08(2009.08 掲載)

 『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年――(宮崎学、筑摩書房)

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(つづき)

●ヤクザの体制内取込みを図った原敬内閣

 大正7年(1918)に起こった米騒動のさい、神戸のヤクザは下層民の立場に立って米屋と値下げ交渉をした。《当時、ヤクザの多くは、下層社会で細民や貧民と同じような生活を送り、生活感情、生活意識をともにしていたのである。下層民の困窮は彼らの困窮であり、下層民の憤懣は彼らの憤懣であった。》ただしヤクザのリーダーは、襲撃行動の途中で、米屋とは無関係の店や会社でしきりに強請をやった。たとえば酒屋に行って、米が下がったんはだれのおかげや思うてんのや、こんどは酒屋騒動やと脅し、警備してやるからビール1ダース出しやなどとやる。《彼らの行動様式が堅気の下層民と違うところがよく表れている。》義侠心だけで動くわけではない点を指摘しながらも当時のヤクザを見る宮崎の目は温かい。

 米騒動は寺内内閣を崩壊させた。あとをついだ原敬内閣は、大衆掌握政策の一環としてヤクザの体制内取込みを図った。《それは国粋主義と右翼思想を表に出して、仁侠の徒をその一部として組み込むという体裁をとっていた。》ヤクザと右翼・政治家との本格的なかかわりはここに始まるのだろう。大正8年、関西・関東の大親分を結集して大日本国粋会が発足。もっぱら労働争議や被差別部落民の差別撤廃運動に対する攻撃をおこなった。

 太平洋戦争が始まると、軍部は外地での土木工事や兵站などをヤクザにやらせた。慰安施設の経営や慰安婦の調達もヤクザにまかせた。戦争末期になるまでヤクザは徴兵されなかった。ふだん日陰者のヤクザは「お国のために働ける」というので軍部に協力したり、国粋会の依頼で挺身隊を組織したりしたが、じつのところヤクザにお国意識などなかった。覚醒剤ヒロポンの製造・貯蔵・配布にはヤクザが使われていたからヤクザはこれを横流しし、敗戦時には大量に隠匿してのちの資金源とした。

 昭和23年の総選挙で35議席を得た共産党は、武装闘争・非公然活動を強化した。赤色革命に対抗すべく木村篤太郎ら保守政治家はヤクザを戦力とする「20万人の反共抜刀隊」を構想した。戦前の大日本国粋会をめざしていたのだが、吉田茂首相がもはやそんなことで治安を維持することはできないと資金提供を拒否したため頓挫、頓挫はしたが、その過程で政治権力と関東の伝統的ヤクザが結びつき、破防法の国会通過にさいしてデモ隊を排除するため、保利茂官房長官などが日本街商連合(テキヤ集団)に院内警備を依頼した。

 ヤクザと結びついていたのは河野一郎・大野伴睦・岸信介。岸は笹川良一・児玉誉士夫を利用して政治家とヤクザの結びつきを強めた。60年安保反対闘争に追いつめられた岸首相は、アイゼンハワー米大統領の訪日を画策、反対勢力を蹴散らすために8億円の資金で博徒1万8000人、テキヤ1万人、旧軍人・右翼団体員1万人を動員しようとした。この計画の中心になったのは木村篤太郎だが、彼の肩書きを見ると「自民党暴力対策特別委員会委員長」だから笑わせる。

 また「総資本対総労働の対決」といわれた三池闘争でもヤクザは武装して三池労組のピケ隊に殴り込み、はては組合員を刺殺するにいたる。《このように、反共抜刀隊は実現しなかったものの、安保闘争、三池闘争の両方の現場でヤクザは任侠=右翼実力部隊としての存在感を示した。そしてこれを契機に、ヤクザが任侠=右翼化する傾向が強まったのである。》ヤクザにしてみればタテマエだけでも右翼活動をやっていれば警察に摘発されにくいという実利があった。今日の自称右翼による「街宣活動」にはこんな歴史があったのだ。

 田岡は、笹川・児玉系統でなく田中清玄につき、「麻薬追放国土浄化同盟」を結成。田中は児玉の「東亜同友会」つぶしに利用し、田岡は東京進出に利用した。田岡は右翼が嫌いだった。田中清玄は会津藩筆頭家老の家系で、東大入学とともに共産党に入り武装闘争を指導するも、母親の諫死で獄中転向したという人物、ただの右翼ではない。

●ヤクザと縁を切った池田政権

 自民党が決定的にヤクザとの縁を切ったのは池田政権のときのようだ。《一九五九年(昭和三四年)一月の自民党総裁選挙で、児玉誉士夫が立会人になって、岸信介に対して、岸信介→河野一郎→大野伴睦→佐藤栄作と政権をたらい回しにする旨の「念書」に誓約させたのだが、これが実行されなかった。》政権は官僚派の池田勇人に回ってしまった。岸は右翼の男に刺され、児玉はヤクザ七団体「関東会」の名で自民党議員全員に警告状を送った。

 《ところが、池田・佐藤を中心とした官僚派政治家は、これに怯えるどころか、反撃に出たのである。(中略)高姿勢・憲法改正の岸路線から低姿勢・経済優先の政策路線への転換が成功して国民の支持を集め自信を深めていた池田政権は、その路線の精神に沿って、裏のダーティな勢力に依拠する岸のころまでの統治方法を改めようとしていた。つまり、「ヤクザの要らない政治」をめざしていたのだ。それは、警察力の増強と末端までの法治体制の貫徹というかたちで推進されていった。そのような政策路線の推進は、もはやヤクザの暴力で補完されなければならない統治ではなく、国家権力による暴力の独占と法の支配による統治を確立することを意味していたのだ。》

 もうヤクザはいらない。「暴力団全国一斉取締」がはじまる。

●敗戦後の窮民アウトロー

 戦時中強制連行され全国の炭坑などで強制労働させられていた朝鮮人・中国人の一部は、敗戦と同時に「こんどはお前たちを使ってやる」とストライキや騒擾事件を起こした。GHQも「第三国人」(宮崎に差別的意図は感じられないのでこのまま使用)を「解放国民」として応援した。同じく獄につながれていた共産主義者たちも解放されるや軍の倉庫を襲い隠匿物資を摘発して「人民管理」のもとに置き「人民配給」をおこなった。板橋区ではこれを警視庁が奪い返したところ、警察が武力を制限されていたという背景もあるが、警視総監室が共産党員や一般都民に占拠されるという事態まで起こった。みんな飢えていた。食うのに必死だったのだ。

 闇市は解放区の様相を呈していた。《特に「第三国人」は銃器や刀剣で武装して集団で結束しており、多くが戦争中に差別と酷使のもとにおかれた反動で、こんどは逆に日本人を実力で抑えつけようとしていた。》これに対抗できるのはヤクザだけだったので、警察もヤクザの武装を黙認した。《当時の大都市の治安を守ったのは、警察ではなくヤクザだったのだ。》神戸市の市有地を台湾省人が不法占拠したとき、神戸市は山口組に奪還を依頼、拳銃・日本刀・鳶口・手榴弾などで武装した山口組は、神戸市のマークの入った公用トラックに乗って突入した。

 兵庫警察署は300余名の第三国人に占拠された。そのため山口組が常駐してガードすることになった。もし第三国人に襲われたら警官は全員重要書類を持って逃げ、あとは山口組が迎撃するという取決めが警察幹部とのあいだになされていた。警察幹部は組員に相手を殺傷してもその罪は問わず裁判所の裏口から釈放し報奨金を出すと確約したそうだ。のちに県警は山口組壊滅作戦に乗り出すのだが、癒着がはなはだしくていっこうに実を結ばなかった。

●違法行為と犯罪行為は別物

 戦時中の民族差別に対する怨念から第三国人たちは民族的に団結することはあったが、食うや食わずの闇市では、基本は個人の生存競争であり、集団の利権闘争だった。《民族的対立は二の次だった。そうしたところからこれらの抗争を見ないと、実体を見誤ることになるだろう。また、それからさほど経たないうちに、民族的に敵対していたはずの「第三国人」の先鋭分子が次々に日本人ヤクザの組に加わってきた事実も説明がつけにくくなる。》

 戦前の朝鮮人には「ヤクザに入る自由」すらなく、ヤクザの85%は被差別部落出身者だったという。《闇市時代、占領政策によって戦勝国民としての扱いを受け、日本人に対して一時的に優位に立った在日朝鮮人は、講和条約発効後、アメリカと日本の反共・反北朝鮮政策もあって、日本国内では一転して、ある意味では戦前よりも激しい差別と敵視にさらされることになった。こうしてこの時期から、在日朝鮮人社会は、日本社会のうちでもっとも底辺に位置する社会となり、貧困と差別に苦しむことになったのである。》

 山口組は闇市時代、在日朝鮮人との激しい争闘を通じて逆に心を通い合わせ組内に吸収していった。関西のヤクザに関する限り1980年代まで組員の3分の1は被差別部落出身者で3分の1は在日コリアンだったと宮崎は言う。《歴代の直系組長、舎弟を見ただけでも、部落と在日が山口組の中で大きな数をしめていたことがわかる。》宮崎の父が京都府の被差別部落の生まれであるというから確かな話だろう。宮崎はここで何事かを暗示しているように思える。自分のことはカミングアウトできても、他人様のことは差障りがあるのだ。

 在日コリアンのほとんどは職にありつけなかった(昭和34年統計)。職がなくて食い物がなければ違法なことをしてでも生きていかざるをえない。違法行為と犯罪行為は違う、と宮崎はクロポトキンとミシェル・フーコーを援用して力説する。法律的には違法なのだが、社会的には犯罪とされない行為があったのだと。

 タイトルの意外性に惹かれて読みはじめた本書だが、ここまで蒙を啓いてくれるとは思わなかった。無知という点においては自分も差別発言をくりかえす石原慎太郎も似たり寄ったりだ。ひとつだけちがうとすれば、誰だって先祖をたどっていけば何が出てくるかわからないという認識があるかないかだろう。