24(2005.5 掲載)

◆わりこみ日記◆

 今年2005年1月から横文字を載せるようになった。そんなことをしたら、ただでさえ少ないアクセスがもっと少なくなるだろうと思ってはいたが、案の定ガタ減りした。まあ暮らしに影響があるでなしべつにかまわないんだけど、すこしさみしい。ところが捨てる神あれば何とやら、南山短期大学の近江誠教授が、第20回に掲載したワーズワースの拙訳に目をとめられご著書に転載したいと小学館を通じて言ってこられた。待つことしばし、ご恵贈いただいたその本は『間違いだらけの英語学習――常識38のウソとマコト――』(小学館、1260円)ウーンほんとうに載ってるわ。

 

 『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く――(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社)

   sensou.jpg
 終末医療かなにかのテレビ番組を見ていたら、鶴見俊輔が「口から水が飲めなくなったらそれ以上の延命治療はやめてもらうつもりだ」と言っている。それはいい、おれもその方針でいこうと思った。やさしい言葉で的確なことを言う爺さんだと好感をいだいた。それがひとつ。

 これを読もうと思ったもうひとつのきっかけは、アメリカの占領に対してイラク人は連日自爆を含む強硬手段で抵抗しているが、日本が占領されたときに日本人が何らかの武力闘争をしたという話は聞いたことがない。それはなぜなのかという疑問。日本占領の成功経験と圧倒的な軍事力を背景にしたアフガニスタン侵攻の成功が、アメリカのイラク侵攻とその後の占領政策につながっていると思うからだ。まさにそのものズバリの質問が上野から出された。答えは《一つには体力の問題でしょうね。とにかくみんな栄養失調で、そういうことをやる気力がなかった。》それだけ。もうちょっとほかに何かありそうなものだが。

 鶴見の人生がおもしろい。両親を徹底的に嫌い憎んでいた(『私の嫌いな10の言葉』を書いた哲学者中島義道もひどく母親を嫌っている。親への憎悪が哲学者を生むのだろうか)。母方の祖父は後藤新平、父の祐輔は一高帝大を一番で卒業した厚生大臣(ちなみに姉の和子は社会学者、いとこの良行はアジア研究家)。俊輔は父を「一番病」と厳しく批判する。文官高等試験の成績でその後の出世は決定される。試験で一番になって欧米の知識を並べられる人間が権力の座につけるというしくみが明治時代に作られた。《だから自由主義が流行れば自由主義の模範解答を書き、軍国主義が流行れば軍国主義の模範解答を書くような人間が指導者になった。そういう知識人がどんなにくだらないかということが、私が戦争で学んだ大きなことだった。》

   《だいたい親父は、「総理大臣になりたい」とか言っていたんだけれど、なって何をやりたいのって聞いても、なにも出てこないんだから。日本の政治家の大部分というのは、そういうものじゃないの。国連の常任理事国になりたいとかいうけれど、なって何をやりたいのかといえば、誰もなにも言わないじゃない。あれを見ていると、親父を思い出すんだ(笑)。ただ一番になりたいだけなんだよ。》一番病というのは貴重な切り口だ。その角度で世の中を見ると納得のいくことが多い。

 母親には毎日「おまえは悪い子だ」といわれ折檻された。小学生のころから本を万引きして貯金を作り、その金で朝から晩までヤクザ映画を見ていた(以来、筋を通すという意味のヤクザの仁義が好きになる)。それで家に帰ると母親からたたかれたのだから折檻の理由はあった。12、3歳でカフェに出入りして女遊び。あるとき女たちが自分をちやほやしてくれるのは金持ちの息子だからだということに気づき、鬱病になり自殺未遂5回。

 15歳でアメリカ留学。猛勉強してハーヴァード大学に入学、言語学や哲学を学ぶも日米開戦で帰国。《交換船が出るが、乗るか乗らないかって聞かれたときに、私は乗るって答えたんです。日本はもう、すぐにも負けると思った。そして負けるときに、負ける側にいたいっていう、何かぼんやりした考えですね。というか、勝つ側にいたくないと思ったんだ。》真理はぼんやりしたもの、明確なものはインチキくさいという考えを持っている。帰国したら戦前の社会主義者や自由主義者がみんな転向してしまっている。転向が鶴見の生涯の研究テーマになる。

 1950年代後半に『転向』3巻を平凡社から出すと、ある官僚から「自分のところに追放解除申請書が山ほどあるので使ってくれ」という連絡を受ける。《もう赤尾敏とか、笹川良一とか、みんな申請書を書いているんだよ。だいたいは、私は昔から民主主義者だ、追放解除してほしい、そういうものだよね。自分の正当さをしゃんと書いているような人は、非常に少なかった。昭和四年から八年くらいの、インテリ左翼の転向調書と同じ調子だ。右翼なんて当てにならないよ、まったく。》

 ところが、《(金達寿の『朴達の裁判』という本には)びっくりした。あの本には、韓国で警察につかまって、簡単に転向の宣言をして、それで出てきたらまた活動をやってということを、何度でもくりかえす朝鮮人が出てくる。ああいうタイプは、日本の知識人にはないものだったんだ。(中略)つまり、彼は『転向』三巻に対する一種の批判として、あれを書いているんだよ。別の転向のかたちがあり得る、転向が小刻みになることによって、大きなサイクルでみると非転向になっていくという、別のサイクルがあるということだね。体を固くして、純粋さを貫けばいいってものじゃないということだ。》

 徴兵され、ジャカルタの海軍武官府の軍属として勤務。「敵が読むのと同じ新聞」すなわち正確な情報を書くよう命じられる。一方で慰安所の開設に奔走。《兵士の行く慰安所、下士官の行く慰安所、士官の行く慰安所、それからもっと上の将官クラスの慰安所。》士官クラブの設営にたずさわる。ハーフ・キャストというオランダ人と現地人の混血女性の娼婦もいたが、大半は地元のしろうと女性。慰安婦にアゴで使われる。《とにかく「人を殺す仕事よりはましだ」と思ってやっていました。》このテーマでは「女性に対する視線が冷たい」と、上野の追及が厳しい。それに対し、渡米後1951年まで13年間女性との交渉を断っていた、《禁欲ってのはねえ、女性に対する態度を冷たくさせるんです。》と弁解。

 小田実が1965年に発表した「難死の思想」で、特攻隊を描いた映画や小説は、みんな出撃場面の悲壮な描写で終わっていて、彼らの大部分が敵艦に突入する前に撃墜されて無意味に死んだことを描いていない、あれは散華ではなく難死だったと述べたのに対し、《ああいう見方は、残酷だから、私の世代の日本人にはできない。》と言う。そうやって死んでいく少年兵には、すまないという感情や、自分が生き残ってしまったうしろめたさがぬぐい去れない。

 憲法第9条。《上野 アメリカは日本を武装解除して、国際連合つまり連合国で共同管理するつもりだった。また日本側から見れば、非武装化を受け入れれば天皇の訴追も免れるし、共産党の革命に先手を打って保守政権が生き残れる。それに、どうせ敗戦になって軍備が解体されるのは逃れようのない現実なんだから、それを理想だといって開き直ってしまった方が得策だということですね。》《鶴見 だけど保守政権が粉飾決算で憲法を歓迎していた時期は、アメリカの方針が変わって逆コースになると、すぐ終わってしまう。そのあとの時代に、憲法を逆手にとって、アメリカと再軍備圧力にある程度の抵抗を試みたのは、吉田茂ですね。(中略)再軍備を最低限に抑えようとした。》これほど吉田を評価するのは、《戦争中に、熱海から汽車に乗って大磯を通り過ぎるときに、吉田茂が化膿した顔に包帯を巻いて、お供も連れずに立っていたのを見たんですね。当時の吉田は、留置場から出たばかりだった。その吉田の姿を見て、すばらしい人がいるなあっていう感じを持ったんです。だからその吉田が、戦後に憲法を逆手にとってアメリカに対抗しているのは、よくわかったね。》特攻隊に対する評価が世代によって分かれるのも、こうした実体験の有無によるのだろう。

 活動家の下半身。《それに谷川雁ってのは、いろんな女性に手を出すという意味でも、とんでもない奴だったんだよ。》《上野 森崎(和江)さんにも、谷川さんの影響下で「サークル村」で男たちと同行して、炭鉱労働者の支援活動をしていた時期がありました。だけど森崎さんは、活動仲間の女性が、男性の活動家によって強姦された事件をきっかけに、谷川さんから離れます。運動の団結を乱さないために、その事件を表沙汰にしないことを選んだ谷川さんと訣別した。女の強姦よりも大義が大事だという男と、そこで道行きを訣(ワカ)ったわけですよ。私はそれから、彼女自身の、もの書きとしての活動が始まったと思っています。》対等に議論してくれる男を同志だと女は思っていても、男のほうは議論なんか上の空でセックスにもちこむ算段ばかり考えているのだ。強姦ではないが、ベ平連はなやかなりしころ小田実はモテモテでしょっちゅう問題を起こし、鶴見らが火消しに奔走した。松本清張の力はものすごくて、電話一本で週刊誌の記事掲載を止めたという。

 ベ平連の米兵脱走支援運動。《ほんとうは日米行政協定で、米兵というのは日本の出入国管理にとらわれない存在だから、その海外出国を手伝っても日本の法には触れないんだ。日本の警察は、アメリカ側が要請を出したときに、代行として米兵を逮捕できるだけ。だけど(開始当初は)それがわかっていないから、密出国幇助とか犯人隠匿罪になると思って、みんなほんとうに緊張していた。》どうも吉岡忍なんかが経験談を自慢げに話すから、もう時効だから大丈夫なのかなと思っていたが、そういうことだったのか。非合法活動ではなかったのだ。

 ベ平連には警察のスパイも入ってきた。どうしたか。共産党時代の査問やリンチがまだ記憶に新しいものだからそれだけはやめようということになり、《そこで金と時間はかかるけれども、事務所では雑談をして、そのあとお店をひたすら梯子して、違うところに行って飯を食うんだよ。そのうちスパイだと言われている奴は、根負けして金もなくなって脱落しちゃうんだ(笑)。》若い小熊は「すごいですね。そういう知恵が新左翼とか連合赤軍にあったら……」と感心する。法律に詳しい者や世故にたけた者など、組織を運営するためには有能なスタッフが必要なのだ。