23(2005.4 掲載) 『裁判長!ここは懲役4年でどうすか――100の空論より一度のナマ傍聴――』(北尾トロ、鉄人社)
「どうすか」が内容を象徴している。鉄人社発行月刊「裏モノJAPAN」に連載した「人生劇場」を単行本化。本扉の裏からいきなり本文が始まる。扉・本文共紙、ということは本文が扉なみに厚く、めくりにくい。ツカを出すための方策か。それなら本文の行詰めを減らせばいいのに、ノドまでぎっちり組んである。これまたえらく読みにくい。雑誌屋さんが本を作ると得てしてこういうことになる。きっと本屋の作った雑誌を見て雑誌屋も同じことを言っているのだろうが。 編集者から裁判傍聴記の企画を持ちかけられ及び腰で傍聴にのぞむが、すっかり病みつきになる。成立過程が『こんな夜更けにバナナかよ』に似ている。そういえばタイトルの雰囲気も似ている。 刑事でも民事でも裁判はすべて傍聴できることになっている。以前ラジオで佐木隆三が、傍聴人がいたほうが裁判長以下関係者がみんなはりきるといっていた。著者はそれを具体的にルポしている。強制ワイセツ、すなわちチカン事件の裁判に女子高生の集団が傍聴に来る。《裁判官や検察官、弁護士も人間。傍聴席がスカスカなのと満席なのとでは、テンションが違って当然。それが女子高生なら張り切ってくれるだろう。被告にかかるプレッシャーも相当なものになるはずだ。》 佐木隆三といえば、著者の見かけた氏は緊迫した裁判の前にもかかわらず担当記者らと大きな声で談笑していたと批判。オウム裁判もいまや傍聴しているのは江川紹子だけで、有田某も二木某もいやしないと悪口。 著者は主に刑事裁判を追いかける。民事よりドラマチックだから。しかしなかなかテレビドラマのような丁々発止の場面には遭遇しない。被告の顔を見ればもうヤったかヤってないかすぐわかってしまうもののようだ。《視線の強さ、闘う意志、自分に対する自信などは顔に凝縮されるのだ。おおげさに言えば、ここまでの人生をどうやって過ごしたか。それが否応なくあぶり出されるところが裁判のおもしろさなのかもしれない。》 《弁護人は事前に被告に面会し、よく話し合ってから公判に臨むものだとばかり思っていたのだが、どうやらそうでもないらしいことがわかってきた。なかには一度も面会することなく、公判で初めて会うケースもあるようだ。》《国選弁護人は裁判1回いくらの世界。長引くほど生活は安定する。》 喫煙所がおもしろい。息子を暴走族に惨殺された父親と、裁判終了後に喫煙所で一緒になる。「息子は犬死にです」と潤んだ目で語る。「あの連中も自分がかわいいのはわかります。でもそこまで嘘をつかなければならないのか」その父親が去ると今度は被告の関係者がやってくる。野次馬傍聴人は、父親の立ち去ったあとでよかったと胸をなでおろす。喫煙所は傍聴マニアの情報交換の場でもある。新聞雑誌の記者も現れるが、彼らは小さな事件には見向きもしない。 《交通事故の裁判ほど身近で恐ろしいものはない。一瞬の出来事で金はなくなり、へタすりゃムショ送り。教習所も、更新時に見せるビデオに、事故シーンばかりじゃなく裁判シーンを加えれば、暴走も減るんじゃないか。ぼくは傍聴以来、めっきり安全運転となっている。》じつにいい提案。これを活かさない手はない。本にはときどきすばらしく実用的なことが書いてあるもので、吉川潮の『浮かれ三亀松』(新潮社)には、三亀松の重度の覚醒剤中毒を奥さんがどうやってなおしたかが書いてあった。 裁判所には美人が多い。弁護士も検察官も裁判官もダークスーツに身をかため、姿勢正しく自信にあふれた態度で闊歩しているそうだ。《傍聴していても、女裁判官や弁護士のレベルの高さには唸ってしまうわけでして。みんな賢そうで、知性っつうもんが感じられるのだ。》《驚いたことに検察官まで美形がいる。……身なりは地味なのだが、白いブラウスなんかでボタン2つハズレてるだけでもうドキドキだ。》さもありなん。東京地裁に出向けないおれのためにわが家のこの部屋が出張裁判所になったとき、女性裁判官を見てうれしくなってしまった。30前後か、当時まだ若かったNHKの黒田あゆみアナに似た知的な美人だった。あんな美人になら死刑と言われても受け入れるとジョークをとばしたものだ。 奥付には書いてないからサブタイトルではないのだろうが、カバーの背に「100の空論より一度のナマ傍聴」という惹句がある。何度か傍聴しているうちに、だいたいの量刑は予測がつくようになるという。裁判員制度に参加して正しい判断が下せるだろうかと心配する向きも多いが、予行演習に行けばそれほど案ずることはなさそうだ。それがタイトルにも現れている。
【Paroles 翻訳勝負】 LE CANCRE
Il dit non avec la t
「劣等生」
et malgr
「劣等生」(北川訳)
ウイとノンぐらいフランス語のままでいいだろう。北川とちがうのは、主体を己ととらえたこと。原詩ではたしかに il となっているが、「劣等生」とは自分のことにちがいない。だから「きれいさっぱり忘れてしまう」という訳になる。「そして何もかも消してしまう」ではあとの行とのつながりが悪い。
「数字も 言葉も 日付も 名前も 文章も 宿題も」より「数字も単語も 年月日も人名も 名言も引っかけ問題も」のほうが出題内容が具体的に想像できる。pi
『手足は動かぬとも』(赤坂謙、碧天舎) 東大医学部在学中にプールに飛び込んで頸損になった著者が、口だけでできるしごと言語療法士になる話。ある病院に勤務するのだが、その病院に入院しつつ勤務するというかたちを取る。父親も医者で強力なコネがあったから実現したのだろう。
『車椅子のドンファン』(ブリュノ・ド・スタバンラート、飛鳥新社) モテモテタレントだった著者が交通事故で頸損になるのだが、そんなことはへとも思わずグラマー美人と性行為にはげむという、虚実皮膜の間をいく元気の出る小説。これの消失は痛かった。視点の管理もしっかりしており、障害者になって初めて女の性の深淵を知るくだりなどもすばらしい。フランスではタレント風情でもこんな水準の高いものを書いてしまうんだからかなわない。
『世界の紛争地ジョーク』(早坂隆、中公新書) イラクやパレスチナなど中東・東欧諸国を巡って集めたジョーク集。おもしろいものをたくさん書き写したのになあ。「自治区」という言葉は占領地の言い換えであることを知った。
『英語名言集』(加島祥造、岩波少年文庫) ハックルベリ−フィンの項は感動的。
あと何冊かあったはずだが忘れた。プレベールの詩も2つばかり訳してあったのに。中島虎彦さんから、パソコンの故障でデータを全部なくしてしまった、藤川さんもバックアップを取っておいたほうがいいよといわれ、CDにコピーしてあった分は助かった。CDの出し入れをひとにたのむのがめんどうで、その後ついついバックアップを怠っていた。(追記。これをきっかけに一太郎の「2ヶ所に保存」という機能と入れっぱなしでいいMOを導入して万全を期した。ほんとに万全なんだろうな……。)
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