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 『妊娠小説』(斎藤美奈子、筑摩書房)

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 出版物には「家柄ばばあモノ」というジャンルがあると「本の雑誌」に書いていたのは青木るえかだったか。徳川家とか元皇族の娘や嫁、あるいは森茉莉のような文豪の娘がいかに露骨にあるいはさりげなく家柄を自慢しているかを味わうための本の一群があるというのだ。そんなことには気づきもしなかったので、それを読んだときは感心した。本書もそれに似ている。要は切り口、くくりかたの問題なのだが。《日本の近現代文学には、「病気小説」や「貧乏小説」とならんで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあります。》という角度から明治以降の小説を分析している。成城大学経済学部を出ているせいか、経済分析を思わせるこまかさ。おふざけの数式まで出てくる。オビの背に「ズブリ書下ろし処女評論!」とあるのが本書の雰囲気をあらわしている。

 妊娠小説とは望まない妊娠を「登載」した小説を指す。望む妊娠は「おめでた」といって対象にならない。妊娠小説は社会背景と密接なかかわりを持つ。1868年、明治維新の年に政府がまずやったことは堕胎の禁止だった。それまで望まない妊娠は堕胎で解決していたから「女の問題」だった。堕胎の禁止によって男は妊娠を発見したのだという。

 『舞姫』は黒と白の対比で描かれているという鑑賞がすばらしい。ここまで読み込んでもらえれば森鴎外も本望だろう。川端康成の『山の音』に出てくるサザエや銀杏が胎児の隠喩であることを見抜くあたりも、並々ならぬ鑑賞眼を感じさせる。《食卓や庭先や床の間の花器や主人公の記憶を舞台に、おびただしい植物や小動物が出てきては、なにげない四季のうつろい、日常の光景を情緒豊かに描いている。と見せかけて、そのじつ妊娠や堕胎を思わせるネタを総動員して一大隠喩大会をやっているのが、『山の音』の世界なのだ。》ウーン、読みたくなった。

 1952年、敗戦により産児制限が必要になり妊娠中絶が解禁された。これを「52年体制」と名づけたりするところが斎藤のうまいところ。《五二年体制は産婦人科をにわかにメジャーな存在にし、かわりに助産婦さんたちを失業させた、という説もある。中絶体験が産婦人科医院を身近にし、生むときもお医者さんでとの思想が広がったためだという(それほど中絶は身近な行為だった)。》

 『太陽の季節』は説教くさい小説と断じるあたりの分析がいちばんおもしろい。《〈竜哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持と同じようなものがあった〉。テキストは、全体を短く要約したような「解説」からはじまる。物語の外にいる非人称の語り手、いわゆる「神の視点」で進行するわけなのだが、この語り手は、事件の経過報告だけでは満足できず、局面ごとにしゃしゃり出てきては小うるさいコメントを差しはさむニュース番組のキャスターを連想させる。「説教臭さ」は、おそらくこの語り手(キャスター)のせいなのだ。》たとえば、《あの夜英子に抱いた感動を彼がこういう形でしか現わし得ないとしたならそれは何ということだろうか。》とか《竜哉は、自分の好きな玩具を壊れるまで叩かなければ気のすまぬ子供に過ぎないのではなかろうか。》のような「〜ろうか」という疑問形をつかってしばしば語り手が説教をたれる。

 へええ、『太陽の季節』ってそういう小説だったんだ。同じころ出た三島由紀夫の『美徳のよろめき』もやはり《いきなり慎しみのない話題からはじめることはどうかと思われるが、倉越夫人はまだ二十八歳でありながら、まことに官能の天賦にめぐまれていた。》《節子のためにいっておかねばならないが》と、これも物語外の神たる語り手が仕切る形式の小説だと斎藤は指摘する。何とも古くさい、19世紀のような文体。この程度で芥川賞だのノーベル賞候補だのともてはやされたのだから、むかしの作家はラクだった。

 

 『文章読本さん江』(斎藤美奈子、筑摩書房)

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 年賀状はA4の紙を半分に切り、口に筆ペンをくわえて書いている。それを半分に縮小して印刷すればちょうどハガキのサイズになる。長年印刷の仕事にたずさわってきたからこんなことは何でもないことで、在宅障害者になってから年賀状を出す気力が出たときにはすぐ実行できた。当時「はがき通信」の編集をしていた松井さんに送ったらたいそうほめてくれ、ほかの障害者の年賀状とともに「はがき通信」に掲載してくれた。ただしほかのひとのは活字になっているので、「みなさんの年賀状も手書き口書きのまま掲載したほうがおもしろいのでは」と提案したところ、それをすると、どうして自分のだけきれいな活字にしてくれないのかと苦情が来るという話だった。大学を卒業して以来毎日活字相手の仕事だったし、自分の書いたものが活字になる機会も多かったせいかべつに活字がエライとも思わないのだが、世間のひとはそうではないのだと知った。

 斎藤は経済学部出身と関係があるのかないのか、世の中の階級階層といったことにとても敏感だ。ことにいばってるやつは大嫌い。いろんな文章読本が俎上にあげられているが、本多勝一『日本語の作文技術』には特に厳しい。《結論的にいおう。主張において「民主的」な本多読本は、引用の面から見るときわめて反民主的、権威主義的なのである。本多読本が引用する文章を扱いの面からよく見ると、細かいヒエラルキーが設けられていることがわかる。上から順に、/文学作品 ― 新聞記事(署名原稿) ― 新聞記事(無署名原稿) ― 素人作文(投稿)/である。これは世間が広く認知する「文章のピラミッド」ともいえそうだ。/じっさい本多読本は、上には卑屈、下には横柄である。》

 素人作文が文章世界の最下層に位置すると指摘しているわけだが、おれはさらにその下に書き文字があることを「はがき通信」の一件で再認識した。しかしあれから10年、時代は変わった。ワープロ、ケータイ、メール、ホームページと、自分の書いたものが活字もどきのものになることに慣れたひとびとは、もはや活字信仰を捨てはじめているのではないか。いまに書き文字が尊重される時代が来る。

 もともと「読本=よみほん」が雨月物語のような物語文学を指したのに対し、「読本=とくほん」は明治初期にできた言葉で、国語の教科書のこと。やがて「初学者向けの入門講座」の意味になり、1934年(昭和9)谷崎潤一郎の元祖『文章読本』が出た。この谷崎読本の「文章に実用的と芸術的との区別はない、思った通り、簡潔明瞭に書け」という「シンプル志向、ナチュラル主義」が、のちに出たあまたの文章読本から総攻撃を受けることになる。

 後発組のクレームはそれぞれもっともなのだが、なぜ谷崎がそんなことを言ったのかを知らなければ正しい評価はできない。明治30年代までの作文指導は、内容軽視、形式優先で、文章といえばお手本をまねして書くものだった。「話すように書くな」が作文の要諦だった。明治10〜20年代には青少年向けの投稿雑誌が大ブームになったのだが、そこに入選する文章といえば、《余友人ト数名某地ノ梅花ヲ見ント欲シ瓢ヲ携ヘテ共ニ至ル(中略)是ニ於テ携フル所ノ瓢ヲ解キ、共ニ飲ム。》小学生がこんなものを書いていた。文範の定型句を模倣し、紋切り型の美辞麗句を適宜アレンジしては「観梅の記」といった観花遊山の記事文をでっち上げるのが、彼らが熱狂した作文の定石だったという。谷崎の文章読本はそれに異を唱えるかたちで世に出たのだ。そこまで把握したうえで評価しなければならない。

 文章読本とは何か、斎藤の結論はこうだ。《文は服である、と考えると、なぜ彼らがかくも「正しい文章」や「美しい文章」の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が「思想」だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう? 女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が「身体の包み紙」に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は「思想の包み紙」に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど「見てくれのよさ」にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。》『妊娠小説』も本書も、女であることをフルに活かした作品。

 

 『日本語探検――過去から未来へ――(樺島忠夫、角川選書)

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 話は前掲『文章読本さん江』と重複する。言文一致運動の七転八倒がおもしろい。若松賤子の「かった体」にはブッとぶ。《セドリックには、誰も云うて聞かせる人が有りませんかッたから何も知らないでゐたのでした。》(前掲書)こんな『小公子』の訳を明治23年に「女学雑誌」に発表している。樺島も同じ箇所を引用しているが、表記が少し異なる。みんながおもしろがって引用しているうちに原文が分からなくなったのだろうか。34年に保科孝一が発表した「棒引きかなづかい」は文部省の採用寸前までいった。《もしもこの案がめでたく採用されていたら、女子高生の交換日記のよーなこーゆー表記で、むずかしー論文わもちろん、うつくしー詩さえ書かれるよーになっていただろー。それもよかったかなーとゆーふーにもおもー。こーしてみると文章の原則なんてゆーものわ、どこえころぶかわかりゃしない、たいそー恣意的なものなのである。》と斎藤は書いている。

 です体・である体・であります体・だ体とみんな文末に苦労していた。前島密は「ござる」「つかまつる」を提唱した。「それが日常語だったからだ、明治の初期までみんな忍者ハットリ君みたいに話していたのだ」と斎藤はいうのだが、どうもそうではなさそう。時代劇でも女が「ござる」なんて言うのは聞いたことがないしと不審に思っていたら、樺島は《ゴザルは、もちろん武士の改まった場合の話し言葉です。いわば言文一致体の文章ですが、一般の人の話し言葉ではなく、かしこまったスタイルの文章なので、当時においてもあまり普及することがありませんでした。》と書いている。斎藤はネタと見るやパッと飛び付いておもしろい文章にしてしまう。売文業のサガだろう。一方、学者である樺島の言い分は正確なのだろうが、おもしろみに欠ける。

 明治初期には数種類の書き言葉があった。1.思想を表明する硬い文章は漢文をカタカナまじりに書き下ろした漢文訓読体(智ハ人心一部ノ本質、意ト情ト伴ヒタル者ナリ)、2.趣味的な随筆などを書くときは和文体(世に扇を末広とて万つの寿に用ふることあり)、3.敬意を表した手紙を書くときは候文(新年の御慶目出度申納候)など。話し言葉はまた別にあった。

 先進国の仲間入りをするためにいそいで新しい科学・政治・経済などを学習しなければならないのに、《自然科学などの教科書が難しい漢文訓読体で書かれていると、学校に入学して自然科学などを学ぶ以前に、まず漢字の読み方と意味、漢文訓読体の文章に用いられる語句の用法など文章を読解するために必要な知識を学ばなければなりません。また文章を書くためには、漢文訓読体、和文体、候文体などの文章が備えている語彙や表現法を身につけなければならないことになります。》要するにいろいろあったら能率が悪いということだ。

 それならどれか一つに統一してしまえばいいかというと、ことはそう単純ではない。3ジャンルに含まれる語彙がそれぞれ異なっていたからだ。言文一致は《当時の話し言葉そのものではなく、漢文訓読体や和漢混交文体の文章の中から必要な語を使って、動詞の活用形や助詞・助動詞、特に文末の形を話し言葉と同じものにするという姿を持った文章、これが近代の文章としてのあり得る姿だったのです。》言文一致運動というととかくデスマスのような文末の問題と取られがちだが、ほんとうは勉学の必要から起こったものなのだ。標準語の制定も似たような事情だろう。