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『もの思う鳥たち――鳥類の知られざる人間性――』(セオドア・ゼノフォン・バーバー著、笠原敏雄訳、日本教文社)
さる高名な司会者がテレビのクイズ番組冒頭で「犬や猫も夢を見るということが最近明らかになりました」と言ったときには、何をいまさらと思った。犬猫と身近に接したことがある者なら誰だって知っていることだ。まあ確かにそれを科学的に証明せよといわれれば困る。だから司会者の言ったのは、実験によってくりかえし確認可能な方法で証明されたということなのだろう。 本書の結論は「鳥は本能的な自動機械にすぎないというこれまでの科学的な公式見解は誤りである。鳥たちは敏感な意識や感情を持っており、1羽1羽個性的で、自分のしていることをわきまえている」というものだ。きっと夢も見るのだろう。著者のバーバーは鳥類学者ではなく、「頑固一徹で懐疑的」と自称する行動学者。その彼が鳥の行動に関する科学的論文を6年間にわたって博捜した結論なのだ。 ところが1993年に刊行された本書は、翌年にはペンギンブックスに収録されたにもかかわらず、専門家からはまったく無視された。もっとも侮蔑されたのは動物の擬人化だったようだ。「訳者後記」で笠原が指摘する次のことを頭に置いておかなければならない。《西洋のキリスト教文化圏では、人間と動物を本質的に異質なものと考える伝統を根強くもっています。アメリカでは、周知のように現在ですら、進化論を学校で教えることを禁じている州がいくつかあるほどです。「なんじ、擬人化するなかれ!」という要請は、動物を擬人的に見ることに少しも違和感を覚えない日本人からすると、まさに想像を絶するレベルにあるのです。》 笠原は心理学科の学生だった1966年に文化人類学のレポートで、宮崎県幸島のサルの芋洗い行動を動物も文化を持つ一つの証拠だと書いたところ、担当教授からわざわざそれを否定する長文の手紙をもらって驚いたことがあるという。日本でも学問はすべて西洋流だから、動物の行動はすべて「刺激と反応の連鎖」としてとらえなければ科学とはみなされなかったのだ。サルの群れの研究をするとき一頭一頭に名前を付けて個体識別をするのがあたりまえと思っているのは日本人だけで、キリスト教圏の学者はいまだに動物に個性や主体性があるとは考えていないようだ。 ●人間と会話できる鳥がいる
【アレックス】 彼は初めて見たものでも持てる単語の範囲で命名する。たとえば灰色のヒマワリの種を「灰色ナッツ」というように。また1から6までの数字を理解するので、長方形の紙を「角が四つ」と呼んだり、フットボールを「角が二つ」と呼ぶなどの工夫をした。《ニンジンを食べている学生に、それは何なのか、その色は何かと質問して、「オレンジ色」という色彩と「ニンジン」という名詞を学んだ。それ以来、「灰色」と「オレンジ色」はきちんと見分けられるようになり、ニンジンは、時おり要求する野菜のリストに加えられた。》 ペッパーバーグ教授のおこなった詳細な実験の記録は『アレックス・スタディ――オウムは人間の言葉を理解するか――』(共立出版)として出版されているが、B5判380ページ7350円ではちょっと……。映像記録1時間ならこの値段でも買う。
【アーノルド】
【ブルーバード】 どんな鳥でも人間と話せるようになるわけではない。《オウムやインコやムクドリのように、人間が使う音声が発音できる器官をそなえた鳥たちは、人間にとって意味のある言葉で話すこともできる。鳥たちがどこまで話せるようになるかは、まず何よりも、人間が鳥と深くかかわって、鳥との間にきずなを結び、鳥に向かって、その場面に応じた語りかけを意図的にくりかえしつつ、単語や言いまわしを教えようとする努力を、どこまで辛抱強く重ねるかという点にかかっている。》人間が鳥を理解できるように《鳥も、人間の発声や身体言語の意味を理解できるようになる。》とのことだ。 《かつて人間が、無人島に棲む鳥に初めて近づいた時には、すぐそばまで接近することができた。長い間、鳥の持つ能力が人間にわからなかった理由としてきわめて重要なのは、鳥たちが経験的に人間をこわがるようになり、人間が近づきすぎると逃げ去るようになったことだ。》うーんそうだったのか。そういわれてみれば初めて人間を見る生物は、魚でも獣でもなんの警戒心もなく寄ってくる。しかしさんざんクイモノにしてきたからなあ、ほとんどの生物は人間に対する警戒心を遺伝として持っているのではなかろうか。
●本能は知性を備える 「鳥は本能的な自動機械ではない」という著者は、本能というものをどう定義づけているかといえば、「(精子と卵子をとおして、世代から世代へと伝えられる)生まれつきのプログラムすなわち種(シュ)の実行計画」であるという。指針(ガイドライン)といいかえることもできる。つまり、本能によってプログラムされてはいるが、その本能には知的な柔軟性も含まれているといいたいのだ。鳥は空を飛ぶようにプログラムされ、人間は地を歩くようにプログラムされているというちがいはあるが、ともに環境に対して知的かつ柔軟に対処している。人間だけが知的なのではなく鳥もまた知的なのだと著者はあらためて強調する。それならカエルもミミズも知的に行動しているといえる。ちなみにチャールズ・ダーウィンは『ミミズと土』(平凡社ライブラリー)のなかでミミズがいかに知的な生物であるかを入念な実験で証明している。 人間の新生児はこのようにプログラムされている。《発達心理学の最も重要な発見のひとつは、(生後わずか四二分後に実験の対象とされた)人間の新生児でも、実験者が舌を出すと、それをまねて自分も舌を出すし、人間の顔の動き――たとえば、口を開ける、口を突き出す、眉を動かす、ほほえむなどの行動――をほかにもたくさんまねるという事実がわかったことだ。》顔まねをする本能があり、状況によって表情を変える知性があると言い換えられるだろう。 しかしそれにしても生後42分とはねえ。むかしは1ヶ月ぐらいたたないと目は見えないといわれていた。最初の子が生まれる前、わたしは赤ちゃんに関する本を数冊読んだが、その中の1冊(『胎児は見ている』祥伝社だったかな)に胎児のうちから目も見えていれば耳も聞こえていると主張するものがあった。そこで退院したての、ということは生後1〜2週間ほどのわが子で実験してみた。仰向けに寝た赤ん坊の顔の前でおもちゃをゆっくり移動させると、確かに目で追った。赤ん坊の白目が青みがかっているのに気づいたのもそのときだった。ところがそれから20年ほどたったころある老保健婦にそれをいうと、そんなに早くから見えはしないといわれた。赤ん坊に接する機会の多い専門家にそういわれたのでは反論できない。本書を読んでようやく胸のつかえが下りた。(つづく)
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