09(2009.09 掲載)

 『やくざ外伝 柳川組二代目――小説・谷川康太郎――(猪野健治、ちくま文庫)

   yakuza_gaiden.jpg
 敗戦直後、神戸の闇市からのし上がった在日コリアンのぐれん隊「柳川一派」が「柳川組」に昇格し、そして壊滅するまでの一閃の光芒を描いた一冊。山口組から盃をもらった柳川組は、山口組の地方進出の先兵となった。柳川組の初代親分は柳川次郎(梁元錫)なのだが、なにしろこの親分しょっちゅう刑務所に入っているので、谷川康太郎(康東華、1928〜87)が2代目を襲名して組を主導することになった。

 2代目は、地方進出のさい「通れるだけの細い道をあけてください。あけなければ大きな岩を動かしますよ」と既成のヤクザをやさしく恫喝した。ドストエフスキーやレーニンを読むインテリでもあった。著者の猪野は谷川に直接インタビューしている。小説と銘打ってはいるが、実名を伏せているだけで、描かれていることは事実そのもののようだ。

●軍の隠匿物資をねらえ

 空襲で人口が半減した敗戦直後の神戸から物語は始まる。第三国人を中心とした闇市のありさまがじつに生き生きと描かれている。神戸の闇市は、台湾省会・朝鮮人連盟・日本人ヤクザ・テキヤ・ぐれん隊の5系統に分かれていたという。

 奈良少年刑務所から出所したばかりの谷川は、友人の朴正根と拳銃を入手して強盗をくわだてる。このとき谷川はまだ17歳だ。とある闇酒場に押し入るのだが、アナーキストの店長が経営する酒場に集まる客はみなタダモノではなく、逆に殺されかかるのだが、そこに居合わせた新聞記者の大谷に助けられる。

 大谷は反権力志向の強い人物で、こんなことを言う。「何も持たない人間は、あり余るほど持っとる奴から取ることや。生きる方法がそれしかないときは、そうやるしかない。違法かもしれんが、犯罪やない」宮崎学も『山口組三代目』で同じことを述べていた。この本に学ぶところが大きかったようだ。

 《差別され、貧しくて勉強する機会もろくに与えられない少年の歩む道は二つしかない。我慢して屈辱に耐えるか、死にものぐるいで修羅の道を突っ走るかである。革命運動の道があるではないかと言えるのは、革命理論に接する余裕のあった人間にだけ言えることなのだ。》と、これは猪野の思いとして述べられている。

 敗戦時に軍部が隠匿した軍需物資を奪えと大谷から示唆された谷川は、隠退蔵物資摘発隊なるものを結成する。谷川もまた祖国を盗んだ日本が何の罪にも問われないことを憤っていた。《日本の犯した罪は隠退蔵物資摘発隊の比ではない。強制労働現場の劣悪な環境の中で病魔に冒され、祖国の土を踏まずに死んでいった同胞の話を、谷川はいやになるほど耳にしていた。》

●懲役のニオイ

 このようにして谷川は自己正当化のための理論武装をしていくのだが、日本の法律には逆らえず昭和23年強盗傷害で懲役12年の刑をくらう。20歳になったばかりだった。

 昭和32年出所。昔の仲間の朴と西村が出迎えてくれ、出所を祝ってくれる。女を抱きたくても、2週間は我慢して刑務所の臭いを抜かなければならないというから、よほどくさいところと見える。

 翌朝の朝食風景。《「さ、みんないただこうやないか」/朴は合掌してから箸をとった。/西村も谷川もそれにならった。何に対して手をあわせるのか、そんなことは考えなくてもいいと所長は言った。だがそれを一日三回つづけているうちに、いつの間にか習慣になってしまった。習慣というのはこわいものだ。》

 刑務所生活の長かった安部譲二は、刑務所暮らしを経験した者はどんなにそれを秘密にしていても見分けがつくと言っている。どこでそれがわかるとは言ってなかったが、こういう習慣のことを指しているのかもしれない。あるいはまた朝食前の一場面、《谷川は歯みがきから洗面・整髪までに十分とはかからなかった。/これも服役で得た特技の一つだった。もたもたしていると、冬場なんかは待たされている連中にぶちのめされた。》こんなところに同じ経験を持つ者は服役の気配を感じるのだろう。

  ●ぐれん隊から柳川組へ

 ぐれん隊には縄張りがない。縄張りがなければ安定した収入が得られない。ぐれん隊が組織として定着するためにとれる手だてはただ一つ、既存組織の縄張りに足を踏み入れ実力で侵食することだ。「持てる者から奪い取るしかないんや」これが谷川の哲学だ。山口組の傘下に入り全国制覇の先兵になったとき、各地の既存組織に向かって言い放った「通れるだけの細い道をあけてください」という決めぜりふも、おそらくぐれん隊時代の信念からきたものだろう。

 飛田新地の赤線を牛耳っていた鬼頭組200人に、10人そこそこの柳川一派が勝利すると、仲間入りを希望する若者が続々と押しかけてきた。面接の朴正根はすべて断ったが、何度も訪ねてくる者には一つだけ質問した。「ほかにも食べていくくらいの仕事はあろうが」それに対し「あかん。おれは勲章持ちやからほかに行くとこないんや」と答えるせっぱ詰まった者だけを拾った。中途半端なヤサグレ(不良)は、いざというとき真っ先に逃げよるというのがその理由だった。

 こうして柳川一派は「殺しの柳川」として名を馳せるようになる。「おまえら、喧嘩に負けたら明日から飯が食えんぞ」と朴は若者たちを叱咤した。戦中戦後に飢餓を体験した者にはこれが一番効いたようだ(柳川次郎は「まずみんなが飯を食えるようにすることや」と考えていた。山口組の田岡一雄も同じだ)。人間が心の底から必死になれるのに必要なのはこの一点だろう。

 またたくまに100人を擁する組織になった柳川一派は、有力組織の組長や大幹部の盃を受けることなく、柳川組を旗揚げした。しかしいつまでも流血のシマ荒らしを続けるわけにもいかない。土台を固める必要が出てきた。

 谷川から相談を受けた大谷は、柳川組の名前を出さずに商店会の親睦組織を作るという知恵をさずけた。「政治家を使うんや。政治家の秘書経由で商店街の小ボス級にコネをつける。会員は向こうの方でつのってもらうんや。選挙のときには協力するいうたら、政治家は弱いもんや」世故にたけている。その後はとんとん拍子だ。たとえば悪徳金融屋にだまされて困っている店の相談に乗り、金融屋を拉致して締め上げるというウラの方法で解決してやる。あまりの手際の良さに脅された金融屋が「うちの用心棒にならんか」と持ちかけるほどだ。会員たちは裏事情を知らぬまま互助会への信頼を一気に高めていった。これが宮崎学の言う「ヤクザがかつて担っていた共同体の自治機能」なのだろう。

 昭和35年、柳川次郎は山口組の田岡組長から直接盃を受け直系若衆になり、以後山口組の地方進出の先兵となる。柳川組の戦略は、仁侠とぐれん隊の境界線を破ったと評された。《要するに伝統系の博徒、テキヤとぐれん隊の区別を、つけ難くしたということである。わずか数人のぐれん隊から出発した柳川組は、無手勝流で勢いのおもむくまま地方の博徒、テキヤ、ぐれん隊を貪欲に併呑していったのだ。》

 「行動隊長」の異名をとる谷川は、「喧嘩をしないのはムショにいるときだけ」と陰口をたたかれるほど血の気の多い男だったが、一方でローカル新聞「週刊シンニチ」の大阪総局長に就任、商店街からの広告集めという合法的な手段で資金を得るという知恵者でもあった。のちに「大阪報知新聞」を創刊するのだが、それ以上のことは書かれていない。

●読書家の極道

 谷川が柳川組2代目を襲名した昭和39年、時の池田政権はヤクザを必要としない政治を目指し、「組織のトップを狙う頂上作戦、資金源断絶作戦、拳銃追及作戦」を3本柱とする「暴力取締対策要綱」を打ち出した。《安保闘争後、政府は警察、情報機関を強化整備し、反体制勢力に対抗するに十分すぎる態勢をととのえた。もはや警備の不足分をやくざに請負わせる必要はなくなったのである。》昭和40年には関東のヤクザはつぎつぎと解散に追い込まれていくのだが(ただし偽装解散)、関西の親分衆はこの取締を一過性のものと見くびっていた。

 だが42年になると、警察庁指定の広域暴力団で残るのは山口組と柳川組だけとなり、ついに谷川も収監されることとなった。

 収監前、例の酒場で大谷と会った谷川は、一冊の書物について論じだす。『やくざの世界――日本社会の内幕――』(ダレル・ベリガン著、近代思想社、昭和23年)だ。この本は「日本の家族は、ある意味ではすべて与太者の集りであり、親はみな与太者のかしらである」という、現在ならとても出版できないような書出しで始まっている。ダレルはニューヨークポスト特派員。戦勝国の単細胞記者がアメリカ人の喜びそうなことを書いている。《現在の与太者たちが日本の社会にとって危険であるのと同様に、日本の家族制度は世界という社会にとって危険な存在なのである。父親に対する絶対的な服従、その究極の姿としての最高の父親たる天皇、中世的な義侠に対する幼稚で感傷的な感情、全体の利益に優先するところの集団的利己心など、そのほかにも数多くの類似点が、日本の家族制度と親分制度との間に存在する……》つまりヤクザは天皇制の反映であり、ともに非民主的なものだから廃止しなければならないと言いたいのだろう。この意見はGHQの対日本政策に沿ったものだ。GHQは昭和21年に暴力団の徹底的取締を指示したとき、「親分子分制は民主主義に反するからこれを排除せよ」と言っている。

 「日本社会の家父長制を解体すれば、親分子分的なタテの人間関係は根幹を失ってゆらぐ。同時にその上に乗っかっている天皇制も支えがなくなって空洞化していくと。日本をアメリカ流に近代化するにはそれが一番有効とした」と谷川は見る(それにしても、こんな終戦直後に出た本まで読んでいるとは驚きだ)。

 そういう国家の方針によって自分が収監されると谷川は位置づけたがっているのだが、しかし時代は高度成長期の昭和40年代だ。警察による頂上作戦はもはやそういった性格のものではなかろう。

 著者は酒場に居合わせた人物のひとりにこう言わせる。「日本のやくざは大きくなり過ぎたんや。権力が利用したツケや。なにしろ独占資本の利潤を食いつぶすほどになったんやから。そこでこんどはつぶしにかかったんや」アナーキストのマスターが経営するこの酒場にはインテリヤクザが集まるのだ。

 大谷の見方はそれを補完するもののようだ。「現代の日本ではほとんどすべてのものが、権力の管理下におかれとるわけや。だけど一つだけまったく管理できんものがある。それが親分子分制や。権力がこれをつぶしにかかったとしても、何の不思議もないで」あいかわらず反権力志向の強い新聞記者だ。

 それに対して谷川はこう言う。「わたしら極道が、権力の厄介者になってきたのは、たしかかも知れんな。もっと勉強せんとあかん」極道が権力と共存してきたという事実を極道自身が語る証言だ。

 最後に谷川語録から一つだけ挙げておきたい。「衣食住が満たされぬのは、それ自体が犯罪である」