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 『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年――(宮崎学、筑摩書房)

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 山口組の誕生から現在までを社会背景とともに論じた400ページ近い力作。宮崎が「近代ヤクザ」を肯定するのは、やむにやまれぬ極貧や差別の中でヤクザ渡世の道を選ばざるを得なかった者たちへの共感からだが、ヤクザの親分の息子という出自も多分に影響しているだろう。暴力団を肯定しているわけではない。

●「近代ヤクザ」は労働力供給業者

 日露戦争直後の明治39年(1906)、のちの山口組初代組長の山口春吉が「貧困に押し出されるようにして」故郷の淡路島から当時活況を呈しつつあった神戸港にやってくるところから本書は始まる。当時いくつものスラム街を抱えた神戸には「潮の如く乞食が押し寄せ」るありさまで、春吉もスラム街にある木賃宿に妻子と身を落ち着けるとすぐ沖仲仕の立ちん坊になる。

 江戸時代までは浜に荷を上げる「浜仲仕」だけだったが、明治時代になって大型の外国船が入港するようになり沖で荷の上げ下ろしをする「沖仲仕」が生まれた。《沖仲仕には、この仕事を専業にして、いわば正社員として働いている「常人足」、決まった人夫部屋に所属していて、部屋単位で仕事をする「部屋人足」のほかに、一度に大量の人夫が必要になったときに、その日ごとに雇われる「買人足」があった。この「買人足」になら、すぐにでもなれるのである。》常人足というのは海運運送会社の社員のようだ。部屋人足はハケン、買人足はケータイバイトといったところか。

 海運運送会社は、船会社や荷主とは別物。《下請制が支配的となったのは、元来、海運においては貨物取扱量の変動が季節的にも日々の波動においても激しいものであったため、船会社、荷主などは港湾運送事業を直営しないで、専業の海運運送会社にまかせるほうが経営コストのロスが防げるからであった。貨物を大量に運ばなければならないときにだけ外注すれば安くつくのが道理である。》経営者の「道理」はいまも同じだ。労働事情は変わらない。

 船が入ってきたとき即座に労働力を集められるのは、底辺社会に通じているヤクザだったし、《当時の港湾労働は苛酷な労働であったため、前歴を問わず労働者を集めたので、荒くれ者や流れ者が多く、強い統率力なしに作業を運営できなかったという事情も加わっている。》近代初期のヤクザは労働力供給業者としての性格を持っていたと宮崎は言う。《一般に、ヤクザという無法者の社会がいつも健全な一般社会の外に実体としてあって、それが一般社会にいろいろと手を出して悪いことをする、とイメージされているようだが、そういうふうに恒常的な実体としてのヤクザというものがあるのではないのだ。》

 ちなみに終戦直後GHQは港湾労働を民主化するため「組」を中間搾取業者とみなし、「親方・子方制」と「組」を排除し、下請を否定しようとした。だが、いつどんな船がどれだけの荷物を積んで入港するか分からないのに多くの直接雇用労働者を抱えるわけにはいかないという事情は変わらず、結局GHQの計画は頓挫した。

●渡世人と家業人に大別されるヤクザ

 沖仲仕の仕事は非人間的なほどの重労働だった。荒くれ者、流れ者の世界ではあるが、常に危険と隣り合わせの協同作業であるだけに、一人の落伍者も出さないようにお互いに助け合うと同時に、一人だけの抜け駆け功名も許されなかった。《こういうところには、いわゆる任侠気質が自然に育まれる。そして、そういう気質をつらぬくものが重きをなしていくことになる。(中略)この沖仕の世界は、単に暴力だけで上に立てるものではない。仁と義を守り通す者でなければならなかった。その意味で、気質においても、ヤクザの世界、任侠の世界と背中合わせになっていたのである。》

 春吉は他人の嫌がる仕事を率先しておこなう人物であったところから「兄貴、親方」と仰ぐ男たちがしだいにまわりに集まってくるようになり、神戸に出てきて6年後には大島組の親分の舎弟杯をもらい、2年後山口組を興す。沖仕の仕事がやりやすいようにヤクザにもなったのだと宮崎は言うが、いまいち前後関係が分かりにくい。《ヤクザは渡世人と稼業人に大別される。博打を軸に集まり、正業をもたないのが渡世人、土木建設、運輸などの稼業を営み、基本的にそれで食っていくのが稼業人である。》とのことだが、土木建設業や運輸業に就いて税金を払えば立派な堅気であって、なぜこれをヤクザと呼ぶのかわからない。春吉はいざとなれば暴力も振るう労働力供給業者ということだろうか。

  ●組内を事業派と武闘派に分けた3代目

 2代目山口登に関する記述は少ない。大正2年(1913)徳島県の貧農の子として生まれたのちの3代目田岡一雄は、小学1年で天涯孤独の身となり、神戸に出てくる。初代の次男と高等小学校で同級生だった縁から山口組に入る。《がっしりした体躯に肝の据わった目つきをしたその男は、喧嘩となると獰悪なまでの戦闘力を示したため、仲間から「クマ」と呼ばれて畏怖されていた。》昭和7年、二所ノ関部屋と友綱部屋の騒動にあたって友綱部屋の幕内宝川を斬ったことで名を挙げる(こののちもしばしばヤクザと相撲取りの関係が出てくる。いまなおヤクザの組に最も似ているのは相撲部屋だと宮崎はいう。新弟子を折檻で死なせたり、力士が麻薬を吸ったりする騒ぎは偶発的なものではないように感じられる)。

 昭和21年3代目を襲名するにあたって田岡がたてた3つの目標の筆頭は、「組員の各自に職業を持たせること」だった。日本が新しく生まれかわった今日、「極道がバクチだけで生活を立てていく考えはもう古い。魚屋でも喫茶店でも駄菓子屋でもいいから生業を持たせることだ」と考えた。しかし《博打や用心棒といった旧きヤクザの虚業のナリワイから、新しい現代的実業の世界への進出を始めていったのである。》と宮崎はいうが、実現したのは競馬場・競輪場などの警備の仕事で、お上が胴元であるとはいえ博打場の用心棒だ。縄張り争いも絶えない。「何をして食うていくのか、食わせていくのか、寝ても覚めてもそのことばかり考えていた」という田岡は、港湾荷役業界と芸能興行界に的を絞っていく。

 沖仲仕の統括も芸能民の仲介も《いずれも、下層社会、被差別社会との境界領域において、ヤクザがその社会的権力を駆使して伝統的におこなってきた稼業であった。》この「境界領域」という言葉は、本書を読み解くうえでのキーワードの一つかもしれない。《もともと、芸能者の世界とヤクザの世界とは、隣り合い、一部は重なり合っていた。芸能者は近世身分社会の外に生きる民であり、近世ヤクザは身分社会の周縁に生きている存在として芸能者の世界と接触し、交流する位置にあった。》この関係は近代になってからも変わらず、芸能人は地方興行に出たらその土地の親分に挨拶に行かなければ無事に興業を終えることはできなかった(媒介者としての利益はたかが知れている。山口組は自ら興行主となることで飛躍的な成長を遂げていくのだが、媒介者を必要としないテレビというメディアの発展でそののち排除されていく)。

 田岡はこの時点ですでに山口組を株式会社にしている。堅気の会社ではない。当初から側近に事業派と武闘派を置いた。この体制によって「ヤクザとしての社会的権力」をパワーアップし、神戸港全体を支配していく。

●ヤクザにしかなれない人間たち

 田岡が傘下の下請労働者を元請会社から守ったエピソードが出てくる。バラ積みの硫黄の荷役は有毒ガス発生のおそれがあるから禁止されていたのだが、現場に行ってみるとその禁止作業だった。田岡は船倉内での作業時間を制限することと危険手当を支給することを要求したが、元請の幹部は聞く耳を持たない。いやならほかへまわすぞという。《田岡は、それなら一度あの危険な場所でどれだけ作業が続けられるか、いっしょにやってみましょうやと、むりやりうながして、長靴をはきスコップをもって二人で船倉に降りた。十分も経たずに音を上げた社員は、田岡の要求をのんだ。下請労働者は、その一部始終を見ていたのである。こうしたやりかたが山口組流の労働者組織の方法だった。》「肯定論」だから田岡を賞賛するに決まっているとはいえ、こういう話には心が揺さぶられる。

 60年安保ののち田岡は田中清玄とともに「麻薬追放国土浄化同盟」を結成、本気でとりくんだ。組内には反対する声も多かったがやり通した。《ヤクザにしかなれない人間たち、麻薬密売でしか生きていけない人間たち、そうした者たちが存在してしまうことを田岡はよく知っていたし、誰もが見放し相手にしないそういった者たちのために山口組があるのだ、と信じていたからだ。任侠とか愛国とかいうまえに、そういう現実がある。そういうものとしての組を俺はあずかっているんだ。それが田岡のヤクザ観だった。》暴力団追放運動が盛んだったとき、田岡自身が「あんまりいじめんといてくれ、行き場のない者がおるんや」と言っていたのを思い出した。テレビで聞いた言葉が数十年ぶりに記憶の底からよみがえった。

●広域化で失った社会的権力

 宮崎は、ヤクザというものを、企業・行政・労働組合などの社会的権力と同等のものとしてとらえている。《国家や警察が、ヤクザがもっている特権を黙認したり、それを事実上公認して利用したりしてきたのは、ヤクザが、そういう共同体の自治機能として、ひとつの社会的権力として成り立っているという事態をふまえて、二次的に出てきた結果なのである。》こういうことだろう。全国津々浦々に警察組織がととのって中央集権的な国家権力がこの国を統べるまで、各地域はヤクザをあてにして問題を解決してきたのだ。もっともヤクザが「広域化」するにつれ、そういう牧歌的なヤクザは姿を消していく。

 60年安保ののち行き場を失った全学連の幹部を山口組は田中清玄を通じて一時預かった。ヤクザのアジール(隠れ場)機能を活かしたのだった。宮崎によれば、1970年代初めまで日本の下層社会には《法の支配が入れない領域、基本的に自力救済で生きていかなければならない社会》があったのだという。ただし《それはヤクザが地域共同体・職域共同体に根づいて社会的権力をつくりあげ、それによって国家権力の行使と対抗できているかぎりにおいてのことであった。あくまで対抗権力の力がどれだけあるかにかかっていたのだ。》中央集権による法治国家が完成してしまった今となっては、国家権力に対抗する権力が存在したという話はピンと来ない。

●土建業の機械化とともに基盤を失う稼業人ヤクザ

 宮崎は本書を執筆するにあたって資料を博捜している。しかし資料は伝聞の一種にすぎず体験こそ第1級の資料だと思わせるのは、つぎのようなくだりだ。《一九六三年(昭和三八年)暮れのことだった。私の父が組長をやっていた京都伏見の寺村組が、山口組と衝突した。(中略)たちまち本業の解体屋の事務所に子分たちが集められた。ドラム缶で焚き火が燃やされる。竹が切られて竹槍がつくられ、先端を焚き火の火であぶって焼き締める。弾倉帯をたすきがけにして、猟銃を構えているものもいる。舎弟の女房で、及ばずながら妾(ワタシ)も……と日本刀を引きずって鉢巻き姿で駆けつけたものもいる。裏では炊き出しがおこなわれ、庭には四斗樽が据えられて、みんな茶碗で酒をあおっている。明治時代から続く伝統的なヤクザの出入り風景である。》そうやって双方とも気勢を上げているうちに仲裁が入っておさまる、というのがお定まりのコースなのだが、山口組だけは違った。仲裁に入った組長は、著者の兄にこう言った。「ボン、京都市内の大きなホテル調べてみなはれ。チャカもった鉄砲玉が100人単位で入ってきとるで」

 寺村組は土建業をいとなむ稼業人ヤクザであり、日ごろ肉体労働にたずさわっている稼業人ヤクザは博徒のような渡世人ヤクザより喧嘩に強いとされていたが、当時の山口組はすでにその常識を越える存在になっていた。《暴力行使の形態も、かつての泥臭い喧嘩の域を超えて、機能重視の無機的なものになっていたのである。》

 事業派と武闘派の両輪を使うという田岡の路線は1960年代前半に絶頂期を迎える。高額納税者になり神戸港船内荷役調整協議会の委員に選ばれていた田岡は、1959年には神戸水上署の一日署長をつとめている。

 1970年代に建築・土木などの業界で機械化が始まるにつれ、業界内部の組織が変化するとともに元請・下請の関係も変化し、稼業人ヤクザは基盤を失っていく。山口組壊滅作戦はこのような高度経済成長にともなう社会経済体制の変化のなかで進められた。《頂上作戦の結果、一八万人いたヤクザは、一〇万人に減った。大きな成果だと警察は胸を張った。/だが、それでは、組から脱退した八万人は、どこへ行ったのか。》もともと行き場のないひとびとだ。結局元の木阿弥になった。そしてマフィア化していったと宮崎はいう。

 それを見つめる田岡一雄の目は淋しげだ。娘に向かってこう語る。「おれは昔、生業を持てと言うたけど、実業家になれと言うた覚えはない。いま、みんなどないしてカネもうけてンのやろうなぁ。外車に乗って、派手にして、みんなカネ持ってるやろ」「ええ、そうみたいやわね」「そりゃあなァ、警察の人間も腹立つやろな。外で暑い暑い中、防弾チョッキ着て、給料安いのにやってはる。一方は涼しい顔して外車に乗って、何や訳のわからん仕事しとる奴がええカッコしとったら、そら腹も立つで」(『お父さんの石けん箱』田岡由伎、角川文庫)

 「行き場のない者」とはいったい誰のことなのか、次回はそれを重点に見ていこう。(つづく)