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 『「性別が、ない!」ということ。』(新井祥、ぶんか社)
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 一種の身体障害者といってさしつかえないだろう。著者紹介によれば、《1971年東京都生まれ。30歳まで女性として暮らしてきたが、染色体検査で両性具有(インターセックス)であることが判明。男性化したり女性化したりする自分の体質の謎が解け、縮胸手術を受ける。以後、男性として創作活動を続ける。》障害者手帳は出るのだろうか。

 本業は漫画家。名古屋デザイナー学院漫画・アニメーション科講師。カバーのイラストは新井の手になるもので、現在の男性の外見の下には女性が潜んでいることを表現している。外見を男性らしくしただけだから長年慣れ親しんだ女性の心は消えず、夜道でチンピラに「おい、こっちこいや」と難癖をつけられても、「やだ、ナンパ !?」と思ってしまうという出だしが漫画家らしくておもしろい。障害者本にハズレなし。

●両性具有とはなにか

 著者の性別は男と女の中間、半陰陽(インターセックス)なのだそうだ。《半陰陽は、染色体や内外性器の一部またはすべてが非典型的(一般的じゃないってこと)で、性別を男性にも女性にも分類できない「中間性」のことを指す。》染色体の異常ではどうにもならない。さぞや生きにくかろう。

 性同一性障害とまちがわれることがあるが、そうではないという。性同一性障害とは、《生物学的には完全に正常であり、自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面、人格的には自分が別の性に属していると確信している状態。》という書きぶりからは、いいなあおまえらはただかんちがいしているだけだもんなあと溜息をついているようにわたしには思える。

 インターセックスのひとは性同一性障害のひとに比べ、どちらかの性になりたいという衝動は弱いようだ。《「どちらかに合わせきる」というのは生まれ持って備わっている何かを「いらないものとして目をつぶる」ことになる。》インターセックスは男でも女でもない第3の性だという誇りが芽生えてきているのだろう。

 性同一性障害には2種類あり、体は男でも心はオンナというのがオカマ、その逆がオナベだが、その呼称はセクマイ(セクシャル・マイノリティ)に対する差別表現だというので、オカマはMTF(Male to Female)、オナベはFTM(Female to Male)と言い換えるのが正しい態度のようだ。差別用語撤廃運動というのはいつもそうなのだが、要するに難解な言葉に言い換えているだけなのだ。MTFもFTMも日本で定着することはあるまい。フルネームで読んでも区別がつかないのだから。

●「障がい者」はイヤだ

 「ふたなり」のような大和言葉はどういうわけか侮蔑的な印象をあたえる。テレビでニュースを聞いていると、アナウンサーは「50歳のオンナが60歳の女性を刺した」といっている。大和言葉のオンナは差別用語だから、敬意をあらわすには中国語という外来語をつかわなければいけないようだ。難解な漢語やアルファベットなら学術用語のような感じがする。「ぼけ老人」ではマズイが「認知症」ならかまわない、「かたわ」はマズイが「身体障害者」ならかまわないという語感だ。

   しかしいくらいいかえても切りがない。最近「障害者」を「障がい者」と表記するようになってきた。まるでそれが先進的な意識の表れであるかのようだ。「ふたなり」を「両性具有」と漢字にいいかえるのに対して、表意文字の漢字を仮名にすることによって意味を消そうとするもくろみだ。たとえば山形県のホームページにはこうある。《障害の「害」という漢字の表記については、「害悪」、「公害」等負のイメージが強いため、 差別・偏見を助長するという考え方があり、障がいのある方々や御家族、関係団体の皆さんから、自分や家族の呼称に「害」の字が使われていることについて大変遺憾、残念に感じられ、表記を改めるべきであるとの御意見も多くお伺いするところでもありましたことから》「障がい者」という表記を使用すると。

 まことにイヤな傾向だ(ちなみに「助長」の使いかたもまちがっている)。漢語に仮名を交える表記法を「交ぜ書き」という。まぬけなもので、わたしはこれが大嫌いだ。むかし市ヶ谷の大日本印刷へ出張校正におもむいた折、自衛隊の門の前を通りかかると看板に「駐とん地」と大書してあり、じつにとんまな感じがした。屯の字が当用漢字に入っていなかったからだ。常用漢字には入っている。きっと「士気に関わる」と自衛隊幹部から国語審議会に圧力がかかったのだろう。

 「障がいのある方々が大変遺憾に感じる」のは無知やひがみによるものだと敢えていっておこう。「障」の字はどうするのか。障も「さわり、さしつかえ」の意だ。「月の障り」などという(もういわないかそんなこと)。害に負のイメージがあるなら障にもある。障の字は意味がわからないからおとがめがなく難を逃れたのだ。障害者は心身に障害をかかえるひとを指すことばであって、世間に害をなす者のことではない。かさねていう。障害者はおのれの内部におのれの意のままにならぬものをかかえるひとであって、社会の障害になる者の意ではない。

●男性化と女性化のあいだで揺れる体

 兄は流産で死んだ。兄も染色体異常ではなかったかと新井は考えている。《染色体異常の子は多くの場合、生まれる前に死ぬ。だから数が少ない。》ホルモン異常が原因で小学生のころから「人間山脈」とあだ名されるほど体の大きな女の子で、そのためひどいいじめに遭う。教師もかばってくれない。70年代はそれがあたりまえだった。《「五体満足で生まれられただけでも、お母さんに感謝しなきゃいけないよ。」/と、染色体検査の結果が出たあとで、病院の医者に言われた。/俺は精神的にほとほと疲れ果てることが起きたりすると、いつもそれを思い出すようにしている。》だからことばの暴力ぐらいで簡単に自殺なんかするなと現代の子供たちに檄を飛ばす。それにしてもすばらしい医者だ。その一言がなければ著者の人生は悪い方に進んでいたかもしれない。

 中学までは女子で、生理も不規則ながらあった。男子とデートもした。ところが女子高に入ったとたん男子っぽくなってしまう。筋骨隆々として、女子が好きになる。《この時期は、自分が女だと思っていたぶんだけ、迷いが多い時期だった。》いまならインターネットがあるから情報も得られるだろうが、むかしは独りで悶々とするしかなかった。

 10代の終わりには男性が好きになり、すると心も体もメキメキ女っぽくなっていく。20代はさらに激しく乙女化し、結婚する。ところが入籍後3〜4年で倦怠期に入り《愛の営みの回数が極端に減った20代後半戦、高校生の頃のような体と心の「男性化状態」が再発してしまった。/女性ホルモンがみるみる減っていっているのが、外面的にも自覚できるほどにわかった。ヒゲや体毛が濃くなり、もともと不定期で少量だった生理がさらに滞りはじめた。》それにつれて女性に対する欲情も復活する。ホルモンに振り回される人生なのだろう。

 奇妙としか言いようがない。しかし魚類などでは珍しくないことだ。たとえばクロダイは生まれたときはすべてオスだが、そのうち分かれていく。またある種の魚はふだんすべてメスで単性生殖しているが、群れの生命力が衰えてくると一部がオス化して放精するという。まあ魚のばあいは内生殖器だけの問題だろうから、オスがメスに、メスがオスに変化したとしてもたいしたことではないだろうが、人間はそうはいかない。内生殖器はともかく、外生殖器はどうなっているのだろう。新井はそれには答えない。《股間の部品の変化に関しては、あまりにもエグクなりそうなので割愛させていただく。》うーん、知りたい。

 《俺自身も、中途半端で未熟な股間をしてるから、手術したら一見普通になれるのだろうけど、失敗が怖くてなかなかできない。》性器の手術で一番むつかしいのは、睾丸や膣よりも尿道であり、排尿困難になることもあるという。《また、膣形成の場合、穴があいたはいいけどほんのちょっとの浅い穴、とか小陰唇がない場合も結構あるようだ。/男も女も、性器の手術後は感度がかなり鈍り、オーガズムを得られない場合が多いというのも気になる点である。》テレビの「術後タレント」は明るく楽しそうにふるまっているが、嬌声のかげにはこんな苦労があるのだ。

  ●曖昧な性を許す時代

 むかしはオカマといったら水商売しかできなかった。しかし21世紀に入ってからわが日本のテレビはオカマチャン大流行で、ゴールデンタイムに「おネエ★MANS」などという、「おねえことば」を使う男性ばかりを集めた番組までやっている。しかし出演者が美容・ファッション・料理・華道などで名をなしたひとにかぎられているところをみると、やはりただのオカマチャンは水商売しかないのだろう。

 《20世紀の終わりとともに俺の女性時代は幕を下ろし、21世紀の始まりとともに男性時代が幕を開けた。/ビジュアル系バンドなど、90年代末の芸能&漫画界における「中性的な男」ブームで「中性的なもの」が世間一般に溢れていた時期だからか、性別のゆらぎに関しては不思議と悩まなかった。》

 曖昧な性の許されなかった昭和は、差別に満ちた時代だったと新井はふりかえる。21世紀になってから「男のくせに」「女のくせに」という男女を差別するせりふを公の場で使ってはいけないルールができたという。《性別だけでなく体に障害がある子とか、親がいない子とか、貧しい子とか、異国の子とか…なんにつけても「〇〇のくせに」と言って見下すのはよくないことだという概念を、最近の若い子は当然のように小学校のうちに教わってきている。いい時代になった。》時代は少しずつ進歩していると長年身障者生活を送っているわたしも思う。しかし性別のことなど考えもしなかった。SHAZNAなどのビジュアル系バンドは一時的なハヤリ、単なる商売のための新趣向だと思っていたが、それなりの意味、時代背景があったようだ。

 21世紀に入ってからは「殴り合いのケンカ」がなくなったというのが新井の観察だ。《校内暴力がさかんなツッパリの時代から、薬とエッチが渋谷を占めたチーマーの時代を経て、90年代中盤まではまさしく男の時代だった。》90年代の渋谷には「薬とエッチ」があふれていたというくだりで、ホーキング青山の幸せな筆おろしを思い出した。彼が原宿で知り合った女子高生とその日のうちにラブホで初体験をしたのは、たしか90年ごろだ(『お笑い! バリアフリー・セックス』ちくま文庫)。

 《90年代後期、若者の性は、乱れに乱れていた。/コギャルだけのせいではない。女子高生の価値の「価格破壊」に感化されたのか慌てたのか、20代以上の女性たちも80年代よりも奔放な性を楽しむようになった。/レディコミブームが原因なのかはわからない、乱交パーティーやハプニングバー通いをしたり、お金に困ってるわけでもないのにデートクラブで働いたりAVデビューしたりする娘が後を絶たず、現在よりもセックスは「やらなきゃ損!」という自由参加型アトラクションのような位置にあった記憶がある。》東電のOL(当時39歳)が渋谷円山町で夜ごと売春をくりかえしたあげく殺されたのは97年だった。一流会社のOLがなぜ、と大いに話題になったものだが、理由はこんなものかもしれない。