26(2005.7 掲載)

 『昭和史1926−1945』(半藤一利、平凡社)

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 終戦直後に生まれたから戦前戦中のことはわからない。日本史の教科書は昭和史に冷淡だし、入学試験に出ないことはわかっているからその部分を熱心に勉強することもなかった。親に聞いてもまともな答えは返ってこない。誰にとってもあまり触れられたくない過去なのだろう。……とか言って、要するに自分自身関心がなかったのだ。どうして興味がわいたのかわからない。本屋へ行くと本書が平積みになっているから自分だけでなく多くのひとが昭和史に関心を寄せるようになってきているのだろう。昭和が終わって16年、それくらいたつと回想したくなるのか、関係者が死んで口にしやすくなったのか。

 敗戦後どうして占領軍に対する武力抵抗がなかったのかということを知りたいのだが、やはりこの本も昭和20年8月15日で終わっている。昭和は64年までだからまだ3分の1しか終わってないのに、みんなここで息が切れてしまう。

 戦争を知らない世代の編集者にむかって十数回おこなった講義をまとめたもの。終わったあとの飲み会が楽しみだったというところも、『戦争が遺したもの』とそっくり。期せずして同時期に同じような企画が立てられた。鶴見のはあくまで鶴見個人の体験を中心にしているのに対し、こちらは教科書風に時代の流れを概観。

 登場人物が肩書き付きでズラズラ出てくるといやになってしまう。概説書なのにどうしてこんなに詳しく人物名を列挙するのか。読みすすむうちにハタと思いあたった。きっとひとりひとりの戦争責任を明らかにしたいという思いからだろう。昭和天皇と山本五十六は善玉として登場。荷風の日記がしばしば引用される。これがじつに的確な政治分析をおこなっている。荷風といったら売春婦とどうしたこうしたということばかり書いてるひとかと思っていた。

 明治27年、日清戦争。
 明治35年、日英同盟。
 明治37年、日露戦争。
 明治40年、日本の満州経営始まる。

 《日露戦争というのは結局、このように帝政ロシアがどんどん南に下りてきて、旅順・大連を清国から強引にもぎ取り、さらに朝鮮半島へ勢力を広げてきたことにたいへんな脅威を抱いた日本が、その南下を食いとめんと、自存自衛のために起こったものです。》そののち対ロ防衛・資源・人口増対策のために満州は欠くべからざるものとなる。

 明治44年、辛亥革命。日本に留学していた孫文や蒋介石は祖国を食い物にされているという危機感を強め、辛亥革命を起こし、中華民国を樹立。《それでなくても満州をめぐって清朝政府と揉めていたのですから。その清朝とまったく関係ない中華民国にすれば、それこそ無関係の日本が満州の諸権益を奪っているのですから、これを許せないことと思うのはごく自然です。当然将来における日中の衝突が予想されることになります。》この一節で思うこと二つ。一つ、国家の方針を体裁よく大転換するためには、前もって育てておいた反対勢力に政権を譲るのが得策。外交の一貫性は問われるが。イラク戦争強硬派のスペインはこの手を使ってイラクから撤兵した。二つ、2004年サッカー・アジアカップで中国人が示した反日感情は、重慶爆撃の恨みではなく日清戦争の恨み、とりわけ満州の恨み、「対華21ヶ条」の恨みにまでさかのぼる。

 昭和3年(1928)、張作霖爆殺事件。天皇が田中義一首相に張作霖爆殺事件の責任をとって辞職せよと言ったため、内閣は総辞職し首相はすぐに死んでしまう。どうやら自決のもよう。このこと以来天皇は内閣の決めたことに反対しないようになる。最後の最後、原爆を落とされてどうにもならなくなったときにポツダム宣言受諾を決定する(だから天皇は悪くないと著者は言いたいのだろう)。

 たしかに天皇は上海事変(7年)のときも、上海派遣軍の白川義則司令官に「条約を尊重し国際協定を守るように。南京まで攻め込もうなどと思うな」と言っている。リットン調査団が日本はいったん満州国から撤退するようにと要求したときも、「もしこれに応じないで西欧列強が経済封鎖をし、戦争になったときにはどうなるのか。その覚悟と準備はできているのか」と牧野内大臣に言っている(のちの三国同盟締結のさいも近衛首相に向かって同様のことを言っている)。「天津事件」で反英感情が国中に蔓延したときも、平沼首相を呼んで「反英運動を取り締まることはできないのか、反対意見の議論も国民に聞かせるように」と言っており、国際情勢に対する認識はいつも冷静で正確だ。バランスがとれている。

 鶴彬が「手と足を大陸におき凱旋し」という川柳を作ったのは昭和5年だった。張作霖爆殺事件以来、中国大陸で戦闘が続いていたのだろう。

 昭和6年、満州事変。関東軍は満州鉄道爆破事件を自作自演、7年、一気に満州国を建設。《世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかったんです。そして満州国独立案、関東軍の猛進撃、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になっていく。(中略)マスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんなにか恐ろしいものであることか、ということなんです。》サッカー大会で中国人が暴れた背景には、これまで人民日報しかなかったのが今や自由化され、新聞各紙は読者獲得のためこぞって扇情的な記事を載せるようになったという事情があるとテレビ解説者は言っていた。それを思い浮かべた。

 当初日本に好意的だったアメリカも、日本がどんどん占領地域を広げていくにつれ不信を表明。《しかし事態がここまできてしまえばもう引き返すことはできない、というのが軍なんですね。戦理とはそういうものです。》石原莞爾に発破をかけられた板垣征四郎大佐は、「不戦条約においても、日本が満州を支那本部と分離させようと直接行為をあえてすることは許されないだろう。しかし支那人自身が、内部的に中央と分離して自分たちの国をつくるというのであれば、一向にそれらに反していない。だから日本はあくまで側で見てやっているだけで、支那人自身が自分たちの意志で独立国をつくるということなんだから構わないのじゃないか」と、陸軍中央を説得する。――こう述べたとき、半藤の脳裏にはイラク傀儡政権があったにちがいない。

 昭和8年2月、国際連盟は日本軍の満州からの撤退勧告を採択。日本は国際連盟からの脱退を決意。《連盟内と連盟外の孤立に、事実上何の相違もない》と新聞各紙は大賛成。《一番大事なのは、この後から世界の情報の肝心な部分が入ってこなくなったことです。アメリカがどういう軍備をするのか、イギリスがどういうことをしているか、などがほとんどわからなくなります。つまり国が孤立化するというのは情報からも孤立化するということですが、それをまったく理解しなかった。つまり日本はその後、いい気になって自国の歴史をとんでもない方向へ引っ張っていくという話になるわけです。》同月、小林多喜二虐殺。

 明治以来の発展は日英同盟によるところが大きい。日露戦争に勝てたのも日英同盟のおかげ。ところが第1次世界大戦(1914〜7)で日本海軍が地中海まで出てイギリス海軍を応援したころから、「イギリスに思うように使われてるんじゃないか」という猜疑心が芽生える。それに目をつけたアメリカは、大正11年(1922)ワシントン軍縮条約(軍艦保有、米英5、日3)を結ぶさいに日英同盟の廃棄を要求してきた。《万一、日米が戦争を始めた場合、日本と同盟しているイギリスをも相手にすることになれば比率が五対八になる》からだ。大英帝国にしてみれば日本人なんか東洋の黄色い猿ぐらいにしか思ってないだろうから、「イギリスにいいように使われてるんじゃないか」という思いはあながち猜疑心とは言いきれないだろうが、後進国の劣等感もあるのだろう。

 昭和9年、そのワシントン軍縮条約からも脱退。軍令部は超大戦艦大和・武蔵の建造を要求。《海軍は、日米の戦艦がぶつかり合って相手を撃滅するという日露戦争の日本海海戦を思い描いていたのです。敵の大砲が届かない距離からも届く戦艦の大砲で敵を潰してしまおうという、まことに華々しく夢みたいな話で、よく言うように「軍人は常に過去の戦争を戦う」のであって、過去の戦争だけを手本とし、兵器の進歩や世界情勢の変化を予測することはほとんどないのです。》

 昭和11年、2.26事件。宮城占拠計画だった。鈴木貫太郎侍従長の妻たかは、天皇の乳母だったひと。侍従長は昭和のはじめからずっと天皇のそばにいる、父親的存在。《父代わりの人が陸軍軍人によって襲撃され弾丸四発を撃ち込まれて瀕死の重傷、ということを母代わりから最初に聞かされた昭和天皇は、愕然となると同時にものすごい怒りを感じたのではないでしょうか。したがって、天皇は事件に対してこれからたいへん厳しい立場をいっぺんにとるようになります。》青年将校たちには、「天皇陛下のために立ち上がる、そして陛下はそれを分かってくださる」という気持ちがあったのに、すっかり目算が狂ってしまった。襲撃相手を選ぶときは、よく人間関係を調べておかなければいけない。

 昭和12年、廬溝橋事件。《当時「支那事変」と言いましたのは、宣戦布告をしていないから「事変」なんですね。戦争になるのはずいぶん後で、太平洋戦争がはじまった時に宣戦布告をして「日中戦争」になるのです。日本は中国の後ろ盾になっているアメリカ、イギリスから多くの物品を輸入していましたので、「戦争」となるとたちまち対米英貿易に大きな支障をきたしてしまうのです。ですからできるだけ「小競り合い」で済まそうというもくろみもあったわけです。》支那事変と日中戦争のちがいが初めて分かった。支那が差別用語だから日中戦争と呼びかえているのだと思っていた。この支那が差別用語だというのがいまだに理解できない。むかし水道橋あたりにあった中華料理屋に入ったら、箸袋に「支那と呼ばないでくれ」と印刷してあったからよっぽどいやなのだろうが、国連の中国席のネームプレートにはCHINAと書いてある。

 12年12月、南京入城、捕虜1万6000人、一般人1万6000人を虐殺。翌年1月、中央公論特派員石川達三は虐殺を目撃、『生きている兵隊』でそれを発表。山本夏彦は、南京大虐殺などなかった、なぜならたくさんの特派員が行っていたのに誰もそれを見ていないと書いていた。『生きている兵隊』を知らないはずはないのだが。

 昭和14年(1939)ノモンハン事件。満州西北部における関東軍プラス満州国軍と、極東ソ連軍プラスモンゴル軍との大激戦。戦争と言わずに事件というのは、本来すぐ終わるはずのものだったから。それが大激戦になってしまったのは、《大部隊を抱えていながら毎日演習演習と、およそ勲章に値する戦闘がなかったのです。軍人というのは困ったことに、戦争をして勲章をもらわないとなかなか出世しません。》という関東軍の事情があった。中国のほうでは連戦連勝だから焦った。《最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるソ連軍に対して、日本軍は銃剣と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺たる結果となりました。》この戦いを指揮した作戦参謀の服部卓志郎と辻政信は、敗因を連絡が悪かった、意志が弱かったと精神論に帰す。「ノモンハン事件研究委員会」は、火力戦能力が低いと分析したのだが、2年後の太平洋戦争の時にもこの教訓が生かされることはなかった。参謀にはおとがめなしというのが陸軍の伝統だったので、二人は「北がだめならこんどは南」とばかりに南進政策を推進して結局大敗する。ノモンハン事件の結果ををもう少し真剣に考えて反省していれば、対米英戦に突入することはなかっただろう。《でも残念ながら、日本人は歴史に何も学ばなかった。いや、今も学ぼうとはしていない。》

 一方国内では天津事件をきっかけに反英気運と日独伊3国同盟参加の気運が高まった。それにともなってアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。ついにアメリカを敵に回す。このあとドイツ、ソ連、米英などのあいだの外交戦はさらに熾烈さを増していくのだが、《世界の裏側で首脳たちが何を考え、どんなやりとりをし、何が起こりつつあるかをまったく知らないまま、日本は一所懸命議論をしていたわけです。アホーもいいところです。》ドイツはポーランドに侵攻すれば米英と戦争になることは分かっているから、日独防共協定があるにもかかわらず、ソ連とポーランドを2分する約束で不可侵条約を結んでしまう。《条約なんていうのは、いつだって、まずくなれば売り渡してしまうものであって、これは現代もそう変わらないんですね。国際信義など下手すれば国家的利害のためだけにあるのかもしれません。》

 昭和15年、三国同盟締結。もし同盟を結んだばあい、ドイツがアメリカと戦うことになったら日本も参戦するのかということが一番の問題だった。松岡外相はそれに対し「そんなことを条項に書く必要はない。自動的に参戦、ではなく、自主的決定にゆだねる、状況を見て日本は自主的に判断する、というように書けばいいのだ」と発言。どこかで聞いたような話だと思ったら、《今日、テレビで国会の予算委員会を見ていましたら、イラクへの自衛隊派遣について小泉首相が「それはそのときの情勢を見て自主的に決める」と答えていましたが、これと同じなんですね。つまり軍事同盟といっても“自主的”という条件付きなのだから安心という説明を、不思議なくらい海軍は信じてしまうんです。》

 なぜ最近たてつづけに昭和史の本が発行されるのかという疑問に対する回答の一つがここにありそうだ。小泉首相誕生以来、自衛隊の海外派兵があれよあれよといううちに進んでしまったことに対して、国民のあいだに現在が昭和初期、すなわち戦争前夜なのではないかという疑念が広がってきたためだろう。半藤の気持ちのなかにもそれがあるにちがいない。

 山本五十六連合艦隊司令長官は「この条約が成立すれば、アメリカと衝突する危険はかなり増大します。現状では航空兵力が不足し、特に戦闘機や陸上攻撃機を二倍にせねばならないのであります。しかし条約を結べば英米勢力圏の資材を必然的に失うことになります。増産にストップがかかります。ならばその不足を補うためどういう計画変更をやられたか、この点を聞かせていただきたい、連合艦隊長官としてそれでなくては安心して任務を遂行できないのです」と訴えるのだが、豊田海軍次官は「いろいろご意見もありましょうが、大方のご意見が賛成という次第ですから」と完全無視してしまう。「いろいろご意見もありましょうが」って、サラリーマンの会議じゃあるまいし、論理無視、問答無用、そんな調子で国の行く末が決められちゃうんだなあ。

 まあなんとかなるんじゃないのとみんなが楽観的だったのは、欧州戦線でドイツが破竹の連戦連勝をつづけていたからだ。《ところが歴史は皮肉なもので、日本海軍の首脳が三国同盟を決めたまさにその日、ドイツ空軍がロンドン上空で大打撃を受けるのです。》

 ドイツは敗戦のことなど日本に知らせず、そのまま三国同盟成立。日本の情報力は非常に弱かった。アメリカが日本の外交暗号解読に成功したのは、昭和15年10月。だから対英米戦争の決断も作戦決行日も事前に分かっていた。《ワシントン時間十二月七日朝には届いていた最終の通告の解読に目を通したルーズベルト大統領は、「This means war」(これは戦争ということだね)と側近のホプキンスに言っているのです。》

 《最初の頃は、まず日本の飛行機が敵の空軍を撃破して制空権をとり、陸軍部隊や艦艇がそれに続くという作戦が、実にうまく進みました。》しかし零戦の航続距離を超えた地域にまで手を広げたため、守ることができなかった。

 ヤルタ会談で対日参戦を要求するルーズベルトとチャーチルに対しスターリンは「日本とは今までたいした紛争もないので、それと戦争すると言っても国民が納得しない。しかし日露戦争の敗北で失った諸権益を取り戻すという理由なら納得するでしょう」と言った。なるほどこれではいくら日本が北方領土は日露戦争のはるか以前、明治7年(1875)の樺太・千島交換条約で正当に日本のものとなったのだ、昭和16年には日ソ中立条約も結んでいるしと主張しても、半藤の言うように条約なんてその場その場のつごうで変わるものだというのが国際常識なら、交渉で返ってくるものではないとわかる。ロシアにしてみれば北方領土は戦利品なのだろう。敗戦で失った領土は再戦して勝たなければ戻ってこない。

 「日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾で十分に効果が上げられる」と、夜間低空飛行による焼夷弾攻撃を考えだしたのは、カーチス・ルメイ中将。東京大空襲は一般市民20万人を殺した無差別攻撃だった。《日本政府はこの方に戦後、勲一等の勲章を差し上げました。日本はなんとまあ、度量のある心の広い国であることよと当時、あきれつつ感服したものです。》

 ポツダム宣言受諾は、20年8月14日。国民に知らされたのが15日。戦争そのものは「降伏の調印」をしなければ終わらないという国際法を日本は知らなかった。ソ連はそこに目をつけ、武装解除して丸腰になった満州に攻め込んだ。57万人が捕虜としてシベリアに送られた。

 いろいろ読んできたが、どうして占領軍に対する武力抵抗がなかったのかという疑問に対する回答はみつからない。だがふと思いあたったことがある。武器がなかった、これだろう。マッカーサーの統治がうまくいったのは秀吉のおかげなのだ。日本でうまくいったのだからイラクでもうまくいくと思ったのが大まちがい、各戸に銃がある土地柄だ。最新鋭の武器も続々流入しているだろう。戦火は止まない。(追記。今のところ最新鋭の武器が続々流入するという予測ははずれ、もっぱら爆弾搭載の自動車で突っ込むというカミカゼ攻撃がおこなわれている。)