号外(2010.3 掲載) ●「家族力大賞」で東京新聞賞を受賞 東京都社会福祉協議会が主催する「家族力大賞 '09 〜家族や地域で『きずな』を強めよう〜」に応募したところ、さいわいにも東京新聞賞を受賞した。各受賞作は『家族力大賞 '09 作品集』にまとめられ出版された(東京都社会福祉協議会刊)。以下に拙作「優しさに包まれて」を転載する。
優しさに包まれて
1987年38歳の夏、突然の事故で頸髄を損傷し、全身麻痺の障害者になった。意識が肉体という名の独房に閉じこめられた状態といえばいいだろうか。動けないだけでなく背中の激痛も宿痾として一生背負うことになった。
子供は二人とも小学生だった。妻は惑乱し精神に変調をきたした。事故のショックは実家にもおよび、母と妹もやはり大きく体調を崩した。父は4人の患者をかかえ、「不幸が艦隊をなしてやって来た」と嘆きながらもわたしの入院先探しに奔走、なんとか国立病院に送り込んだ。わたしのような高位の(すなわち重度の)頸髄損傷者を受け入れるところは首都圏でもほとんどなかったのだ。妻は強い薬を服用してわたしの入院生活に付き添った。完全看護が建前の病院だが、全介助の重度障害者までは看護もゆきとどかない。
急性期を過ぎるとすぐ退院後どうするか選択を迫られた。在宅で暮らす重度障害者はまだ珍しい時代だ。ほとんどのひとは病院か施設で暮らしていた。「家族は一緒に住むのが当然。一緒に住もう」と妻は強く主張した。それはあるべき姿だが、しかしわたしの食事から排泄・入浴・着替えそして医療処置まですべて一切合切妻ひとりの肩にのしかかることになる。妻の診療に当たっていた精神科医も退院後の計画を聞き「それでは半年しかもたないだろう」と予言した。
「オレは一生病院暮らしでいいんだよ」とわたしはいったのだが、妻は譲らなかった。わたしはただ病院の白い天井を見つめるだけで何もできなかったが、さいわい双方の親兄弟親戚がこぞってわが家を支えてくれた。友人たちは、わたしに知らせず「藤川景を支える会」を作っていた。
◇苛酷な在宅生活
杉並区の実家を半分壊し、そこに障害者用住宅を建てさせてもらうことになった。入院から約1年後、排泄力を失った膀胱にカテーテル留置の手術をして、退院のはこびとなった。「毎日膀胱洗浄をすること、褥瘡をつくらないこと」という退院指導の最後に婦長は「奥さん、ご主人の面倒を見るのはあなたしかいないんですから頑張ってください」といった。
なにもない時代だ。家事は住込みの家政婦に頼み、介護を妻がするという態勢で在宅生活をスタートした。24時間介護であり、毎日「生存のための作業」が欠かせない。家政婦は頻繁にかわった。わたしの状態を見て驚き、来た日の夜に姿を消したひともいた。電話帳の「看護婦家政婦紹介所」欄をたよりに交代のひとを探す。かたっぱしから断られてしまう。とにかく妻の負担を軽減することが急務だった。泣きながらのケアは受けるほうもつらい。息詰まるような日々がいつ果てるともなく続いた。肝をつぶすようなことも頻繁に起こった。
血眼になって援助の手を探しているうち、次第に福祉事務所のケースワーカーが「介護券」(金券)の給付を取りはからってくれたり、また社会福祉協議会のボランティアセンター、地元の有償ボランティア団体とつながりができ、支援の輪は少しずつ広がっていった。
それでも妻は夫の重度障害を受け入れることができず、病はいよいよ篤くなり、1年たたぬうちに入院することになった。医師の予言が現実になった。家政婦のほかに看護婦も探さなければならない(名称は当時のまま)。まだ公的な訪問看護制度など影も形もなかったころだから、それはほぼ絶望的なことだった。
保健所もわが家の扱いには頭を抱え、特例的に週1回「訪問指導」という名目で保健婦を派遣してくれることになったがそれでは足りない。そのときわが家を救ったのはひとつの新聞記事だ。保健婦から渡された「在宅看護研究センター」を紹介するコラムをたよりに電話すると、すぐさま代表が駆けつけてくれた。聞けばわたしが負傷する前年に日赤総合病院の看護婦3人が職をなげうってボランティアからスタートした団体だという。官より早く民はとりくみはじめていたのだ。「ひとりで看ようと思ってはだめですよ奥さん。任せてください」と代表はいった。なんという相違。なんという幸運。
いつまでも慈善活動の好意に甘えるわけにはいかない。だからといって自助努力ではどうにもならない。身のちぢむ思いがつづいたが、1992年、要介護老人の急激な増加にせかされるようにしてわが区でも訪問看護制度や半官半民の介護協力員公社が始まった。それと同時に医師の定期的な往診が受けられるようになったのもありがたい。雨のなか病院までカテーテル交換にいくことがどれほど大変なことか。退院から4年、これでわが家の支援態勢は完成したといっていいだろう。
◇やもお暮らし十余年ののち
「人生は山あり谷ありだ」というが、あれはどういう意味なのだろう。山に登るのも谷に下るのも難儀なことで人生は苦労の連続だという意味に思えてならない。支援態勢の完成にもかかわらず、1994年、妻は憔悴しきって他界した。なにもかもが悔やまれた。すべて自分のせいだと意気消沈した。人手をふやしすぎたのだろうかとさえ思った。直後に阪神大震災が起こり、つづけて地下鉄サリン事件が起こった。日本中が悲しみの黒い雲で覆われているような気がした。
子どもは高校生と中学生になっていた。介護態勢は整っているから、精神的なストレスはともかく負担は比較的少ないはずだ。2003年に始まった支援費制度でヘルパー代が無料になったときは夢のようだと思った。わたし自身も自立の程度を上げるため、ストロー1本でテレビやエアコンなどをあやつれる環境制御装置、手を使わずに操作できるパソコンなどを導入。区のOTにてつだってもらいひとりで本を読む工夫もした。何事も自分でするのが一番楽だ。
夕食はいつもボランティアや介護協力員に食べさせてもらっていた。新しくできた店のことなど地元の情報を聞きながら食べるのは楽しい。老若男女みんな優しいひとたちだ。優しくなければこんなことに関わることはできない。ある年のバレンタインデーに若い女性が手作りのチョコレートをくれた。義理チョコであることはわかっていたが、「本気にするよ」といってみると、「いいですよ」と笑いながら答えた(そんなこといったっけと本人は今も否定するが)。バレンタインデーがあればホワイトデーがある。車椅子で入れそうな店に誘って独身であることを聞き出した。あとは押しの一手だ。数年かかったが結婚に漕ぎ着けた。出会ったときからわたしは重度障害者だから新妻はそれで悲嘆に暮れるようなことはないが、やはり相当の覚悟が要ったようだ。
トランプの遊びにマイナスを全部集めてプラスに変えるというゲームがあるそうだ。それだと思った。無論独力でなしえたことではない。わたしはいま優しさに包まれているのだ。
◆O氏(70代男性)
おめでとう!「家族力大賞」とはうれしいですね、ほんとに良かった。 全身麻痺の人の介護制度の歴史を丸ごと刻み込んだ生き証人の記録に、賞の選考委員も どんなにか衝撃を受けられたことでしょう。最後に新妻の優しさが書き込まれていて、 読む人すべてがホッとしたことでしょうね。この作品を得たことで、「家族力大賞」その ものが輝きを増したと思います。 それにしても、ホームページ巻頭の受賞シーン、いい写真ですね。 ここまで闘いぬいてきた戦士・藤川のなんと誇らしく美しく輝いていることか!本当におめでとう!! |