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 『プリンシプルのない日本』(白洲次郎、新潮文庫)

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●「従順ならざる唯一の日本人」

 最近は「解説」のない文庫がふえているようだが、この本のようにひとむかしまえの文章を集めたものは背景がわからなければよく理解できない。青柳恵介の解説で白洲次郎のプロフィールを知る。《一九〇二年、兵庫県の裕福な家に生まれた白洲次郎は神戸一中を卒業後、イギリスに渡り、一九一九年から一九二八年の間の青春時代をイギリスで過ごす。》ケンブリッジ大学で歴史を学び、高級車を2台乗り回し、《純粋だがいささか驕慢な少年は、イギリスの貴族社会の中で成人となる。》

 父の白洲文平はアメリカやドイツに留学し、貿易で財をなした大金持ち。畳の上を靴で歩くような男だった。そういう男を父にもった驕慢な少年がイギリスの貴族社会の中で成人するのだ。さぞかし鼻っ柱の強い男だったろう。1928年帰国したのは父の経営する貿易会社が倒産して仕送りが途絶えたからだ。

 イギリス滞在中、24歳年長の吉田茂駐英大使と知り合う。とても馬が合ったようで、帰国後はふたりで近衛文麿のブレインに。そのころから「プリミティブな正義漢」として名を馳せたという。

 1942年の時点で「この戦争は負ける。東京は焼け野が原になり、尋常ならざる食糧危機に見舞われるだろう」と予言し、南多摩軍鶴川村に引っ越し農業をはじめる。隠棲したわけではなくその後も吉田茂と終戦工作の案を練っていた。敗戦後、吉田が外務大臣に就任するとともに請われて終戦連絡中央事務局参与、ついで同事務局長に就任、占領軍との交渉に当たる。《日本人の政治家も経済人も、おしなべて占領軍に媚び諂う中で、「戦争に負けはしたが、奴隷になったわけではない。言うべきことは言わなければならない」と公言して》占領軍に立ち向かった。そのため占領軍からは「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれたという。

●国際情勢に無知だった日本人

 今日出海の「野人・白洲次郎」が巻頭に掲げられている。今もまた白洲が日本人のだれ一人としてアメリカと戦うことになるとは思ってもみなかったころに日米開戦、敗戦を予言したことにふれる。白洲を論じる者でそれに言及しない者はいない。今・白洲との座談会で河上徹太郎はこういって感心する。《俺が次郎さんを偉いと思ったのはね、開戦直後にアメリカは二年後にこれだけの海軍を造って来る、と言ったんだ。そしたら海軍のお偉方がそれを信用しなかったんだ。そんなに出来るわけがないっていうんだね。所がそれが次郎さんの言う通り出来ちゃって、本当にマリアナへ来たんだよ。それにはちょっとシャッポ脱いだね。日本の海軍は、アメリカはドックが足りないから出来ない、と言ったら、そんな日本的の生産智識では駄目だと言ったね。》(初出「文藝春秋」1950)なんたること、ドックが足りないから軍艦ができない!? 造ればいいだけのことではないか。戦前の日本人は海軍の幹部ですらアメリカの資源量や技術力を知らなかったということがわかる。

 《北欧の国々は、小さな国であっても、文化的にも非常に高いものを出して、大体において平和的に暮してるが、ああいうことの原因の一つは、国民の多くの人が、非常に国際的に考えているためだ。これは歴史的にいっても、地理的にいっても、昔からそういう事情があった。ところが日本は島国だし、それがなかった。》(「文藝春秋」1951)海外事情を知らなければいけないと、言っているのはただそれだけのことだ。文章は雑駁で、内容もいまならとても文藝春秋に載せるほどの価値はない。にもかかわらず掲載されたのは、それが終戦直後には斬新な意見だったからだろう。

●新憲法の翻訳スタッフだった白洲

 日本国憲法がどうやらアメリカに押し付けられたものらしいということは、制定当時からうすうす気づいた者もいたが、なかにはそれを認めたくない者もいて日本人が自主的に定めたものだという論をなした(ただしいまでは少なくとも9条は幣原喜重郎の発案であることは明らかになっているが)。

 白洲は戦後すぐ米国起草説を採った。《この新憲法なるものの原案は確かな筋によると、終戦以前に於て既に米国側で占領中総司令部民政局で、色々と話題をまいたケーディス氏一派によって起草されていたものらしい。言葉を換えれば、これは米語翻訳憲法であることは周知の事実である。(中略)まさかと思う人は米文の憲法原案の前文を見て御覧なさい。》と言っている(「文藝春秋」1952)。そこでインターネットで「マッカーサー草案」を検索すると、《we, the japanese people,acting through our duly elected representatives in the national diet,》とある。これに相当するわが憲法前文は《日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、》だから、なあんだ逐語訳じゃないか。

 白洲はつづいて《外国人が日本人の立場に於て書こうとしたことによって、思わず「我々日本人」と始めたに違いない》という文章心理学的分析を加えている。鋭い。まあさすがに日本人翻訳者は「われわれ日本人は」とは訳さなかったが。

 それにしてもパソコンは便利だ。これなしに重度身体障害者のわたしが「マッカーサー草案」を入手しようとしたら、どれほどの心労を重ねなければならないだろう。いろんなひとに電話したり手紙を書いたり(それも口述筆記の代筆で)何度も何度もスミマセンオイソガシイトコロオソレイリマスとくりかえさなければならない。途中で萎えて投げ出してしまうだろう。もし敗戦直後にネットがあったら人民は騒ぎだし、法案は国会を通過し得なかっただろう。いや第一それほど情報があれば太平洋戦争自体起こらなかったのではないか。ネットのおかげでdietに「食事療法」と「国会」の2義があることまで知った。

 ところがだ。1952年には以上のように「GHQが起草したらしい」とやや曖昧な表現をとっていた白洲だが、1969年の「諸君!」では自分が翻訳スタッフの一人だったことを明かす。すなわち日本側としてはまず京都大学の佐々木惣一教授に新憲法の試案作成を委嘱したが、待てど暮らせどできない。占領軍は一日も早くせよと命ずるのに「いやしくも一国の憲法の案がそんなにかんたんにできるか」と老教授は怒りだす。つぎに委嘱した松本烝治には「よほどの画期的なものでなければGHQは承服すまい」とご忠言申し上げたが、「旧憲法の第4条まで改正すれば殺されますよ」と拒絶される(第4条は天皇の統治権に関するもの)。

 そのあとに驚くべきことが書いてある。《連合国側は、日本側からはとうてい満足できる新憲法が自主的に出てくるはずがないと予期していたのか、それとも始めからの計画であったか知るよしもないが、日本政府から提出された松本試案などは問題にならないとボツにされ、英文で書かれていた「新憲法」の案文なるものを手渡された。渡された場所は当時外務大臣公邸であった麻布市兵衛町の元原田積善会の建物であった。日本側でこれに立会ったのは当時の吉田茂外務大臣・松本烝治国務大臣と私であったように記憶する。GHQ側はホイットニー以下の民政局の一行である。》それを明くる日までに全部和訳して日本政府案として発表せよという。

 《こんなものを訳して日本政府案として発表したら、国内的にどんな仕打ちにあうかわからんと考えたのかどうかは知らないが、大抵の政府高官はこの問題から姿を消してしまった。まあ正直にいうと私に関する限り止むを得ず外務省の翻訳官(そんな官職があったかどうかは今だに知らないが)二人を連れてGHQに乗り込み、GHQ内に一室を与えられてこの英文和訳との取組が始まったのだ。/私はほかにも用があったからこの室にいりびたりではなかったが、お気の毒にも当時もう相当の御年輩の翻訳官二氏はこの室で徹夜の憂目にあわざるを得なかった。GHQ勤務のアメリカ兵用の食事を与えられ、煙草もアメリカのものを充分支給されたのをいまだに憶えている。》「GHQに乗り込み」と勇ましいわりに「一室を与えられ」というのだから、どの程度の立場とみなされていたのかわからないが、食事や煙草など細部の描写がこの証言に真実みを与えている。

 証言はさらにつづく。《こうやって出来上ったものが「日本人が自主的につくった」新憲法の草案である。この翻訳遂行中のことはあまり記憶にないが、一つだけある。原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく。》

 新憲法制定のいきさつについて書いた本も読んだことがあるが、あまりにも複雑でとうてい理解できなかった。なんだ、かいつまんでいえばこういうことだったのだ。「いやしくも一国の憲法の案がそんなにかんたんにできるか」だの「旧憲法の第4条まで改正すれば殺されますよ」だのともめていたのに、じつは1日でできてしまったのだ。直言居士の白洲でも戦後まもないころには発言できず、明かすのに四半世紀かかったというわけだろう。(つづく)