶどう酒の宣伝のために作った詩だろうか。谷川俊太郎がネスカフェのために「朝のリレー」を書いたように。

  「アリカンテ」(北川訳)
 テーブルの上に オレンジ一個
 絨毯の上に おまえの着物
 わたしのベッドのなかに おまえ
 いまのたのしい贈物
 夜のみずみずしいこと
 わたしのいのちのあつあつ。

 《アリカンテ=スペインの町》と注がある。北川もやはりテーブル、オレンジ、ベッドと英語を使っている。内心忸怩たるものがあっただろう。男性視点の詩とすることにためらいはなかったのだろうか。「いまのたのしい贈物」はわかりやすいが、原詩の遊びは生かされてない。「わたしのいのちのあつあつ」という子供めいた訳ははそれを補おうとする心理がはたらいたのだろう。しかしFraicheurとChaleurを対句にして官能のよろこびを表現しようとするプレヴェールの意図は訳しておきたい。この詩はおれの勝ち。