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 『もの思う鳥たち――鳥類の知られざる人間性――(セオドア・ゼノフォン・バーバー著、笠原敏雄訳、日本教文社)
原題 The Human Nature of Birds : A Scientific Discovery with Startling Implications(鳥たちの人間性――驚くべき示唆を含んだ科学的発見――)

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 (つづき)

●鳥の聴覚は人間の10倍

 シジュウカラの聞きなしといえば「ツツピン」ということになっているが、わが家の窓辺に来るシジュウカラはじつにさまざまな鳴きかたをする。毎年5月になると雛を連れてくる。大きさは親と変わらないが羽がボサボサして黒白の模様もくっきりしていない。窓辺にはヒマワリの種が用意してあるので、親鳥が餌のありかを子に伝え同時に皮をむいて食べる方法も伝授しているようだ。親鳥が手本を見せているのに、そばにとまった雛は翼を少し広げてブルブル震わせ「ジュジュビン」と鈍く鳴く。まるで「食べちゃちぇてよう」と甘えているようだ。すると親鳥は「もう知らないから」とばかりに鋭く一声鳴いて飛び去り、雛はあわてて後を追う。

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窓辺のシジュウカラ
(2009冬)

 ところで鳥はわれわれが聞き取る速度の10倍のスピードで鳴いているらしい。われわれがツツピンと4文字で表現する声もシジュウカラが書けば40文字になってしまうのだ。「時間の分解能」が高いということになる。ものすごい小節回しなのだ。それならスロー再生したらどうなるか。《鳥のさえずりの録音をゆっくり(本来の速度の二分の一から六四分の一で)再生すると初めて、そこには、人間がこれまで想像したことのない特徴が含まれていることがわかる。》電子機器が発達したおかげで、われわれはむかしのひとが知り得なかったことを認識できるようになった。

 「鳥の場合、時間の流れの速さが違う。鳥は、脈が速く、体温が高く、視力と聴力が鋭く、行動にしても、私たちが肉眼で追い切れないほどすばやいことが多い」と鳥とともに長年暮らしたある女性音楽学者はいっている。寿命は短くても人間に換算すればその10倍は生きていることになるのだろう。

 ある日静かな住宅街を散歩していると、聞いたことのない「ピュルピュル」という鳥の声が聞こえてきた。お、なんだなんだ、珍種発見かと思って鳴き声のする屋根のほうを見ると、スズメが2羽並んでいた。びっくりした。鳴いているのはたぶん雄だろう。スズメといえば「チュンチュン」だと思いこんでいたが、雌を口説くときにはそんな甘い声を出すのだ。

 鳥が鳴き声でコミュニケーションしていることはいうまでもないが、つがいでふたりきりになると静かにささやくのだそうだ。しかも交互に発声するという。《二羽がまるで会話でもしているかのように、語りかけられた側は、語りかけている鳥に集中しており、同時に発声することは一度もなかった》という報告がある。また鳥たちは実用のためばかりではなく楽しみのためにも歌っているのだそうだ。窓辺の鳥たちを見ていても、なにか用があって飛ぶだけでなく、飛びまわることそのものを楽しんでいるように見える。

●鳥とともに暮らしたひとの記録

 【ロレンツォ】
 ナチュラリストのロバート・フランクリン・レスリー夫妻は、巣から落ちたカリフォルニアカケスの雛を「ロレンツォ」と名付けて育てた。これがまたえらく頭のいいカケスで、驚くべき話がいくつも紹介されているのだが、たとえば、《二羽の(ロレンツォをつついて、食物を奪ったことのある)カラスが巣を飛び立ったのを見たロレンツォは、すばやくその巣に直行し、中の卵を転がして下に落とした。それから、自分のケージに戻り、レスリーを呼んで鍵をかけさせ、後でカラスが犯人を探しに来た時には、何と寝ていたふりをしたのだ。》という。

 似たような話を音楽学者のレン・ハワードが報告している。ハワードは自分の小屋のドアや窓を開け放ち、食料と巣箱を室内に置いて、鳥が自由に出入りできるようにした(多くの報告者はこういう方法をとっている)。ある日初めて飛び込んできたアオガラが《興奮してハワードの顔の前を飛びまわりながら、視線をハワードからそらさず、明らかに大きな問題を抱えていることを示す鳴き声をあげた。》ドアの外で待っていたつがいとともにアオガラはハワードがあとを付いてくるか確認しながら自分たちの巣まで導いた。巣はネコに荒らされていたので直してやると、つがいはそばで黙って見守っていた。10日後に雛がかえったという。

 まるで漫画のような話だ。きっと漫画家たちは実際に見聞きしたことをもとに「擬人化」して創作しているのだろう。学者はこの「擬人化」をひどく警戒する。《一九五三年にハワードが、著名な生物学者のジュリアン・ハクスレーによる序文を得て、自著『小鳥との語らいBirds as Individuals』(邦訳、思索社)を出版した時、鳥類学者たちは、擬人的だとして、明らかにこの本を無視した。》その後ハワードのいったことが擬人化でもなんでもなく事実だということが証明されていくのだが。

 こんな話もにわかには信じがたいが、事実のようだ。アジサシの群れに発砲し首尾よく1羽を撃ち落とし、それを回収にいったハンターが見た光景。2羽のアジサシが傷ついた鳥の翼を両脇から支えて運び、5〜6メートル飛ぶと静かにおろし、別の2羽にバトンタッチして安全な場所まで運んだというのだ。ウーン……。

●人間と鳥ではどちらが優れているか

 鳥たちが数千キロの旅をすることをわれわれは誰でも知っている。《渡り鳥たちは、測量器具も使わずに、自らの位置を確定して航路を決め、すみかへ帰る能力を持っているという点で、人間をはるかにしのいでいる。》かつては帰巣本能があるから自動的に帰れるのだと考えられていた。その後、地磁気を使うのだとか、風に乗るのだとか、いや陸標を見ている、太陽や星を見ているなど諸説現れたが、いまではそれらすべてを総合的に勘案しながら飛んでいることがわかってきた。

 そうするとこんどは「鳥の超能力」などといいだすのだ。それは人間を基準にして鳥を見る一種の蔑視だと思う。昔からわたしはそういう考え方をしている。ここにたまたま1987年に書いた文章があるので引用してみたい。《川で生まれ、海にくだった鮭が、3〜4年大海原を回遊したあと生まれた川に帰ってくることを「母川回帰」という。ひどく感心なことのようにいう人もいるが、裏返してみれば、それは鮭をバカにした見方なのである。九州から北海道に嫁いだ女性が、お産のために九州の実家に帰り着いたからといって、誰もほめはしない。人間は海の中を知らないけれど、鮭は知っているという、それだけのことではなかろうか。》

 鳥は空に詳しく魚は水中に詳しい。人間はそのどちらもよくは知らないが、科学的知識の積重ねによってそのどちらも航行することはできるようになった。それぞれに得意分野があるのだ。人間の能力で最も優れているのは、文化的知識の蓄積を未来の世代に伝えるという能力だと著者はいう。《他の動物たちは、記録した知識を世代を超えて伝えることはしないので、過去の考えは失われる。そのため人間は、動物たちが何も考えていないと思い込んでしまうのだ。》それなら人間はどんどんすばらしい存在になっていってもよさそうなのに、大昔からあいもかわらぬ愚行をくりかえすのはどういうわけなのだろう。

 カラスが賢いのは、脳みその量は少ないがフルに使っているからだ、それにひきかえ人間の脳は遊休部分が多くてフルに使ってない、などといわれるが、ともに偏見の一種のようだ。ことばを換えれば《大脳皮質は知能の座だ。/しかし、鳥の大脳皮質は非常に小さい。/したがって、鳥にはごくわずかな知能しかない。》といわれてきたが、人間は大脳皮質を発達させてさまざまな道具を作ってきたということにすぎず、鳥は鳥で《高線条体という脳の別の部位を発達させて、道具を使わない航行をはじめとする特殊能力を生み出した。》のだそうだ。自分の得意分野を基準に他者を評価すれば、そりゃ自分が上に立つ。

●悲しいほどアホな部分

 本書には鳥に関する驚くべき実験結果や観察例が出てくるが、ずいぶんまぬけな文章も出てくる。ハトの概念形成能力に関してハーヴァード大学のハーンスタイン教授が驚くべき実験結果を得たというところでは……。水の写真(スライド映像)をつついたときに餌が出てくるような装置にハトを入れた結果、その水が海でも川でもあるいは道の水たまりでもつついた。それどころか《実験室のハトたちは、人工物(たとえば、街路や建造物)と自然物(たとえば、森や野原)も区別したし、正三角形のようなきわめて特殊な形態を、他の三角形と区別することすらしたのだ。》ハトがビルと森を区別できんでどうする。わたしがテレビで見たハトの実験はすごかった。たとえばルノワールの絵をつついたら餌が出てくるという装置に入れられたハトは、ルノワールは必ずつついたが、ほかの画家の絵にはまったく無関心だった。ハトの絵画鑑賞力は人間とさして変わらない。

 悲しいほどアホな記述はまだまだある。《高名な老練の科学者である、ロックフェラー大学のロナルド・R・グリフィン教授は、サギが独自の方法で餌釣りしている時には、自分が今していることについて考えており、自分が何をしようとしているか、ということまでわかっているのかもしれないと、大胆な推測をしている。》これはたとえば熊本水前寺公園のササゴイが虫や枯れ葉などの餌もしくは疑似餌を水辺に落として、寄ってきた魚をくわえる方法を指しているのだろう。わかってるにきまってるじゃないか。自分がいま食餌をしようとしているのかセックスをしようとしているのか理解していない鳥なんているわけがない。それだけのことをいうため「高名」「老練」「科学者」「ロックフェラー大学教授」といったことばで権威付けをおこない、さらにそれでも用心して「大胆な推測」といわなければならないアメリカ社会とはどの程度の文明なのだろう。

 本書の原題『鳥たちの人間性』には違和感をいだく。われわれがいままで知らなかった鳥の驚くべき能力を表現するのに、なぜ「人間性」という言葉を用いるのか。キリスト教文化圏に生まれ育った学者の限界を示しているようにわたしには思える。翻訳者や編集者もおそらく同じ思いをいだいてとりあえずメイン・タイトルだけは『もの思う鳥たち』という表現にしたのだろう。