22(2005.3 掲載) 『動物と人間の世界認識――イリュージョンなしに世界は見えない――』(日高敏隆、筑摩書房)
客観的な世界などない、著者はしきりにそれを強調する。《われわれは「動物」と違って色眼鏡なしに、客観的にものを見ることができると思っている。そしてできる限り、そのようにせねばならないと思っている。しかしこれは大きな過ちである。》 ユクスキュルの絵というのが掲載されている。ヒトにとっての応接間、そこにはテーブル、食べ物、飲み物、電灯、椅子、本棚などさまざまなものが置いてあって、これをわれわれヒトは客観的な環境と信じて疑わない。だが、イヌにとっては食べ物、飲み物に最も強い関心があるのでそれはくっきりと描かれるが、あとのものは灰色に描かれる。椅子やソファーはさらに薄い灰色になる。そこへ飛んできたハエにいたっては、電灯に照らされた食べ物と飲み物しか見えない。 そんな唯心論では科学を研究することはできないと発表当時は総スカンを食ったが、動物行動学では、《その動物が何を認識し、世界をどう構築しているかということを考えなければ、われわれはその動物のやっていることは理解できないはず》という理屈から、ユクスキュルの環世界論が重い意味を持つようになってきた。 いまや環境に関心があるといえばいちおう知的で優しい人間という評価を得られるが、それがいかに身勝手なものか。《緑の木も毛虫がつかない木のほうがよく、秋の落ち葉に手のかからないことが望まれる。夏にホタルが飛んでくれたら最高だが、カやハチはいてほしくない。人びとが価値を与えるのは、そのように限定されたものに対してである。/そうなるとこのような人間にとってよい環境は、チョウとかトンボとかテントウムシ、小鳥などにとっては、決してよい環境ではない。このような動物たちにとってこの場所は、自分たちの環世界を構築しえない環境であろう。われわれが何気なく「環境」ということばを口にするとき、そこにはつねにこのような環世界の問題が関わっているのである。》 まあそうはいっても環世界なんて日常生活にはあまり関係のない話なんじゃないかなとのんびりしていたら、衝撃的な話が出てきた。親ドリにとってヒナの鳴き声がいかに重要かというローレンツの実験。耳を聞こえなくしたシチメンチョウのメスは、交尾も出産も孵化も問題なくこなしたが、かえったヒナをつぎつぎに殺してしまった。《この親ドリの環世界の中では、声を出さないで動き回る小さなトリというものは自分のヒナであるという意味を持たない。それは何か怪しげな侵入者である。それで、親ドリはそのヒナをつつき殺してしまうのだ。》 耳の聞こえる親ドリでおこなった実験は、もっと凄い。ヒナをねらってイタチがやってくると、親ドリはわが身を挺してでもイタチに立ち向かって追い払う。ところがイタチの腹にスピーカーをつけてヒナの鳴き声を流してやると、《その親ドリはいちばん恐ろしい敵であるイタチをちゃんと巣の中に招きいれ、あたかもヒナを暖めるように翼を開き、羽の下に這いこませようとしてやったのだそうである。》 これは確かに環世界という概念の重要性を証明するための説得力に富んだ例証だ。ヒトはシチメンチョウより理性や想像力が強いから鳴き声だけで極端に行動を左右されることはないが、なんらかの要素が不足したり過剰になったりすれば、異常な行動に出ることは類推できる。われわれは「耳」が聞こえなくなってはいないだろうか。幼いものたちが悲鳴を上げているのに気づかないでいるのではないか。カやハエを撲滅したために、それらを餌にするトンボもいなくなった。ヤンマを狙って川べりで息をひそめる興奮をいまの子供は味わえない。キリギリスに食いつかれる痛みを感じることなくまともな大人になれるものだろうか……。素足で地面を踏むことがヒトにとって環世界を形成するうえで必須の条件であったとすれば、もはやわれわれの環世界はいびつなものになっているはずだ。忍びこんできたイタチを歓待してはいないだろうか。 著者がむかし朝日新聞夕刊の「日記から」という連載コラムに書いていたことを今でもよく覚えている。もう30年ぐらい前だったか。メスの性フェロモンが遠くのオスを呼び寄せるというが、本当にそうだろうかという内容だった。本書では、やっぱりにらんだとおりだったという自慢話が披露されている。《何キロメートルも遠くの風下にいるオスを誘引するのであれば近くにいるオスはどうするのだろうか?》アメリカシロヒトリのオスはメスの風下2メートル以内をたまたま飛んだときだけ引き寄せられる。それまではまったくランダムに飛び回っているだけだという事実を突き止める。世界的な発見だったのではないだろうか。そこまで自慢してないのでわからないが。 モンシロチョウのオスは、メスの翅(ハネ)の裏が反射している紫外線と黄色の混ざった色をメスの信号として認知している。ヒトとモンシロチョウでは同じ花を見ても違った色を見ている。《紫外線の悪い化学的作用を避けるために、人間の目のレンズ(水晶体)は紫外線を通さないようにできている。》だから見えない。 世界を認知し構築する手だてを著者はイリュージョンと名づけた。しかしイリュージョンといえばわれわれはどうしても引田天功を連想してしまうのではないか。学者はそんな10年後には消えているようなくだらないことに配慮する必要はないという方針なのだろうが、読むのはまずわれわれなのだからなあ。世界観でいいんじゃないか。世界観というと、客観的な世界というものが厳然とあって、それをどうとらえるかは人それぞれ、という一神教的ニュアンスになってしまうと恐れたのだろうか。蝶の世界観、いいと思うんだけど。 タイトルも装丁も素っ気ない。まるで大学の紀要のようだ。せっかく装丁に菊地信義を起用するのだったらもう少し楽しくしたい。『蝶瞰図――動物と人間の世界認識――』として、オスのモンシロチョウが見たメスの映像をあしらうのだ。科学的にいえばそれを知ることは不可能だが、不可能なだけにかえって何をやってもよく、ちょっとサイケなグラフィックにしてみたらおもしろいだろうに。
Je suis all
「恋人よ君のために」
どういう意味だこれは。目をつけていた女奴隷を一足先に買われてしまったということか。je t'ai cherch
「恋人よ おまえのために」(北川訳)
わたしは 花の市(イチ)へ出かけた
わたしは 屑鉄の市(イチ)へ出かけた
それからわたしは 奴隷の市(イチ)へ出かけた
「そして 鎖を買った 重い鎖の」は日本語として不自然。原詩にない行アキをして4行4連にわけたところは、一見乱暴に見えるが、わかりやすい。翻訳者は外国文化の解説者でもあるから、このような形で詩のしくみを分析してみせるのも許されるだろう。鳥市場より鳥の市のほうが、また君よりおまえのほうが趣がある。「わたしは」と「そして」をくりかえしたのも、頭韻をうつす意図からだろう。北川の勝ち。
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