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 『プリンシプルのない日本』(白洲次郎、新潮文庫)

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(承前)

●GHQ幹部のほとんどは「下等な愚物」

 「占領政治とは何か」(「文藝春秋」1954)という一文で白洲はこう述べている。《占領されている間のことなど、精神修養でも志している人間ならいざ知らず、思い出そうとしただけでも憂鬱になる。よくまああの数年間我慢したものだと感心して驚くと同時に、どうにも仕方なかったとはいえ、からっきりいくじもなかったことだと自分ながら少々あきれもする。これもみな戦争中にフィリッピン、仏印、其の他の国々でやった悪業の数々の因果応報だと思えば、いくらか腹の立つのも減るような気もする。》この因果応報の念はしばしば出てくる(永井荷風の終戦直後の日記も同様だ)。悪業の数々とは何を指すのか。多すぎて挙げられないのだろうが、たとえば日本軍が米を奪って数百万人を餓死させたことだろうか。終戦後には日本中あまねくあったのであろうこの思いも、今ではすっかり影をひそめた。

 日米共通の了解事項だったはずの非武装国家という理想が、終戦直後に始まった米ソ冷戦によりねじ曲げられていったということぐらい誰でも知っている。そんな話はおもしろくもなんともない。しかし白洲のような対米交渉の現場にいた者でなければ知り得ないことが本書には書いてあってこちらは興味深い。《GHQの行き方というか態度というか、そのなかに終始一貫してあったことは心理的には色々の施策の対象が実は日本及び日本人でなくて、ワシントン政府及び米本国であった。》占領軍幹部は、いかにすれば本国に良く思われるかということに汲々としていたという。声明ひとつとってもそれは日本人に呼びかけるというより、だいたいにおいて「対米放送」なのだ。《GHQから度々出た「日本の経済復興はめざまし」云々の声明は敵は本能寺式に米本国向けで「我等は斯くも有能に政策を実施した。我等の有能さはざっとこんなものだ」という一種の示威運動みたいにとれて仕様がなかった。》

 またGHQの有力幹部のうちで《下等な愚物でなかったものは、ほんの数人に過ぎなかった》とも言う。マッカーサーに最も影響力のあったさる将軍に呼び出され、「吉田内閣は従順ではない、GHQをナメている。総司令官はいままでソフトな占領政策をとってきたが、心がけを改めないとハード政策に変更する」と見得を切った。さっそく吉田がマッカーサーに「重大警告」の意味をただしたところ、本人は初耳、全部この将軍の捏造であることが判明した。

 占領政策が本国を向いていた証拠のひとつが、エリザベス・サンダースホームに対するGHQの態度だ(白洲は固有名詞を避けているが)。《ある特志ママの名流婦人が混血児のホームを始めたところ、こういう問題に最も真剣に同情心を持って取り組まなければならない部局が、あらゆる手段でこのホームに意地悪をやり始めた。原因は簡単である。進駐軍の兵隊は混血児が生まれる様なことはしていない仕掛けなのだから。》意地悪をした局長は業績抜群の誉れを得て将官に進級したが、もしホームに援助でもしていたら出世できなかったろう、《出世する様な奴はどこの国でも心掛けが違うらしい。》とヒニクたっぷりに結んでいる。沢田美喜は子どもたちを救うのに絶対権力者であるGHQまで敵に回さなければならなかったのだ。苦労を察するにあまりある。

●対米折衝で見抜いた占領軍の文化程度

 進駐軍のジープを日本の子どもたちが取り囲み必死に手を伸ばして物を乞う映像をわれわれは何十回も見てきた。米兵のリュウとした軍服と子どもたちのみすぼらしいボロ服の対比を見れば、豊かな文明国が貧しい後進国に乗り込んできたのだと一目でわかる。徳川夢声の娘など進駐軍を目にする以前にすでに米兵にあこがれをいだいていた。《率直に言うと、娘たちは意識するとしないとに拘わらず、B29を透して、戦勝国アメリカの男性に憧れているのである。》(『夢声戦争日記』中公文庫)

 戦後日本人はアメリカの物量のすごさを目の当たりにして愕然とし、ますますうちひしがれた。昭和20年の暮れにコンバット・レーションを目にした荷風は、戦地でアメリカの将卒はこれを食っていたのだなあ、日本軍が負けるのはもっともだ、《人間も動物なればその高下善悪は食糧によりて決せらるべし。》と述懐している。多くの日本人はアメリカ人に対して崇拝の念に近いものをいだくようになる。

 だが白洲は違う。せせら笑う。《占領中の新聞に対する「指導」も今は昔の笑い話になったが、何とかというアメリカの小さな町の田舎新聞をやっていた御仁が、発行部数は世界有数の日本の大新聞を牛耳っていたのだから笑わせる。このお芽出度い当時の新聞の「神様」の「講話」は、否でも応でも各新聞のトップに掲載を強制されたものだった。おいぼれて赤児に手を引かれるのなら未だ我慢もし易かっただろうが、チャキチャキの江戸ッ子が山だし丸だしの田舎の子供にお江戸案内をされていた様なもので、さぞかし腹も立ったろうし、くすぐったくもあったろう。》と新聞統制の裏側を教えてくれる。

 国民の大部分は占領軍を絶対君主という抽象でしか知らないのに、白洲はひとりひとりの姿を知っている。《(占領軍の)殆ど大部分の人々は本国に於てはお内儀(カミ)さんが手鍋をさげてのつつましい生活をしていたのだから、急に市内各所の高級邸宅を接収して、そこに召使大勢を日本政府の負担で抱え込んでおさまり返ったのだから調子がとれる筈もなく、一寸喜劇などと義理にも言えた様なしろものではなかった。》

 白洲は接収されるような邸宅の主人とも面識がある。《接収が解除されて持主にかえされた家では、方々で悲喜劇の連続だった。床の間が風呂場に早替りしたもの、室内の檜かなんかの立派な材木が青ペン赤ペンと色々のペンキで塗りつぶされていたもの、庭の泉水が掘り下げられ綺麗さっぱりとプールに早替りしていたもの、庭の飛石におもしろおかしく彩色してあったものと枚挙にいとまはない。》勝者の奢りか趣味の違いか、いずれにしてもアメリカ軍人の文化程度の低さを示すのにこれほど適切な事例はない。

 要するに下層階級がやって来たのだと白洲は言いたいにちがいない。《高官の住宅など一流のコックを雇いこんだまではよかったが、初歩の家庭料理しか知らない奥様連中にこんな高級コックが使いこなせるわけはなく、あまりの馬鹿らしさに嫌気がさして辞めたコックも数多かった。帝国ホテルなどでもパリやそこらで年季を入れたコックが、場末料理屋でジャガイモの皮むきでもしていたのではないかと思われる様な軍曹か何かの指導(?)下に入ったのだからたまらない。戦前に比して接収されていたホテルの飯がまずくなったというのは定評だが、ここら辺に遠因があるのかも知れぬ。》

●GHQを相手にひるまなかった理由

 程度が低いのはなにも占領軍にかぎらない。米軍に取り入って一儲けたくらむ日本人を軽蔑することさらに激しい。《接収するとかせぬとかいって、GHQの係官の下働きの日本人通訳が虎の威を藉(カ)り、手心を加えてやるとか何とか、おどかして家屋の持主に金品を要求したなんていう話は始終聞いた。》豪華生活になれていない占領軍は、どこまでも伸していく。毎朝花屋に家庭と事務所まで切り花を配達させる者まで出てくる。もちろん費用は日本政府もち。《これも追及していって見ると、初めは花屋の売込作戦に端を発したことには間違いなかった。実に嫌な気のしたことは、米国側の横暴行き過ぎの蔭にはきっと日本商人の商魂(?)か巾着切りみたいな日本人の便乗があったことだ。終戦前まではサーベルのガチャガチャ音を利用し、こんどは日本のサーベルをアメリカ側に乗り換えただけのことで、こんなことは軍部華やかなりし時代の経験にものいわせて熟練そのものだった。占領中の米国人の非道だけを非難するのはかた手落ちである。》(「文藝春秋」1954)。

 なぜ白洲はこれほどほかの日本人と異なる視点を持ち得たのか。占領軍の実態をじかに眺めるという経験をしたことは大きいが、それだけならなにも彼だけではあるまい。成金の息子とはいえ、幼いころからイギリスの上流階級と交わったという経歴がその理由だとわたしは思う。ケンブリッジ仕込みの英語の使い手から見れば進駐軍の英語などちゃんちゃらおかしかったのではないだろうか。子どものころからホンモノの文化に囲まれて育てば、GHQを相手にしても何ひとつひるむことはない。傍若無人な性格も幸いした。

 戦後われわれに提供されたのは、基本的に貧乏人の目を通してつくられた情報だったのではなかろうか。学者にしてもジャーナリストにしてもみな庶民だ。民主ニッポンは金持ちや上流階級を否定してきた。少なくともさげすんできた。そうやって貧乏人が「総中流」といわれるまで豊かになったのだからそれはそれでよかったのだが、中流も庶民には違いない。帰国後は庶民生活だったとしても、白洲次郎には上流が染み付いていたのだ。