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 『イラン・ジョーク集――笑いは世界をつなぐ――(モクタリ・ダヴィッド、青土社)

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 古い国のジョーク集だから古くさいジョークが並んでいるのだろうという先入観をもって読みはじめたが、さにあらず、どれも現代的で都会的なものばかり(最後のモッラーじいさんの話だけは中東地域で名前こそ変われ普遍的に出てくる、いわばよたろうと一休さんを足したような人物の古くさいジョークだが、新しいものばかりでなく伝統芸も紹介したかったのだろう)。著者は滞日年数の長いイラン人。イランでは人が集まれば必ず誰かがジョークを言い、雰囲気を明るくするという。

 ★尿検査
 年取ったおばあさんが、病院で尿の検査をしていた。尿取りコップをもらい、なんとか尿をとって、若い看護婦さんに三階の検査室まで持っていってくれるよう頼んだ。ところが看護婦は、階段の途中でそのコップを落としてしまい、仕方なく自分の尿をとって渡した。
 一週間後、検査の結果がわかった。
 「おめでとうございます。赤ちゃんがお出来になりました!」
 おばあさんはびっくりして、「今の時代はきゅうりさえ信用できないんだねぇ」

 ★白髪
 父親が息子に言った。
 父「お父さんはおまえが悪いことをするたびに、髪の毛が一本白くなるんだよ」
 子「そうか、いま分かったよ。おじいちゃんの髪がどうしてみんな白いのか…」

 ★作文
 先生「このばかな作文を書いたのは誰だ!」
 生徒「先生、ぼくのお父さんを悪く言わないでください」

 ★もし、二頭の雌牛をもっていたら
 社会主義―― 一頭を残して、もう一頭を近所に譲る。
 共産主義――二頭とも国に渡し、ミルクを共同でもらう。
 ファシズム――搾ったミルクを国に渡し、国があなたにミルクを売る。
 資本主義――搾ったミルクを捨てて、ミルクの値段を上げる。
 ナチズム――国があなたを銃で脅して、二頭とも奪う。
 官僚主義――牛の戸籍を作るためにたくさんの書類を書かなくてはならない。それで牛の乳を搾る時間がなくなる。
 国連――ミルクを搾ることに対して、フランスが拒否権を出す。搾ったミルクをあなたに渡すことに対して、イギリスとアメリカが拒否権を出す。
 フェミニズム――雌牛の乳を搾ることを禁止、雄牛ならOK。
 民主主義――牛の乳を搾ることに対して、国民投票をする。

 ★救急車
 ある日、女性から病院に連絡が入った。
 女性「すみません、五歳の息子が、私の彼氏が使おうとしていたコンドームを飲み込んでしまって…」
 病院「それは大変ですね! すぐ、救急車で駆けつけます」
 医者は救急車の中から、女性に連絡した。
 医者「あと五分で着きますが、あれから大丈夫ですか」
 女性「はい、問題は解決しました。別のコンドームを見つけましたから…」

 ★人違い
 十二階建ての建設現場で働いていた労働者に向かって、突然下から叫び声がした。
 「ガザンファル、奥さんが家の五階から落ちたよ!」
 彼はびっくりして急いで十二階から降り、自分のバイクに乗って家に向かった。
 しばらく走るうちに、自分の家は二階までしかないことを思い出した。
 さらにしばらく走るうちに、自分には奥さんなんかいないことも思い出した。
 そこで止まってもう少し考えてみると、自分の名前もガザンファルなんかじゃないことをようやく思い出した。

 あとがきに《ニュースや政治の影響で、イランは堅苦しい宗教国だと誤解している日本人が、いまは多いかもしれない。しかし決してそうではない。古い歴史と文化を誇るイランは決して堅苦しい国ではない。イランの人々はよく歌い、よく踊り、よく笑い、そして楽しく喋る。》とある。柳田国男は《ラジオも映画もない閑散な世の中では、ことに笑って遊びたい要求が強かったのである。……ウソは大昔から、人生のためにはなはだ必要で平素これを練習しておかなければならなかった》といい、川崎洋は「いまわれわれは楽しいウソやほらを吹く話術をみがかなくなり、ことばの生活が寒々しくなってしまった」となげいた。

 イランというと思い浮かぶ顔はパーレビ国王とホメイニ師だ。ふたりともジョークとはほど遠い顔をしている。記憶に新しいのは上野で偽造テレカを売る不良イラン人。そのせいでこいつら程度低いんじゃないかと思っていたが、ジョークから察するところなかなか民度は高い。なめてかかるとやりこめられてしまうだろう。考えてみれば日本も天平時代にはだいぶ世話になったのだ。偽造テレカぐらいで騒がず、もっと優遇していい職でも紹介してやっていれば覚醒剤に手を出すことなどなかったろうに。

 

 『ウッふん』(藤田紘一郎、講談社)

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 「うんことセックスの深い仲」というのがオビのキャッチフレーズだが、著者はもともと「大うんこ」というタイトルにしたかったらしく、うんこに重点が置かれている。

 〇自由奔放な学問至上主義者

 《私が留学したテキサス大学のトイレは、腰の部分だけしか隠れておらず、並んでウンコしながら、隣同士で盛んにディスカッションをしていました。また、当時は坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」という歌がテキサスで大流行していたので、トイレに座っている誰かがこのうたを口ずさむと、ウンコしている全員が合唱したものでした。》仕切りのないトイレというと中国が軽蔑まじりに話題になるが、アメリカでも同じなのだから民度の差ではなく文化の差だということがこの一節から分かる。

 1939年生、現在東京医科歯科大大学院教授。1968年以来毎年インドネシアのカリマンタン島を訪れている。調査研究のためだというが、どうもクサイ。しゃがんで洗濯する現地女性の写真が収められている。髪をあげて両肌脱いだ姿を斜め後ろから撮している。正面から撮った笑顔をさらに1葉入れ、ヤユ・エンダン当時17歳と説明までしているのが不自然。ほかに個人の写真など入っていない。《私はこのとき六週間という比較的短期間しか滞在することができませんでしたが、すっかりなかよしになったヤユちゃんとの別れはとてもつらいものでした。》うーん、あやしい。あやしいというよりもはや告白に近い。あけっぴろげな性格の学者。山奥に調査に行ったときは、そこの酋長から同族結婚で村人が弱ってきているので新しい血を入れたい、ついては村の娘の相手をしてくれないかと申し込まれたというエピソードも赤裸々に披露し、ほかの調査隊の報告にはそのことが1行も出てこないのはどうしたことだろうと皮肉っている。世間体より学問が大事というひとなのだろう。

 これまで60ヶ国以上の発展途上国を訪れた藤田の観察によれば、農耕民族と狩猟、遊牧民族とでは、日常の行動も性格もずいぶん異なる。農耕民族は勤勉、やや内向的、隣人と仲が良く年長者を敬う。狩猟、遊牧民族は排他的、攻撃的。最も異なるのは「性の自由度の差」で、農耕民族は自由な性を楽しむ。なぜそうなったかを著者は赤松啓介の『夜這いの性愛論』(明石書店)に求めている。昔の日本の農作業はきわめて苛酷だった。苛酷な作業であるほどその中に楽しみを求めざるを得ない、というのが赤松の見かた。《麦踏み、田植え、草取り、臼曳きなどの作業の労働唄に、きわめて性的要素が多いのは、これが理由だということです。/現在文字化されて残っている労働唄は大変上品なものにすぎず、実情はとても口にも筆にもできぬものだったと赤松さんは言っています。》たしかに『こっそり読みたい禁断の日本語』(朝倉喬司、洋泉社)でソーラン節にも同じようないきさつがあったことを読んでいたから納得しかかったが、だがそれなら苛酷な奴隷労働から解放されたはずの現代人がエロ本エロサイトのたぐいでかくも性情報を氾濫させているのはなぜなのかという疑問が頭をもたげる。牧畜業者は性的なジョークを口にしないと聞いたことがある。動物を繁殖させることが仕事だから性を笑いの対象にすることはおのれの職業を貶めることにつながると考えてのことではないかと想像する。性と死に近いという環境が性格を決めているのではないだろうか。

 藤田は小学校時代(1950年代)を三重県多気郡で過ごしたが、まだそのころは「会式」というフリーセックスの祭りがあったという。昔の日本人は自由な性を謳歌していたのに、明治時代に欽定憲法、教育勅語が制定され、天皇制を中心とする国民道徳が強制されて、《それに反する民俗や伝統は淫風な悪習として、徹底的に弾圧したのです。小学校では純潔教育と一夫一婦制結婚生活を教え込んだのです。》その結果、日本人の性力は衰えはじめ、最近の文明の進歩がさらに低下させていると嘆く。

 大学院の教授である藤田はじつに興味深い実話を紹介している。研究室の大学院生男性28歳と女性26歳が実験で遅くなり、一つ蒲団に寝た。どうだったと聞くと、単なる友達だから何も起こらなかったという答え。何かが起こるのが普通じゃないかと不思議に思った藤田は、大学院生全員に同じ質問をしたところ、全員が「一つの蒲団に男女が寝ても普通は何も起こらない」との回答だった。《「私はこの年になっても、女性と一つ蒲団に寝ると、何かを起こしてしまう」と言いますと、大学院生たちは「藤田先生、それは異常です」と主張するのです。私は今の若い人たちの「性の力」が落ちていると思います。「生物としての性」が衰退していると思うのです。》

 〇過剰な清潔志向が精力を弱める

 バイ菌がいるのが「キタナイ」で、いないのが「キレイ」だとすると、世の中でいちばんキレイなのは出たばかりのおしっこで、いちばんキタナイのは口の中。あなたは松嶋菜々子とキスするのを選ぶか、ダウンタウンの松本のおしっこを飲むのを選ぶか、さあどうだと藤田はジョークを飛ばす。それなら菜々子に顔面シャワーしてもらえばいちばん楽しい、じゃなかった、いちばんキレイなんじゃないか。

 《私たちのからだには「常在菌」といって、常にからだにいて、からだを守ってくれる細菌がたくさんいるのです。》皮膚常在菌は、皮膚の脂肪を分解して脂肪酸の膜をつくり、外からの病原菌の侵入を防いでいる。年をとると皮膚常在菌の生育が悪くなりドライスキンになる。10年前老人と若者のドライスキンは10対1だったのに今では1対1になってしまった。若者は洗いすぎ。《インドネシアのカリマンタン島の子どもたちは、ウンコが流れる川で遊んでいます。彼らの皮膚は黒光りして、ツルツルしていました。触るととても気持ちがいいです。ウンコのバイ菌が皮膚に付着して、子どもたちの皮膚を守り黒光りにしているのです。》常識をくつがえす発言。しかしおれが子どものころ世の中は今よりうんとキタナかったが、子どもたちの皮膚は黒光りしてツルツルだったかといえばそうではなく、皮膚病の子が多かった。不潔不衛生な家庭環境のせいだといわれ、日本人はいっしょうけんめい清潔な社会をめざして努力してきた。いまやドラッグストアに並ぶ商品で「除菌」をうたわぬ物はない。その結果がドライスキンだ。軌道修正が必要だろう。

 泌尿器科の故山口先生から聞いた話を思い出す。若い女性が尿道炎や膣炎でやってくる。ウォシュレットをやめてごらんというとたちどころになおってしまう。肛門の大腸菌を前のほうに流すからにちがいないと言っていたが、藤田によると洗いすぎとのこと。女性の膣にはデーデルライン乳酸菌という常在菌がいて膣を守っているのに、それをトイレのたびに洗い流すものだから膣が中性になって雑菌が増殖してしまうのだという。

 おふくろを特養の南陽苑にみまったときのこと。エレベーターのドアがあいたとたん、糞尿のにおいがした。利用者はほとんどおむつをしているし、していなくても失禁は常のことだろう。もう少し頻繁におむつ交換をしてくれないものかと腹が立った。しかしこの本を読むと考えが変わる。藤田は、ウンコのにおいには大切な意味があるという。ウンコのにおいを毎日かいでいれば老人や病人のにおいが気にならなくなり、そのひとたちと自然につきあえるようになる。加齢臭なんか全然気にならなくなるし、学校のトイレでウンコした子をいじめるなんてこともなくなるのだ、と。

 病気などの特別な事情がないのに1ヶ月以上性交渉のないカップルを、日本性科学会は「セックスレス」と名づけた。平均28%。その理由を《ウンコやオシッコをきたないと思っている感覚で、「セックスがきたない」と思っている人が増えたからではないでしょうか。》1980年代後半に男の「清潔顔」がはやりはじめ、従来の男らしさが崩壊した。

 清潔志向がすすむと殺虫剤や防腐剤などの環境ホルモンが増え、それが男の精子を減らし、女の子宮内膜症を増やす。《確かに、殺菌剤や防腐剤を口にしても死にはしません。しかし、私たちは生きる力を弱めているのです。/なぜなら、私たちを構成している細胞は、細菌などのいろいろな微生物との共生によってできているからです。/たとえば、私たちの祖先の細胞は、地球に酸素が増えた時代に、好気的な細胞を自らの細胞の中に取り入れました。これがミトコンドリアになったのです。》われわれの細胞自体の中に微生物が入っているのだ。

 神戸の酒鬼薔薇事件も「きれいな場所」で起こったと指摘する。整然とした町並み、中流ばかりの住人、街のダニという「異物」もいないきれいな場所。そんな地域に住んでいたら落ち着かなくなる。《異物がまったく目に入らず、また異物とまったく付き合わないでいると、精神的にも「免疫力」が低下するのです。そのような人々だけで構成される社会は、社会全体の免疫力が低下してしまいます。異物の見えない場所で起こった凶悪な犯罪は、これが原因だったかも知れません。》