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 『「戦前」という時代』(山本夏彦、文藝春秋)

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●岩波書店と買切り制

 山本はしばしば岩波書店についてふれる。『私の岩波物語』(文藝春秋)という著作があるほどだ。創業者の岩波茂雄はよく「自分は一商人だ一町人だ」と言ったが、他人から商人扱いされると不機嫌になったという。

 岩波新書創刊当時意見を求められた吉田洋一という数学者は「岩波の本はともすれば高級になりがちなのでおもいきって通俗なところ、たとえば歌舞伎の話などどうか」と言うと茂雄は気乗りしない様子。《こうなればショックを与えるよりほかないと、たまには芸者の話なんかあってもいいのではないかと言ったら腹を立てたらしく「吉田さんは私の志を理解してない。私は大衆を引上げたいのだからそんな低俗なものはいやだ」と苦い顔をした。》大正15年ごろの話だ。茂雄が難解なものを好んだのは、彼が東大哲学科を出たからだろうと山本は見る。いまのところ岩波書店最高のベストセラーは永六輔の『大往生』だから、やはり大衆としては通俗的なものを欲しているのではないか。といって通俗的なものばかり出していると、権威がなくなるが。

 岩波は大正のはじめに神保町で正札販売の古本屋をはじめた。《古本屋の主人はすべて小僧あがりで書生あがりは岩波ひとりである。》そのうち出版が成功して古本屋の看板はおろせるようになった。書店といえば新刊書店を指すのが現在の語感だから「岩波書店」という社名には違和感があったのだが、こういういきさつがあったのだ。

 岩波が委託制を廃して買切り制にしたのは、本でさえあれば売れた戦争中のことだという。しかし買切り制にしたいのはどこの出版社も同じ、ひとり岩波だけができたのはすでにその当時から権威があったのだろう。

 《本の取次店というものは問屋に似て非なるもので、問屋なら仕入れるが取次は取次ぐだけで買わない。》そうか、それで出版界だけ問屋といわずに取次というのか。取次も書店も、売れなければ出版社に戻す。危険負担がないから商品知識がないと山本は批判する。《取次はただ取次いで一万部預かると二、三割を手形で貸すから金融業に近い。よしんば五割返品になっても二、三割しか貸してないから損はしない。(中略)版元は苦しければ苦しいほど新刊を出して取次から借りようとする。書店は新刊がおしよせてきて応接にいとまがない。並べる棚がないから極端なのは荷を解かないで返すという。》それはやはり極端な話で、わたしが目撃したのは、店長が取次から送られてきた段ボール箱をあけて中身をひとにらみし、売れそうなものを数冊抜き出してふたを閉じるという光景だった。つまりほとんどの本は文字どおり日の目を見ないのだ。

●篠原敏之と親しかった山本

 《わが社では誰でもはじめしばらく受付をつとめることになっている。受付にいると客が来る。客は多く「室内」または単行本を買いに来る読者である。次いで小売り書店と取次店(問屋)と、執筆者と希に広告主である。二三ヵ月たつと、客が何者であるか、ひと目で分るようになる。大学出が警察につとめると、しばらく交番に立たされるのに似て、半年もここに立っていれば今月号は売れているか否か、成績まで分る者には分るようになるのである。》

 山本と中央公論事業出版の社長篠原敏之は、山本のデビュー当時からの知合いだったと、本書で初めて知った。どちらのアイデアか知らないが、事業出版入社当時わたしも入り口に一番近い席にすわらされて来客の相手をした。電話を取るのも新入社員のしごとであり、社員旅行の幹事も新入社員の役目だった。

 中央公論事業出版は自費出版物の製作会社であり、自社で企画を立てて出版する会社ではなかった。だからふつうの出版社の編集者とちがって中には編集権のあるようなないような微妙なしごとがあった。次のような文はいやな記憶を呼び起こす。《広告主は突然おりることがある。〆切直前におりられると、白いまま出せないので担当者は七転八倒する。そのために営業部員は自分が頼めば無理をきいてくれるスポンサーの二三を必ず持っている。編集部員も同じく持っている。突然はいるべき原稿がはいらないことがある。そのときは無理をきいてくれる執筆者の二三人を持っていなければ、それは一人前の編集者ではない。》編集権があるようなないような市販雑誌を担当させられたことがあった。3号でその雑誌が終わったとき、編集権も営業権もあやふやだからこういうことになると腹を立てたが、これを読んで自分は一人前ではなかったのだと苦く回想した。

●漢詩文も西洋文化も中途半端だが

 「明治の語彙」という一篇で山本は自分の文章について語っている。《父が倒れたのは私が小学校五年死んだのは六年のときだとはすでにいった。父は子供と話をしない父親の最後の一人だったから、私は父と話らしい話をしていない。父は終日茶室風につくった書斎にこもって妻子をよせつけなかった。食膳も自分だけ別だった。これは別に珍しいことではない。故にほとんど影響を受けていないようで実は受けている。その死後夥(オビタダ)しく残された新聞雑誌の切抜きによって私は明治の語彙を短時日に吸収するにいたったのである。中学一年生の力で吸収したのだからたかが知れてはいるが、当時の新聞雑誌の体裁目次の顔ぶれをおぼえてしばらくは明治三十年代を呼吸したのである。》その体験が山本の語彙をつくったと。

 山本少年は「しまった」と悔やんだ。なぜか。《口語文の欠点は荷風や谷崎のような文語文の時代に生れた人には分るが、次の時代の口語文の時代に生れ育ったものには分らない。》明治12年生まれの父が遺した明治年間の古雑誌を昭和4年に読んだ夏彦少年は、身のまわりに口語文の雑誌しかないのに気づき、「一代の文化の断絶を目のあたりにして」しまったと悔やんだというから恐れ入る。

 文化の断絶とは何を意味するのか。まず口語文は文語文に及ばない。「先生逝きて既に三年今年の忌日(キジツ)も亦過ぎたり。駒光(クコウ)なんぞ駛(ハ)するが如きや。」この荷風の一節を口語文になおすと「先生がなくなって三年たった。今年の命日もまた過ぎた。月日のたつのは何と早いことだろう。」口語文の欠点は何より語尾の単調にあると山本はいう。全体的にだらだらしてリズム感がないのも欠点だろう。

 加えてわたしたちは語彙そのものを失った。《私たちは震災と戦災で建築のすべてを失った。残るは言葉のみである。言葉で過去を構築するよりほかないのである。そしていま言葉は急速に失われようとしている。その例はすでにあげた。話を茶にすると書くと必ず茶化すと誤植される。泰西名画と書いたら泰西って何かと問われた。だから私は急いで知るかぎりの字句を並べようと思う。今ならまださながら父祖の声をきく思いがすると言ってくれる人があるが近くなくなるから、まず明治大正の語彙にさかのぼって当然江戸時代に及びたいと思う。》しかしもう手遅れではないか。駒光なんぞ駛するが如きやといわれてもわたしには分からない。だらしなくても現代口語文でいくしかない。

 日本人の漢文力が大きなダメージを受けたのは明治時代半ばだったという。《漱石の弟子の年長者は漱石と年は十か十五しか違わない。それにもかかわらず漢詩文の伝統をつぐ者がないのはここで重大な変化がおこったと知れるのである。》その原因は頼山陽の『日本外史』を楽しみとして読む習慣がなくなったからだろうと山本は推測している。明治の半ばを過ぎても学生は「勉強」としてなら読んでいるが、それでは血となり肉とならない。《さりとて西洋の古典も同じく血となり肉となっていない。》われわれの教養は中途半端なものになった。ということは文化の足腰が弱くなったということで、文章にかぎらず人生のあらゆる局面でふらふらした方針しか立てられないのはそのためではないかと、ウーン、ちょっと責任転嫁みたいだけど、そんな気がしないでもない。

 幸徳秋水は「兆民先生」という文の中で兆民の言葉を伝えている。「世間洋書を訳する者、適当な熟語なきに苦しみ、妄(ミダ)りに踈率(ソソツ)の文字を製して紙上に相踵(ツヅ)く、拙悪見るに堪へざるのみならず、実に読んで解するを得ざらしむ。是れ実は適当の熟語なきに非ずして、彼等の素養足らざるに坐するのみ、思はざる可けんやと。/〇又曰く、漢文の簡潔にして気力ある、其妙世界に冠絶す。泰西の文は丁寧反覆毫髪を遺さゞらんとす。故に漢文に熟する者より之を見る、往々冗漫に失して厭気を生じ易し。」翻訳者は漢文の素養がないものだからふさわしい訳語をあてることができず、しかも欧米の文章はもともとくどいので訳文はとかく長たらしくなってしまう。兆民は「ルソーの『エミール』だって長すぎる。自分に翻訳させたら3分の2に減らせる」と言ったそうだ。《私は兆民のいうことは一々もっともだと思っている。ことに泰西の文が冗長だということは肝に銘じている。》と山本。

 アメリカのノンフィクションはどれもあきれるほど分厚い。わたしは早川書房にいたころ上司から「翻訳するとページ数は1割5分ふえる」と教わった。一巻本で出せば高価なものになり、かといって上下に分けると下巻の売れゆきが悪い。兆民にまかせれば300ページの原書も、200ページにしてくれるだろう。《けれども兆民の書いたものはもう読めない。当時だって読めるものは少なかった。》ダメダコリャ。

 しかしだ。漢文力が失われ西洋文明の吸収が中途半端なため文化の足腰が弱くなったとしても、われわれはそれでいくしかない。鎖国をつづけて漢詩の平仄を合わせていればよかったのだろうか。現代の日本人だって捨てたものではないとわたしは考えている。たとえばマスコミはしきりに現代人の「活字離れ」を憂うが、芥川龍之介の初版は500部だったと聞けば、いまこそ活字は隆盛を極めているとわかるのではないか。明治の文豪のような天才はいなくても、作家も読者も全体の平均点は上がっているのだ。ムカシは勉強することが少なくてよかった。奈良時代の学生は楽だった。日本史の授業なんて1時間ですんだ(笑)。

●おはずかしい! 経験不足で誤読

   緑雨の「ひかへ帳」から吉原のエピソードを引用している。「〇あの妓(ヲンナ)をと紳士より望みて、已に一夜の約定もとゝのひしが、いざとなりて待合の女将にむかひ、病(ヤマ)ひ気(ケ)はと問ふに大丈夫と答ふるを、ほんたうかと紳士の念を入るれば、ほんたうですとも、みなさんが爾(サウ)仰有(オツシャ)ります。」ミナサンガソウオッシャリマスが笑いのツボ。皆さんのうちの誰かにうつされているのではないかという理屈が背後にあるのだろう(……と、わたしは読んだ)。

 しかし山本は緑雨を引用したのちこう述べる。《「病ひ気は」と聞くとは始めて読んだ。一番大事なことなのにこれを書いたものがない。女郎は検査がある。かりに毎週月曜にあると少しでも病いの気のあるものは休ませられる。故に客は火曜日なら安全だと聞いたことがある。遊里の検査なんかいいかげんかというと壮丁には徴兵検査があったので、国は性病と脚気をおそれて検査はきびしかった。(中略)/芸者は芸を売って色を売らないことになっているから検査がない。だから「病ひ気は」と聞いたのだろう。性病をわずらわない妓はいないという。慢性になっているのだろうが、もしそうならどんなにうららかな日でも心持は悪かったのではないかと今ごろ私は案じるのである。それをかくして女たちははしゃいでいたのだろうか。》

 ここまで書き写して自分の誤読に気づいた。わたしは《それをかくして女たちははしゃいでいたのだろうか。》という着眼点に心をうごかされ、《通だの粋だのといってもそれは病気とうらはらにある。(中略)私は花柳小説の多くがこれに言及しないのは、言及すると小説がこわれるからだとは思うが、緑雨は上手にふれている。それにしても少ない。》という指摘に同感してこの一節を引用しようと思ったのに、いま女郎と芸者を混同していたことに気づいた。吉原の話だというから「あの妓」とは女郎のことだと思い込んだ。「待合の女将」ときた段階で芸者だと気づかなければいけなかった。だから《芸者は芸を売って色を売らないことになっているから検査がない。》これが笑いの背景で、売らないことになっている色を皆さんが買っているという点が笑いのツボだったのだ。女郎も芸者も実体験がないからこんなミスをする。これも「文化の断絶」のひとつだろう。