03(2009.03 掲載)

 『何用あって月世界へ――山本夏彦名言集――(植田康夫選、文春文庫)

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 『日常茶飯事』から『「豆朝日新聞」始末』まで25点のなかから選んだ寸言集。選者の植田康夫は「週刊読書人」編集者。はじめ「浮き世」「金銭」などテーマ別に編もうとしたがうまくいかず、単行本の発行順にしたという。それをわたしはあえてテーマ別に並べ替え、摘録をさらに摘録した。屋上屋を重ねるようなものだが、読書録をつけているうちに読んだ本を自分なりに再構築するという習慣が身についた(再構築といったって気に入った箇所を選ぶだけのことで、その本の全体を客観的に要約しようなどという殊勝な考えはない)。それでも書き写すというのは念入りに一字一字読み返すということだから、初読時の誤解に気づくこともあり、そんなときは冷や汗をかくと同時に新しい発見をしたような快感もある。

●冷静

 山本夏彦の文芸を最も特徴づけるのはその冷静さだろう。《私は人生に対して「当人」であるより「他人」である。見物人である。だから当人には見えないものが、時々見えることがある。》おのれに対してすら他人だ。《私は人類を愛してない。見限っている。見限ったのは、大勢の人類に接して、一々話しあった上でのことではない。自分の内心を見て、愛想をつかしたのである。》

 《私はもういつ死んでもいいのである。それは覚悟なんてものではない。いっそ自然なのである。その日まで私のすることといえば、死ぬまでのひまつぶしである。》「ついでに生きている」といったふうに何事も醒めた目で見る山本だが、実生活は文のとおりとはかぎらない。『誰か「戦前」を知らないか――夏彦迷惑問答――』(山本夏彦、文春新書)のなかで部下の女性に「山本さんは寿司は何がお好きですか」と問われ、「好きなものはありません。死ぬまでのひまつぶしに食べているんです」と答えるのだが、「またそういうやけくそを仰有る。正直に白状なさってはどうですか。うわさではトロがお好きだとか(笑)」と暴露されている。それを意識してかこんなことも言っている。《作者と作品は別もので、作品がすべてで作者はカスであることもあり、作品と作者は似ても似つかぬものであることもあって、作者を知ることは作品の理解をさまたげることが多いのである。》

 妻をもつ身でありながら夫婦愛に関しても冷静なことを言う。《私は一夫一婦は根本に無理をふくむと見るものである。けれども、細君は一人でたくさんだと思うものである。とりかえたって同じだから、面倒くさいと、別れないでいるものである。きっと、相手も同じであろう。》

 ――などと言っていたのが、妻の病と死に直面すると態度が変わる。編者の植田はそこを見逃さずに収録した。《いま妻は頼んでこの病院の七階に入院中である。私は夕方事務所の帰りに見舞っている。たまたま病院のまん前は根津権現のま裏で、何日も夏の祭りが続いている。帰りがけに振返ると日はすでにとっぷりと暮れている。七階の窓で豆粒大と化した人影がちぎれんばかりに手を振っている。私は二つ並んだ公衆電話のボックスにかけより、その灯かげの下で背のびして同じく手を振って答える。さながら「一太郎やーい」である。》(「一太郎やあい」は「軍国美談」の一つ。日露戦争当時御用船で出航しようとする息子に向かって老母が「天子様によくご奉公するだよ」と叫んだという話。こんなものを引いて山本は照れ隠しをしているのだ)。死んだとなるともはや冷静ではいられない。《私は夜誰もいないはずのわが家に、思いきって電話をかけてみることがある。まっくらな茶の間で、それはながくむなしく高鳴っている。誰か電話口に出やしまいかと息づまるような一瞬である。そして誰も出ないのに安堵してのろのろと帰るのである。》山本にしては珍しく泣かせる一節。

●生命

 《生きもののなかで、植物は自分から出張しない。なん年でも、なん百年でもじっと突ったっている。移動して争うということがない。だから私は植物を最も尊敬している。》全身麻痺の身になる前からわたしは生命とは何かということに思案をめぐらせていた。共通するものをしぼりこんでいくと摂取排泄が残る。摂取排泄の営みこそが生命の本義であると考えるにいたった。負傷した瞬間からまったく無力な存在になった。そういうことになったら誰でもおのれの存在意義を疑わざるをえないだろうが、摂取排泄していればそれだけで存在意義はあるのだという思いで急場を乗り切った。ひとはなんのために生きるかという疑問はすでに解決していた。生まれる前から超常者が定めているという意見は採らない。人生に目的が必要なら自分で決めればいい。ひとは生まれたから生きているのだ。そう思いながら病院の白い天井を眺めていた。いざというときひとを救うのは思想だと思う。

 《犬は驚いたとき、腹がへったとき、甘ったれるとき、それぞれちがった鳴き声を発します。けれどもそれは五十種を出ません。人類はそれを犬が人より劣った証拠だとみなしてきましたが、我々の言論も、むろん五十以内に整理できます。犬ではすでに整理され、我々ではまだされていないからといって、それを高等だと思うのは身贔屓にすぎません。》そういわれてみればそうだ。犬も人類と同じくらいの時代を生き延びているのだから。人類は悪戦苦闘してたかだか100万年。ゴキブリは蒔かず刈らずで3億年。どちらが高等か知れたものではない。つぎの文章も同じ趣旨だ。《末端には電気パン焼器があり、頂上には宇宙船がある。原水爆はこの思想、この系列のピーク(てっぺん)に位する一つである。自動車や飛行機を肯定し、礼讃して、その絶頂だけを否定し、禁じようとしても、そうは問屋が卸すかしらん。》意表を突くことばだが、単なる思いつきではない。本書に一貫して流れている思想の一部だ。肝に銘じておくと世の中の見えかたがちがってくる。至言だと思う。

 《電話が各戸に普及したのは昭和三十年以後である。そしたら客も不意にあらわれることが許されなくなった。電話で確かめた上であらわれるようになった。出しぬけに行くことは失礼になった。けれど誰しも人恋しいときがある。友に会いたいときがある。突然行ってはいけなかろうと電話すると、来月の何日はどうかと言われる。いま会いたいのだとノドから出かかっても言えなくなった。こうして有史以来の人と人との間のコミュニケーションは失われたのである。》便利になったからといって幸せになるとはかぎらない、そう言いたいのだろう。たしかに道具が発達すればひととひととのあいだは疎遠になる。でもこの意見にだけは諸手を挙げて賛成するわけにはいかない。たとえばパソコン、これがなかったらわたしはいまこの文章を書いていない。道具を使わずに書けといわれたら口述筆記しかない。メモぐらいならいいが長文は無理だ。筆記者との関係は密になるだろうが、逆に過重な労働を強いたことで壊れるかもしれない。原水爆と共に生きていくしかないだろう。

 《老人は死なず、赤んぼだって生れたが最後、ガラスびんに入れられてでも育つ。それはヒューマニズムの名によって礼讃されているが、死ぬべき人は、死ぬのが本来だと、恐れながら私は申上げる。新薬の出現によって、百年このかた人は死ななくなった。ほんとは死ぬべき人が、生きてこの世を歩いている。これが副作用の随一だと、私は見ている。》誰が「ほんとは死ぬべき人」なのだろう。わたしは死ぬべき人間なのだろうか。頸損が生きられるようになったのは第2次世界大戦以降のことだ。それまでは首の骨を折ったら旬日を経ずして死んでいた。それがいまや尿路感染と褥瘡に気をつけ血液の循環につとめれば、長命は望めなくても簡単に死ぬことはない。ただし国家や家族は大きな負担を強いられる(極端な話そういう事情を利用するためにつくられたのが対人地雷だ。あれはひとを殺すためのものではなく障害者をつくるための装置だ。介護に人手や金がとられることを期待する兵器だ)。山本はもしわたしと対面したら何と言っただろう。

 《父は娘のムコとなる男に嫉妬する。落胆するぐらいならまだしも、半狂乱になる。娘を他人にやりたくない。というより、娘と結婚したいのである。それは我慢すべき人情で、吹聴するとはエッチ(H)である。》ほんとは娘としたいのだという見かたを初めて知ったのは川上宗薫の文だった。多くの女と交わっていればそんな邪心はいだかないのにと彼は言っていた。エロ作家の言いそうな意見だとそのときは思ったが、のちに娘が父親を避けるのは近親相姦を防ぐためだという動物行動学の説を知るに及んで腑に落ちた。テレビコマーシャルに出てくるような父親にしなだれかかる娘なんていないのだ。いたらアブナイ。

●女性

 《ある朝、めざめたら、私は女であった。(中略)私は、女が女である部分、男たちが追い回して争う部分を、見ようとした。はじめから見たかったが、恐れていた部分である。私はかっと目を見ひらき、重複した襞と、陰湿なその奥をのぞいたが、たちまち顔をそむけた。男がこんなものを追求するのは、まちがっている。それは美とは無縁なもの、むしろ醜なるものである。白昼正視にたえるものではない。》初老の女性ヘルパーが言った。最近おばあさんのおむつ交換に行くようになって初めて女の部分を見たけど、グロだねえ、いやんなっちゃったと。言われて気づいた。男は知っていても女は女性自身を知らないのだ。それでも男は見たがる。金を払ってでも見ようとする。醜なるものでも白昼正視にたえなくても、DNAに突き動かされる。……そう思いながら先を読みすすむと、

 《一匹の虎は、檻にとらわれていてさえ美である。一挙手一投足は柔軟で、優美で、息づいているだけで美しい。それは鑑賞にたえる。わずかに女の裸体は美だと、なが年言いはるものがあるが、色情をもって見るからそう見えるだけである。虎は色情を去って見ても美しいが、人類の女は美しくない。》わたしがDNAといったものを山本は色情と表現している。

 《婦人は多く嫉妬深く、聞きわけがないものである。「赤線」の女と、わが女房を同列にみる男は一人もいないと、いくら言ってもきかない。女としての性の機能が同じなら、同じ存在だと思って嫉妬する。それは自分を女郎並みに扱うもので、我と我が身を侮辱するものだと、いくら言ってもきかない。》昔はこんなことを言っても許されたのだなあ。いまなら「じゃあ奥さんがホストと寝てもあなたは嫉妬しないのか」と反論されてしまう。

 《人気ある芸人は百人千人の女と通じるという。そんなに通じたら、女を知るものの随一になりそうだが、ならない。今も昔も人気者と寝室を共にしたがる女がいて、その同一の女をたくさん知っただけである。》なるほどなあと思うと同時にくやしまぎれのようにも聞こえる。

   (つづく)