04(2009.04 掲載)

 『何用あって月世界へ――山本夏彦名言集――(植田康夫選、文春文庫)

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  (つづき)

●出版

 《私は「暮しの手帖」をほめたことがある。一口に雑誌の性格というが、その性格は、誌面にあるものからばかり成っているのではない。むしろ、ないものから成っている。たとえば、この雑誌には、流行作家の小説がない。芸能人のスキャンダルがない。政治に関する議論がない。身上相談、性生活の告白のたぐいがない。さながら、ないないづくしである。けれども、以上は偶然ないのではない。ほかの雑誌にあるものを、わざと去って、それによって、この雑誌の性格は顕著なのである。だから、あるものばかりでなく、ないものを見よとほめたのである。》目に見えないものをつとめて見るようにせよとほかの文でも言っている。

 《出版という商売が、他の商売と違う最大の特色は、そもそも発注者というものが存在しないことである。だれも注文したものがないのに、出せば売れるだろうと、勝手に印刷し勝手に発行するのが出版という仕事である。》批判でもなければヒニクでもない。出版という商売の心意気を褒めている。やくざな心意気だが。

 《本には著者の魂の全部ではないまでも片鱗がこもっている。それが並の商品とちがうところで、どんな本にも見るべきものは一つはある。》

 《編集者というものはよい原稿をもらったら、とびあがって喜ばなければいけない。笑うべきところでは笑わなければいけない。それを執筆者にすぐ伝えなければいけない。明くる日では遅いと、私はわが社の編集部に言ったことがある。ほめるところのない作者なら別れるよりほかないと私は教えたが、彼らはそれを社外の執筆者のことだと思って(社内の執筆者)私のことだとは思わない。私は人間には想像力がないことをかねて知ってはいたが、類推力もないことをこれによって知ったのである。》自分の新著を「室内」の社員に配っても誰もなんとも言わないと別の本でもこぼしている。社長の作品を批評したら何かと差障りがあるのではないかと、少なくとも社員は心配するだろうに。と思いながら読みすすめると、こんな一節も出てきた。《社員は社長の作文を没書にできない。かげでなんと言ってるか知れたものではない。だから私はほかの新聞雑誌に書いて、一流雑誌が載せるのだから私の作文は必ずしも水準以下でないことを示すのです。ずいぶん疑り深いようですが、自分のことはこれくらい疑ったほうがいいのです。》文の趣旨はわきまえたうえで、わかってるなら社員を糞味噌にいうなよと元サラリーマンのわたしはいいたくなる。

 《人間万事タイトルだ。何も知らないアルバイトの学生に示して釈然としなければその題は分らない題なのである。このごろ分らないタイトルをしばしば見るのは他人になる練習をしていないのである。》

 《人はまんべんなく嫉妬しない。同時代人は同時代人に嫉妬する。私たちは私たちの仲間が、にわかに出世するのを喜ばない。私たちは私たちが物ごころついたとき、すでに有名な人には嫉妬しない。鴎外(森)漱石(夏目)にはしない。けれども石原慎太郎にはする。》たしかに思い当たるふしがある。でも石原慎太郎が非難されるのは嫉妬ばかりが原因ではない。「他人になる練習」をしたほうがいいのではないか。

 《本というものは、晩めしの献立と同じで、読んで消化してしまえばいいのである。記憶するには及ばないものである。何もかも記憶しようとするのは欲ばりである。忘れまいとするのはケチである。》今わたしがやっていることはケチな行為なのだなあ。しかし一度読んだだけでは消化できない読者もいるのだよ。

 《新聞記事のうそと誇張にはだまされる読者が多いが、広告のそれにはだまされる読者は少ない。何より広告には滑稽があって、記事にはない。記事はまじめくさって、たわけたことを書く。広告は割引いて読むからいいが、記事は額面通り読むからいけないのである。》滑稽の有無がポイントとは意外な指摘。たしかに滑稽なものは割り引いて読む。

 《男はにが笑いする動物で、女はしない動物である。新聞はにが笑いしないこと女に似ている。》

 《私は断言する。新聞はこの次の一大事の時にも国をあやまるだろう。》

 《事典中に「木口小平」を掲げても軍国主義にはならない。削除しても軍国主義を追放したことにはならない。》大学に戦争学の講座を設けても戦争にはならない、かえって戦争を防止するのに役立つと思う。しかしそのばあい、だれを講師に呼ぶべきか。講師陣の大半は自衛隊関係者になるだろう。2008年、田母神空軍大将の「日本は侵略国家ではなかった」という発言が出たとき、識者はこぞって罵倒嘲弄したが、あれは自衛隊でおこなわれている教育の結果であり、それが悪いならとがめられるべきはそういう教育をしてきた自民党政府なのに、それを指摘する声は聞かれなかった。

●世間

 《その機会がなかったばかりに潔白だった男女が、その機会があった男女を居丈高にとがめて、自動的にさらに潔白になるのは何より恥ずべきことである。》芸能人の恋愛スキャンダルにコメントを求められたディックミネが、「今の芸能界はかわいい子がたくさんいるからそういうことも起きるさ。おれんときなんか淡谷のり子だろ……」と指折り数えるまねをして笑わせていたのを思い出す。

 《私はすべて巨大なもの、えらそうなものなら疑う。疑わしいところがなければ巨大になれる道理がないからである。大デパート、大会社、大新聞は図体が大きい。よいことばかりして、あんなに大きくなれるはずがない。総評や日教組は組織が大きい。もっとも大きいのは世論で、これを疑うのは現代のタブーである。だから私は疑う。世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。》セロンとよむのかヨロンとよませたいのかわからない。たぶんヨロンだろう。原稿に輿論と書いたところ、編集者に表外字は使えないと言われてこれにしたのかもしれない。

 《子犬は親犬に孝行しない。それが自然で、ひとり人間だけが孝行したのは二千年来教えたからで、それが僅々三十年教えなくなったらこのていたらくである。》

 《権利と義務の両方をおぼえさせたければ、権利を一回教えたら、義務を三回教えなければ、もともとおぼえたくないのだから、おぼえない。両方平等に教えたからいいと思うなら、人情の機微を知らないと評されても仕方がない。》

 《昨是今非(サクゼコンピ)という。昨日までよかったことが、今日からは悪いことになるというほどのことである。昔から世間にはよくあることだと、先生は生徒に教えればいいと私は思うが、先生は思わない。》昨是今非か。いい言葉を教わった。先生を出すのは文章上のダシだろう。よく効いている。《浅草の次に滅びるのは銀座だと言っても、銀座の店の主人が耳を傾けないこと、むかし浅草の店の主人が耳を傾けなかったのに似ている。一栄一落これ春秋、という。》これもおぼえておきたい。

 《失業者が全くいないのは、いいことのようでそうではない。わが国の伝統の工芸や職人芸は、貧乏で人手が余っていることをあてにして出来ている。》軍隊もまた貧富の差を必要とする。中国では一人っ子政策のせいで捨て子が多く、捨て子は国家が面倒を見て軍人にする。とても忠誠心の強い兵隊になるそうだ。世の中は貧乏を前提として造られている。

 《芝居は実生活を煮つめたもので、これさえ見ていれば、人情風俗がわかる。男らしいということはどういうことか、女々しいということはどういうことか、非常のときはどうすればいいか、劇中の人物によって身の処しかたがわかる。だからむかし大店の主人は店のものを、かわり目ごとに芝居見物につれていった。》芝居はいうにおよばず映画も数えるほどしか観たことがない。テレビドラマは大嫌いで小説もあまり読まない。こんな調子だから人情の機微を知らず身の処しかたもわからないまま還暦を迎えてしまった。

 《私はなるべく「世間」または「世の中」と言って「社会」と言わない。「白状」と言って「告白」と言わない。「五割」または「半分」と言って、「五〇パーセント」と言わない。そのほうが耳で聞いても、目で見ても分りやすいからである。》この読書録を書くにあたって一つ設けそこなった項目がある。「山本夏彦の用字用語」だ。用字をまねすればきっと読みやすい文章が書けるようになるだろう。文語の気配があるから難しそうだが、書き写してみるととてもひらがなが多いことに気づく。また証券会社といわずに株屋といい、新聞記者といわずに羽織ゴロというなど用語をまねすればきっと世の中に対する認識も的確になるだろう。

●明治

 《江戸時代を私は明治大正時代より、また現代よりよく出来た時代だと思っている。戦後は「平和」が第一で、国家や国民の誇りより平和のほうをとるという説がもっぱらである。江戸時代はその平和が二百なん十年続いた時代で、こんなに長く続いた時代は世界にもないだろう。それだけでも自慢していいのに、江戸時代を暗黒時代のように言うものが多いのは奇怪である。》

 《子供のころから不思議に思いながら、誰も教えてくれないことがたくさんある。もっと気になることは「尊皇攘夷」である。このむずかしい字を私はチャンバラ映画でおぼえた。攘夷は西洋人をうち払うことでそれを旗印にして国論を統一して幕府を倒しながら、維新成って廟堂(ビョウドウ)に立ったら皆々開国して誰も異議を唱えるものがなかった。激論があったと聞かない。人はこういうときどういう顔をするのだろう。一人ならず全員が口をぬぐったその口を、私は見たいと思う。》昨是今非さと冷笑する。

 《私は文化の断絶は「明治」におこったとみている。いわゆる文明開化は東洋を捨てて西洋を学ぼうとして、皮相だけを学んで根本に及ばなかったから、その両方を失ったとみている。》《漱石(夏目)の弟子はみな漱石の西洋を学んで漱石の東洋を学ぼうとしなかった。》《日本人とは何か、一口で言ってみる。それは「にせ毛唐」だ。西洋人になりたくてなりそこなったものだ。》にせ毛唐。これほど辛辣な日本人論をほかに知らない。

 《一葉(樋口)は美しく横光(利一)は美しくないのは、ひとえに伝統のせいで一葉はひとりで書いているのではない。何百年来の文章の尻おしによって書いているから美しいのである。》伝統を受け継いだものだけが美しいと言いたいのだろう。

 《子規(正岡)は、「日本」紙上で十回にわたり古今集をつまらぬ歌集だとほとんど唾棄した。日本中の歌よみはその剣幕を恐れて従ったから、わが国古来の「風流」は失われたのである。昔の女は芸術家になろうと歌をよんだのではない。子規は古今は字句の遊戯にすぎないというが、字句の遊戯のどこがいけないのだろう。》やはり伝統の断絶を嘆いている。それにしても子規が「日本」に連載したのはまだ30そこそこ。歌壇の大家たちは何をしていたのか。古いものは悪い、新しいものはいいという明治維新の気風に気圧されたのだろうか。

 《明治の人を崇拝したがるのは昭和の人より格段にすぐれていると思うからだろうが、むろん誤りである。明治の人というのは近衛文麿であり真崎甚三郎であり東条英機である。私たちの父の時代の人で、大事なときに国をあやまる人々である。私たちが明治の人々というのは実は封建の人で、漱石鴎外あたりがその「しんがり」である。》

 すごい。こうやって気に入った断片を順に拾うだけで「明治」の項がぴしゃりと完結してしまった。